西洋占星学 -星脳®︎-

星脳®︎の暁瑠凪は、西洋占星学研究家として人生を星よみの研究、実践、鍛錬の日々を繰り返して参りました。

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2022年12月6日火曜日

挑戦〆リポート〆(25)



挑戦〆リポート〆(25)


◆【文化人類学特講】設題1

書籍名:「東アジアで学ぶ文化人類学」

著者:上水流久彦ほか編

設題1:序章、1章を除き、テキストの章に関連するテーマを一つ選び、それに関連することを調べて、3200字程度にまとめ、リポートしてください。


11章 観光 より

 釜山と対馬の交流から考える 中村 八重


1.観光を学問する


観光が学問になるのか、というのが最初の感想だった。そこから視点を移して行くと観光の見方を変えることが出来た。観光学というのもあり、観光を学問的に捉えることが出来る。そこで調べてみた。「観光学(かんこうがく)とは、観光に関する諸事象を研究する学際的学問である。ただし、学問としてまだ日本では体系化されていない、という研究者もあり、観光論、観光研究、ツーリズム研究と称される場合も多い。さらには、観光と観光以外を科学的に区分することの意味合いが薄れてきており、外形的にとらまえられる人の動きを中心に人を移動させる脳の働きに着目した人流学を提唱する研究者も登場している。」(『観光学がわかる』アエラ・ムック、2002年)


とは言え、現在はコロナ禍にあり、残念なことにリアルな往来が不可となっている。どのマスコミもこれによる経済損失を大々的に発表している。いまは内需拡大を図ることに力を入れるも施策虚しく、かなりなダメージを受け、変容を余儀なくされた観光業関係者は少なくない。

そこまで観光が世の中に影響を与えるとは思わなかったため、大変驚愕している。これは観光業関係者ではない者の多くの人が感じていることだと思える。


しかしながら、観光を文化と文化の交流、もしくは繋がりや絆と捉えることでバランスを取ることが出来るのではと思える。


2.観光の見方


一つには、テキスト内にある「ホストとゲストとして考える」とあったものだ。この考え方で行けば、リアルに会えなくても、リモートでも可能なのではないか?ネットを駆使したリモート旅などももう始まっている。確かに文化はリアルに限るとは思うが、多種多様の文化が繋がることにより、よりディープな交流が出来る可能性があると感じた。そして、観光という観点からみても切り口がたくさんあり、文化人類学の多様性と将来性を感じた。


例えば、ネットを通じ、韓国の方と繋がり、ハングルを勉強して、日本に住む韓国人とハングルで話す。韓流と言われるドラマやアイドルのファンになったことで韓国に興味を持ち、毎年旅に行く。(現在は無理だが)身近な知り合いも楽に、簡単に行き来しているのを目の当たりにしていた。これぞ、市民交流の見本のような形である。話を聞くと隣国なんだなと思える。これはあくまで平和だからこそなのだと強く思う。一度、有事になれば、ことは叶わず、交流どこではない。国力ということも試されてしまう。パンデミック後、特に日本が直面している全てにおいての海外依存の露呈。生産しかり、輸出入しかり、経済活動のひとつとして、観光も当然そうなのだ。


しかしながら、観光の観点から文化人類学をみていく、また、文化人類学にとっての観光を捉えてみる。これはいまだからこそ、大変重要に思える。


3.対馬を訪れる韓国人観光客/4.ホストとゲストを考える


世間的によく言われることではありますが、観光客が増えるのはいいことなのか。という話題⁈や課題⁈。

ゲストは観光旅行を通して心身ともにリフレッシュできるなど、その土地の歴史や文化を学ぶ。一方、ホスト側はゲストが多く訪れることで地域経済が潤う。観光は、ゲスト側にもホスト側にもメリットがあり、デメリットもある。という事実です。

例えば、ホスト地側に受け入れの準備ができていない場合、ゲストの増加はかえって地元住民のストレスになる。実際、不慣れなゲストが増えることで、人気のスポット周辺で混雑が生じるといった問題も現実にある。また、ゲスト側が生む混雑は、リラックスを求めてその土地を訪れる別のゲストにとってもストレスの種になる。ゲストの増加は、その土地の活気につながる面もあり、一概には良いとも悪いとも言い切れないのが難しいところではある。そこでその国のマナーなるものを冊子にする例も多く見られる。マナーの違いや誤解からすれ違う可能性も視野に入れて、お互いが工夫し、理解し合うことが大切だと言える。この章にあるこの相互理解に関してよくわかる事例があった。「『従業員教育が必要。自分が韓国に行ってこんな対応をされたら嫌。日本に対して悪い感情を持ってほしくないから。韓国のすることは嫌いだけど』と話していた。」とあり、こう結んでいる。「観光という現場はホストとゲストの出会いの場所であり相互作用の場所であるが、当事者たちにその意識がない場合には、ズレや葛藤が生じる。」同感でしかない。


5.他者理解としての観光


文化違いがあるから、興味関心が生まれる。また、国が違えど相通ずるところがある。特に東アジアに関しては、東洋という括りで見ると共通点が多い。それは、古代より知恵と知識の文化交流があったからに違いない。しかしながら、各国の国民性の違いもみて取れる。

この同じという部分や相反するところを身近で感じ取れるのが、観光なのだ。


その意味では、他のどんな研究よりも観光を通じて、ゲストやホストになりながらフィールドワークとしての観光は有意義であるといえる。


まとめ

文化人類学に戻ると、他者理解として観光を見ることができる。地球規模、またはこれからの時代、宇宙規模で考察して行く重要性を感じざるえない。


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート

挑戦〆リポート〆(24)



挑戦〆リポート〆(24)


◆【神話伝承学概論】設題2

書籍名「古事記はいかに読まれてきたか」

著者:斎藤 英喜

設題2:卜部・吉田(第四章)、その神話解釈の特徴と「古事記」の意義(よまれ方、価値づけ、関係)について論述しなさい。


吉田兼倶の神道説について


卜部家の『古事記』の読み方、とくに『釈日本紀』における『古事記』について、論じられていません。


卜部・吉田(第四章)、その神話解釈の特徴から論述していく。


卜部吉田家の神話解釈の特徴をまとめた。正史な日本書紀研究者として古事記を不可欠なテキストとしていた。伊勢神官とは別に古事記の写本として伝えてもいた。また、日本書紀の講師として称賛されていた。この講義は、聞き書きという形で残されている。神話に対し、皇国イデオロギー的解釈をしていた。それは『唯一神道名法要集』に見られる。そして、天文学と神話を結びつけ、天文神話として、独特なアマテラス解釈に繋がっている。天地・陰陽・万物の根元神として国常立神=虚無大元尊神と宋学知、仏教知の応用であったことはテキストP151にもある。


卜部・吉田(第四章)としての「古事記」のよまれ方の意義。


よまれ方は、前述したように正史な日本書紀研究者として古事記を不可欠なテキストとしていたこと、古事記の写本も伝えていた。日本書記の講師としても内容に古事記の引用とみられる部分がある。また、卜部兼文は、古事記を書写していたとされ、『真福寺本古事記』に注記が複数あることで証明されている。これは家門の面目と喜びを見出していたとテキストP159にある。日本書紀研究の一族であるとともに、日本書紀を理解するために古事記が不可欠な存在であったと言える。


卜部・吉田(第四章)としての「古事記」の価値づけの意義。


価値づけの意義は、兼倶が三石世界観のなかで日本書記と対比することから古事記が三部ノ本書とカウントされた意義は大きい。古事記の地位の獲得は兼倶の功績だと言える。前述したように正史な日本書紀研究者として古事記を不可欠なテキストとしていた事実からもわかる。


卜部・吉田(第四章)としての「古事記」の関係の意義。


関係の意義とは、伊勢神官とは別に古事記の写本として伝えていたこともあり、日本書紀の講師として称賛されていた吉田兼倶。ゆえに1468年、応仁の乱の戦火で吉田神社が焼け落ちた後、兼倶は動き出す。まずは、自邸内にあった「斎場所」を吉田山に移転させた。兼倶はこの斎場所を「日本最上神祇斎場」と呼び、神武天皇が橿原に都して以来、代々日本中の神を祀ってきた。「神社の総本山」であると宣言することができるなど、移転に際しては、後土御門天皇からは「日本国中三千余座、天神地祇八百万神」と記した勅額を頂いたのだ。そんなことができたのは、兼倶が朝廷の祭祀を担う役所である「神祇管」の最高位の祭官(神祇管領長上)だったからだ。兼倶は、自らの神道を「元本宗源神道」と呼び、天地開闢以来、国常立尊から天照大神、天児屋命へと脈々と受け継がれてきた一族であるとした。神道においては最高の血筋であり、しかも、天皇のお墨付きなのだ。


最後に


《参考文献》

吉田神道の四百年 神と葵の近世史 (講談社選書メチエ)    井上 智勝著



#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート

2022年12月3日土曜日

挑戦〆リポート〆(23)



挑戦〆リポート〆(23)


◆【神話伝承学概論】設題1

書籍名「古事記はいかに読まれてきたか」

著者:斎藤 英喜

設題1:本居宣長の『古事記伝』の特徴について、近世神話の観点から論述しなさい。


まずは、前回提出のリポートの短絡的な愚かさをお詫びいたします。


本居宣長の古事記伝の特徴とは、おおらかな古代びとの世界を背景としたこと、中世の注釈学である中世日本紀の系譜を引き継ぎ、普遍的な世界性を持たせたこと、西洋天文学を基礎にした太陽暦を取り入れていることであると結論づけてみた。


おおらかな古代びとの世界は、実際に京の都で経験した京の遊楽の生活から得たものであり、京の近世の通俗文化にふれ、儒教道徳とは違う感覚得ていた。また、研究の元でもあった源氏物語の仕組みや取り組み、言葉選びからも影響を受け、もののあわれを取り入れて、雅の世界観と古事記を統合し、表したのだ。


中世の注釈学である中世日本紀の系譜を引き継ぎ、普遍的な世界性を持たせることで、地域性よりグローバリズムを主張できるようにした。ここにもアマテラスは何ものであると言う天文学的視点が伺える。


テキスト内に注目すべき章があった。P34の「ニ章『古事記伝』と近世神話」だ。この章を要約すると、江戸時代であったことで、『古事記伝』が生まれたとする解釈だ。また、我々の記憶にある神話の殆どは日本紀ではなく、この『古事記』であることもわかった。我々がよく知る神話なのだ。本居宣長としては仮名を使うことが最善とわかりながら、平仮名を使うことが出来なかった。それにより『古事記』の口誦の語りを伝えることに力を注いだ。そして、そこには皇国の語=古語という意味を持ち、物語を伝える手法を用い、物のあはれを知る物語として、伝えたかったのだ。日本紀で培われ、古事記の読みの力により『古事記伝』を生み出したと言える。また、ある意味、江戸時代の日本人の宣長が、他国の影響を上手く活用し、徳川の世にも関わらず、徳川の影響も受けず、古典として書きあげたのだ。


テキストにおいても「アマテラスと西洋天文学」という節を設け、丁寧に解説している。その理由として本人自身が、改暦を経験しているからとの見解だ。学者であるがゆえ、誤差出ることや改暦しなければならないようなことがなぜ起きるのか?そこまでの暦の正解さがなぜ必要であったのか?そして、その正確な暦をどう活用されているのか?と疑問を持つであろう。近世のナショナリズムも当時の暦を世に送り出すことは、かなりな知恵と知識と労力がいったはずである。それをしてまで手に入れたかった理由はなんなのか?だからこそ、活路を西洋天文学に求めたのではないか?しかも天文学の使い手であったキリシタンとの関わりもこのことを示唆しているのではないのか。本居宣長の神話は神話だけに留まらず、天と人の関わりを表し、国文学者ではなく、天文学を取り入れた近世神話を創造した者であると言えるはず。また、別に斎藤英喜先生のパネルセッションの記述をみると「『近世神話』という新たな方法概念を提示し、 日本思想研究における射程と方法的可能性について問題提起を試みたものである。神話とは、世界や自分自身、また自らを取り巻くあらゆるもののルーツを追い求め、明らかにしようとする営みの中で形成されてきたものである。古代、中世はもちろん、 近世、近代、現代にいたるどの時代であっても、それぞれの時代を切り開くための『神話』が求められ、創造されてきたといってよい。」とあった。


当然、前述どおり、背景には宣長が愛する京都の香りがある。京都でこの『古事記伝』を生んだ。そして、中世日本紀の中の神々の血筋とされている天子様のお膝元の京都の地ということも外さず、地域性に留まらない世界性をその時代背景と自由で楽しげな都会人の感性から見出したのだ。


儒学、易学と習合させた教養=近世神道の世界である神道と神話の関わりが神話学だとしたら、それとは異なる世界観でこの古事記伝は成り立っていると言える。知り得る古事記の姿ではない近世神話として後世に語り継がれるだろう。


最後に、私観ではあるが、密教と密接な関係があると言われる源氏物語は、天体占星学に準えて書かれているとの説がある。ひかるみなもとの氏。この言葉ひとつで拡がる世界がある。この方を中心にそれぞれの人物像が星のフィルターを通し語られているとの想いを馳せることが出来る。その関心から派生し、研究していたとしたら嬉しい限りだ。


《参考文献》

論文  近世神話としての『古事記伝』--「産巣日神」をめぐって 斎藤英喜


[二〇一六年度大会パネルセッション]

近世神話の射程と可能性─ 神話概念の拡大─

鈴木英之 斎藤英喜   金沢英之 山下久夫


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート

2022年11月29日火曜日

挑戦〆リポート〆(22)



挑戦〆リポート〆(22)


◆民俗学【神話・伝承学】SR

神性を拡張する復活の喜び「折口 信夫」

著者:斎藤 英喜


1)授業内容を要約して下さい。


折口信夫(釈迢空)は民俗学者、国文学者、歌人・詩人、そして、神道学者である。2日間に渡り、神道学者としての折口信夫を中心にレクチャーを受けた。


折口信夫の成し遂げた研究は「折口学」と総称されている。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた1人だ。歌人としては、正岡子規の「根岸短歌会」、後「アララギ」に「釈迢空」の名で参加し、作歌や選歌をしたが、やがて自己の作風と乖離し、アララギを退会する。1924年(大正13年)北原白秋と同門の古泉千樫らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊した。

こうした活躍も幼少期には、この天才的な才能は理解されず、家族の中でも浮いている存在であり、厳しいしつけのため、折口も居心地の悪さは感じていたようだ。また、少年期に3度自殺を図ろうとしている。生涯独身を通した同性愛者であったのもこの頃の家族との記憶からなのではないかと思われる。


國學院大学時代、柳田國男を民俗学の師と仰ぐも、その後の論文などから柳田が民俗現象を比較検討することによって合理的説明をつけ、日本文化の起源に遡ろうとした帰納的傾向をしていたのに対し、折口はあらかじめマレビトやヨリシロという独創的概念に日本文化の起源があると想定し、そこから諸現象を説明しようとした演繹的な性格を持っていたとされる。その考え方の違いからか距離が離れていくが関係性は保っていた。


それからも学問の領域を超えて素晴らしい才能を現していく。その妖しい魅力的なカリスマ性から夢中になる門徒が多くいたという。学内を集団で闊歩する姿はカラスの群れのごとくなどと揶揄する者もいた。


また、奥三河で行われる大神楽に魅了され、毎年通い、鎮魂の研究もして行く。そこで古代に繋がる神仏融合をみることとなり、魂磨きをすることで人が神に近づけると確信を得ていくことになる。


ますます、自身の研鑽をする中、国策としての国学・神道=国民道徳論への批判、神道を宗教としない政府の考え方に真っ向から異議を唱える活動をした。同時に神道の大いなる可能性、民族教より人類教へと唱える流れとなる。折口信夫と神社本庁との闘いだ。


昭和三年、大嘗祭の現場から大嘗祭の本義を読み直すことをし、真床襲衾・天皇霊・まれびと神、天皇よりしろ説を推して物議を醸し出す。


そして、このころの数年間、コカインを常用していた。そのような状態の中、折口は口述して弟子が書記していたとのことだ。


最後に紹介いただいたのは、折口の暮石が2ヶ所にあると言うこと、一つは折口家の墓、そしてもう一つは最愛の戦死した弟子でもある養子の折口春洋(旧姓藤井)は家計をすわべて預かり、事実上の配偶者だった息子との墓だ。こちらには「もっとも苦しき たたかひに…… と刻まれた墓碑があり、春洋も自身も苦しい戦いであったことをトロしている。勇気を持ち、正直に自論を唱えることが、いつの時代も苦しいことなのだ。


柳田國男は一回生で学び、知っていたが、実のところ、折口信夫は詳しくは、知らなかったので、才能と魅力溢れるこの方に出会えたことは、これからも民俗学に触れる大きなモチベーションとなった。

 

2)卒論及び自分の関心との関わりを述べて下さい。

研究タイトルは()「西洋占星学と人との関係ー文化としての占星学ー」として考えています。

民俗学の観点から人と西洋占星学(星占い)との関係性と文化としての占星学の役割を占いを生業とし、占いに携わる人間として研究したい。

占星学に関わる人々はどんな人がいたのか、人はなぜこの学問を必要としたのか、そして、研究してきたのか、怪しいと言われるのは何故なのか、西洋と東洋に別れたのはいつ、どんな背景があったのか、占星学と宗教の関係は?占星学と政治との関係性は?占星学と医学との関係性は?占星学をどう扱い、生活、文化に活用してきたのか、またはしているのかなどです。


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート

2022年11月27日日曜日

挑戦〆リポート〆(21)



挑戦〆リポート〆(21)


 【西洋の歴史】設題2

書籍:「茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の世界」著者:角山 


設題2:テキスト『茶の世界史――緑茶の文化と紅茶の世界』について。

ヨーロッパに紅茶文化が果たした役割や与えた影響について、その歴史的背景を意識しながら論じなさい。


アジア航路を発見したヨーロッパ人が相次いで日本にやってきた。信長、秀吉、家康の時代である。その際の最大の発見は、テキストの中では「茶の湯」文化だと書かれてあった。東洋文化のシンボルだと謳っている。しかも東洋は豊かでヨーロッパは、貧国だと書かれている。私的なイメージからすると逆のイメージだ。現在の我々は多かれ少なかれ、いわゆる、西洋信仰なのだ。交易の歴史からみると古代には東洋の絹、中世では東洋の香料、近世から東洋の中国茶やインド綿。東洋のお茶と綿布がヨーロッパの資本主義を促進する契機となったとも記されている。だとしたら、この関係性が逆転されていった過程を知りたくなる。この興味を中心として、設題に取り組むこととする。


全くお茶をしらなかったヨーロッパ人と中国茶は、16世紀、くすりとして、またはもてなしの飲み物として出会った。日本茶は、茶の湯として出会い、神秘的文化のイメージを持ったのだ。その後、17世紀から茶葉の輸入が始まる。そのころのお茶の呼び名は、陸路と海路で違った。陸路のモンゴル、シベリアからロシア、ポーランドへ、もう一つはチベット、ベンガル、インド、中近東、トルコを経てギリシアへと南海航路を経た海路に大別されていた。陸路では広東語系のCHA、海路では福建語のTEAとなっていく。


オランダでは、17世紀、茶葉自体が高価であったため、上流階級の間だけで流行していった。当時、賛否両論あるもののくすりとしての立場で入った。その後は、茶の湯を真似た動きがあり、その中で本質的な茶のこころが、抜け落ちていたため家庭崩壊が生まれたようだ。そのことでお茶文化を無視できなくなる。そして、喫茶亡国論に繋がるわけだ。その一方で、庶民のお茶を研究したオランダのケンペルが、廻国奇観の中でお茶を詳しく紹介しており、いまでも高く評価されている誌書だ。


ドイツはお茶への誘導や反対論あるもののビールの根付きには敵わず、論争までには発展しなかった。

フランスでは、一時期お茶の文化の花は開くが、高価なものであったため定着はしなかった。


かたやイギリスは、一部オランダから高価なお茶が入ってくるものの広東と茶貿易を直接はじめていた。当初は、くすりの要素があると知られ、東洋の神秘に触れ、霊験あらたかなお茶を高価でも手に入れていく。くすりから飲み物へ変化したきっかけは、ポルトガルからイギリス王室へ嫁いだ茶趣味であったキャサリン妃と言われている。その後、東洋趣味のメアリ女王、アン女王のように、王室が関わることにより東洋文化、特にお茶が広がりを見せる。その頃、茶貿易はオランダよりイギリスが勝っていく。食生活、衣料の変化によりイギリスの生活革命がもたらされる。そして、当時、輸入品目の首位にお茶がなり、18世紀の所得拡大により、お茶が国民飲料になっていったのは周知のごとくだ。


テキスト内で逆転の過程が明らかになり、がっつりとお茶が絡んでいるのだ。


16世紀のスペイン、ポルトガルの新航路開拓。16世紀のスペインの繁栄を支えたのはメキシコ、ペルーの銀にあった。17世紀には、オランダが東洋に進出。この商業活動を支えたのは、日本の銀だとの説。当時、日本は世界有数の産銀国であったからだ。その後、日本国内の銀が枯渇、輸出が停止される。それがオランダの衰退に繋がるのだ。代わってイギリスが英蘭戦争をつうじて、アジアにおいての支配圏を拡大していく。イギリス東インド社の台頭だ。お茶が奢侈品から生活必需品へ。文化から資本主義的「商品」へと変化していった。1718世紀の貿易は、奢侈品の交換によるものであった。19世紀はじめ、金銀、時計との交換でお茶を中国から手に入れる方法から、銀の流出を防ぐため、植民地であるインドのアヘンに目をつけ、生産し、中国へ輸出する。そこで逆転し、中国から銀を獲得することにシフトした。


スペインを支えたメキシコ、ペルーの銀。

オランダを支えた日本の銀。

イギリスを支えた中国の銀。なのだ。


18世紀後半、ヨーロッパではイギリスを中心とした産業革命となり、構造的な変化が起こりつつあった。機械文明の幕開けにより、資本主義体制が形成されてゆく。その形成過程で犠牲を強いられたのが、アジアであった。イギリスが中国に仕掛けたアヘン戦争はあまりにも有名である。


一番茶に価値を見出すことから、船のスピード競争が生まれ、イギリスの強力なライバルであるアメリカ勢が台頭してきた。それにより船の建造技術が上がっていくこととなる。運河もしかり、欲というのはとてつもないパワーを生み出す、不思議なものだ。


その一方でインドでの茶葉栽培に力を入れようとする。19世紀、インドで野生の茶樹が発見される。アッサムティだ。しかし、当初は日の目をみない。最初の発見から10年ほど経ったころ、インド茶の製造が始まった。アッサムから北部へ、さらに南部、ヒマヤラのダージリン、南インドのニルギリへと茶園が拡大していく。200年続いた中国茶と肩を並べるのも時間の問題だった。中国の自由貿易を促すためにアロー号事件(2次アヘン戦争)もおきた。


日本はというと19世紀、鎖国を解き、アメリカをかわきりにオランダ、ロシア、イギリス、フランスと条約を締結した。他のアジア諸国と同様、半植民地化的、従属国型貿易構造の始まりだ。


お茶は文化から切り離され、資本主義的商品でしかなくなった。当時、世界商品になっており、戦争をも引き起こすほどの価値あるものになっていたのだ。そこからみるとヨーロッパの土地と気候、アジアの恵まれた土地と気候、この差を埋めるため、知恵と力しかないのだ。豊かさと豊かさを求める人々の抗いがヨーロッパの歴史とアジアの立場を作り上げた。資本主義を非難するつもりはないが、植民地的もしくは植民地にして、武力で従属させるという暴挙から逆転が生まれたのだ。


西洋かぶれと明治生まれの祖父母は、昭和生まれのわたしによく言っていた。椅子の生活、カップで紅茶を飲み、ケーキを食べる。洋服を着る、ベットで寝る。トランプをする。きっとどこか記憶の中に従属化された嫌な思いがあったのかもしれない。だからこそ、私の若い頃はまだ、花嫁修行のひとつとして、華道、茶道があったのだろう。日本独自のわびさびの世界へ身を投じ、作法と日本の伝統美を学ぶ。上流社会の学びが庶民にも手が届くようになった時代であった。かと思うと、時には祖父母とお新香、大福をおやつに緑茶、ほうじ茶を飲む。下町の風情といわれることもリアルに体験できた時でもある。本当の意味は分からずとも、生意気にも「あーあ、日本人だなー」との思いになった。そこは根底に流れる血がそうさせたのだろう。緑茶に日本を感じ、文化を感じることは間違いない。商品のお茶だけではないお茶には立派な文化がある。


グローバルが叫ばれる時代、世界史を通して、日本の立ち位置を見直したい。今度こそ、無念なき世界との交流を気を引き締めて、行っていただきたいものだ。若者が真の世界史を学ぶべき理由がここにある。


平和にみえる、いまこそ、お茶文化を楽しむべきで、本題からは外れるが日本の茶道を嗜むこととしたい。


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート

2022年11月26日土曜日

挑戦〆リポート〆(20)



挑戦〆リポート〆(20)


 【西洋の歴史】設題1

書籍:「子どもたちに語るヨーロッパ史」

著者:ジャック・ル・ゴフ

(監訳 前田 耕作、訳 川崎 万里)

設題1:テキスト『子どもたちに語るヨーロッパ史』について。

ヨーロッパ世界はどのように形成、発展してきたのか。また現代にどのような歴史的影響を与えているといえるのか。テキスト全体を意識しながら論じなさい。


長い期間(テキストでは18世紀まで、一般的には5世紀〜15世紀まで)偉大な創造の時代の中世を経て、ヨーロッパは創られた。ヨーロッパという言葉が現れたのは、ピウス二世が関わる条約、15世紀半ばなのだ。それ以前は、西ゴート族*1がローマを占領、略奪するところから始まり、カタラウヌスの戦い*3、西ローマ皇帝位をコンスタンティノープル*4に返上、ベネディクト会*5が創始され、ムハンマド*6没、ムーア人*7がスペイン征服開始、カール・マルテル*8がムスリム*12を撃退、カロリング朝*13始まる、第二ニカイア公会議*15、教皇シャルルマーニュ*16、ローマ皇帝戴冠。とここまでで8世紀、息が吸えないくらい濃い中世だ。


シャルルマーニュの帝国を分割大開墾開始、オットー大帝*17が皇帝即位し、ローマ帝国を創始、プラハに司教座を設置、カペー朝*18始まる。が10世紀だ。こうして宗教がヨーロッパに浸透していくのだ。


クヌート大王 デンマーク王とイングランド王兼任、西洋で大飢饉、ローマとコンスタンティノープルの断絶、征服王ウィリアム、イングランド王に即位、参事会*19成立、アルフォンソ6世トレドを攻略、第一回十字軍*20、フランドル沼地の干拓開始、グレゴリウス改革*21。が11世紀。まだまだ、混沌としている。


ロマネスク様式からゴシック様式に移行、ブーヴィーヌの戦い*221213世紀は修道院の話題が多く、すべての事柄が宗教に彩られている。


ダンテ「神曲」を執筆、ユダヤ人の虐殺、黒死病*23の大流行、教会大分裂始まる、フランスでユダヤ人の最終的追放、カルマール同盟*24締結、ヤンフス*25火刑、サンタマリアデルフィオーレ大聖堂建立、ジャンヌダルク火刑、印刷術を実用化、英仏百年戦争終結、印刷された聖書の誕生、教皇ピウス2世の在位、スペイン統一、イスラム支配の終焉、トルデシリャス条約。1415世紀、文化、技術の発展とともにヨーロッパの中だけではなく、世界へ、地球規模へと影響力を与える道筋が見えてくる。


歴史として、ヨーロッパ統一へと向かう流れを示し、メンタリティも含め、テキスト内で余すことなく語られている。宗教と政治にまみれた中世がヨーロッパを生んだという観点だ。先史からアジア、アフリカと影響しあって、戦い、移住、植民地化し、交易もさかんに行ってきた。文化も学問なども共通性を持ち、共に発展して来た。それは古代ギリシャ、ローマの文明が大きく関わっている。キリスト教の影響が徐々に浸透し、教会組織が権力を握ることとなる。それもまたヨーロッパの共通性を生んだといえる。ヨーロッパの共通遺産は学問と文化である。ここの中心もまた、教会なのである。この事から戦いも生まれ、本末転倒の感は否めない。宗教と戦争、この流れは悲しいかな、今も続いている。一神教の憂いだ。


改革、革命により、封建制度が終わり、近代へと移り変わる。その後、軍国主義であった日本も民主主義となり、西洋文化を崇める向きもあり、他国との関わりも変わって来た。欲を中心に発展する世界は終わりを告げているが、問題解決には、まだまだ時間が必要のようだ。


複雑なヨーロッパ史を紐解いていくと現代につながる世界史が見えてくる。ヨーロッパの多様性と統一性、国民の独立心、自由、伝統、独自性を守りながらも現在も離合集散を繰り返している。世界史が理解出来ないのは、ヨーロッパ史が複雑だからとの考え方に賛同せざる得ないくらいヨーロッパの歴史の流れは魅力的かつ刺激的だ。


・*西ゴード族-ゲルマン人*2の一派である。歴史上は、270年頃からこの西ゴート族と東ゴート族に分かれる。

・*ゲルマン人-原始ゲルマン人は中世初期に再編され、ゲルマン民族となり、4世紀以降フン人の西進によって、ゲルマン系諸民族は大移動を開始し、ローマ領内の各地に建国して、フランク、ヴァンダル、東ゴート・西ゴート、ランゴバルドなどの新しい部族が形成された。

・*カタラウヌスの戦い-ゲルマン民族の大移動の時代に、フン族と西欧諸民族連合軍の間で行われた会戦である。

・*コンスターティンノープル-東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。

・*ベネディクト会-現代も活動するカトリック教会。最古の修道会。

・*ムハンマド-イスラム教の開祖、軍事指導者、政治家。

・*ムーア人-北西アフリカのイスラム教、教徒の呼称。

・*カール・マルテル-メロヴィング朝*9フランク王国の宮宰。カロリング家出身で、トゥール・ポワティエ間の戦い*10でウマイヤ朝*11の進撃を食い止め、西ヨーロッパへのイスラム教徒の侵入をイベリア半島でとどめたことで名高い。

・*メロヴィング朝-ゲルマン人(西ゲルマン)であるフランク族の支族のサリ族が築いたフランク王国における最初の王朝である。

・*10 トゥール・ポワティエ間の戦い-732年にフランス西部のトゥールとポワティエの間で、フランク王国(9)とウマイヤ朝の間で起こった戦い。ツール・ポアティエの戦いとも表記する。

・*11 ウマイヤ朝-イスラム史上最初の世襲イスラム王朝。

・*12 ムスリム-「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教の信者のことである。

・*13 カロリング朝-メロヴィング朝(9)に次いでフランク王国12番目の王朝。宮宰ピピン3世*14がメロヴィング朝(9)を倒して開いた。名称はピピン3世の父、カール・マルテル*8にちなむ。

・*14 ピピン3-フランク王国の国王。フランク王国宮宰カール・マルテルの子。

・*15 第二ニカイア公 -787年に小アジアのニカイア(二ケア)で開かれたキリスト教の公会議。

・*16 教皇シャルルマーニュ-カール大帝とも呼ばれ、初代神聖ローマ皇帝とも見なされる。カロリング朝を開いたピピン3(14)(小ピピン)の子。ドイツ(神聖ローマ帝国およびオーストリアを含めて)、フランス両国の始祖的英雄と見なされていることから、ドイツ風とフランス風の呼び方を共に避けて英語読みのチャールズ大帝という表記が用いられることもある。

・*17 オットー大帝-中世ドイツの王。オットーはカール大帝に倣い、戴冠式をアーヘン大聖堂(エクス・ラ・シャペル)で挙行する。

・*18 カペー王朝-中世フランス王国の王朝。

・*19 参事会-自治都市の議決機関。

・*20 第一回十字軍-1095年にローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地エルサレムの回復のために始められた軍事行動。

・*21 グレゴリウス改革-11世紀に教皇グレゴリウス7世(在位:1073-1085年)によって推進されたカトリック教会の改革。 

・*22 ブーヴィーヌの戦い-1214年、フランス王国のカペー朝・フィリップ2世が、神聖ローマ皇帝オットー4世、イングランド王国のジョン、フランドル伯などの連合軍を破った戦い。

・*23 黒死病-ペストのこと。

・*24 カルマール同盟-1397年にデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの3王国間で締結された同盟(物的同君連合)。

・*25 ヤン・フス-チェコ出身の宗教思想家、宗教改革者。ジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手し、ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖宥状を批判し、聖書だけを信仰の根拠とし、プロテスタント運動の先駆者となった。カトリック教会はフスを1411年に破門し、コンスタンツ公会議によって有罪とされた。


《参考文献》

五十嵐ミドリ「西ゴート王国」『スペイン・ポルトガルを知る事典』牛島信明他監修


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート

2022年11月21日月曜日

挑戦〆リポート〆(18)(19)



挑戦〆リポート〆(18)(19)


 【インド哲学】設題1

書籍名:「インド哲学史」

著者:金倉 圓照

設題1:ウッダーラカ・アールニとヤージュニヤヴァルキヤのアートマン説について。


リポート本文記録忘れ


◆【インド哲学】設題2

書籍名:「印度哲学概論:学習の手引き」

著者:田中 典彦

設題2:転変説、積集説、縁起説について。


リポート本文記録忘れ


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート


2022年11月20日日曜日

挑戦〆リポート〆(17)



挑戦〆リポート〆(17)


◆【西洋の歴史】設題1

書籍:「子どもたちに語るヨーロッパ史」

著者:ジャック・ル・ゴフ

(監訳 前田 耕作、訳 川崎 万里)

設題1:テキスト『子どもたちに語るヨーロッパ史』について。

ヨーロッパ世界はどのように形成、発展してきたのか。また現代にどのような歴史的影響を与えているといえるのか。テキスト全体を意識しながら論じなさい。


長い期間(テキストでは18世紀まで、一般的には5世紀〜15世紀まで)偉大な創造の時代の中世を経て、ヨーロッパは創られた。ヨーロッパという言葉が現れたのは、ピウス二世が関わる条約、15世紀半ばなのだ。それ以前は、西ゴート族*1がローマを占領、略奪するところから始まり、カタラウヌスの戦い*3、西ローマ皇帝位をコンスタンティノープル*4に返上、ベネディクト会*5が創始され、ムハンマド*6没、ムーア人*7がスペイン征服開始、カール・マルテル*8がムスリム*12を撃退、カロリング朝*13始まる、第二ニカイア公会議*15、教皇シャルルマーニュ*16、ローマ皇帝戴冠。とここまでで8世紀、息が吸えないくらい濃い中世だ。


シャルルマーニュの帝国を分割大開墾開始、オットー大帝*17が皇帝即位し、ローマ帝国を創始、プラハに司教座を設置、カペー朝*18始まる。が10世紀だ。こうして宗教がヨーロッパに浸透していくのだ。


クヌート大王 デンマーク王とイングランド王兼任、西洋で大飢饉、ローマとコンスタンティノープルの断絶、征服王ウィリアム、イングランド王に即位、参事会*19成立、アルフォンソ6世トレドを攻略、第一回十字軍*20、フランドル沼地の干拓開始、グレゴリウス改革*21。が11世紀。まだまだ、混沌としている。


ロマネスク様式からゴシック様式に移行、ブーヴィーヌの戦い*221213世紀は修道院の話題が多く、すべての事柄が宗教に彩られている。


ダンテ「神曲」を執筆、ユダヤ人の虐殺、黒死病*23の大流行、教会大分裂始まる、フランスでユダヤ人の最終的追放、カルマール同盟*24締結、ヤンフス*25火刑、サンタマリアデルフィオーレ大聖堂建立、ジャンヌダルク火刑、印刷術を実用化、英仏百年戦争終結、印刷された聖書の誕生、教皇ピウス2世の在位、スペイン統一、イスラム支配の終焉、トルデシリャス条約。1415世紀、文化、技術の発展とともにヨーロッパの中だけではなく、世界へ、地球規模へと影響力を与える道筋が見えてくる。


歴史として、ヨーロッパ統一へと向かう流れを示し、メンタリティも含め、テキスト内で余すことなく語られている。宗教と政治にまみれた中世がヨーロッパを生んだという観点だ。先史からアジア、アフリカと影響しあって、戦い、移住、植民地化し、交易もさかんに行ってきた。文化も学問なども共通性を持ち、共に発展して来た。それは古代ギリシャ、ローマの文明が大きく関わっている。キリスト教の影響が徐々に浸透し、教会組織が権力を握ることとなる。それもまたヨーロッパの共通性を生んだといえる。ヨーロッパの共通遺産は学問と文化である。ここの中心もまた、教会なのである。この事から戦いも生まれ、本末転倒の感は否めない。宗教と戦争、この流れは悲しいかな、今も続いている。一神教の憂いだ。


改革、革命により、封建制度が終わり、近代へと移り変わる。その後、軍国主義であった日本も民主主義となり、西洋文化を崇める向きもあり、他国との関わりも変わって来た。欲を中心に発展する世界は終わりを告げているが、問題解決には、まだまだ時間が必要のようだ。


複雑なヨーロッパ史を紐解いていくと現代につながる世界史が見えてくる。ヨーロッパの多様性と統一性、国民の独立心、自由、伝統、独自性を守りながらも現在も離合集散を繰り返している。世界史が理解出来ないのは、ヨーロッパ史が複雑だからとの考え方に賛同せざる得ないくらいヨーロッパの歴史の流れは魅力的かつ刺激的だ。


・*西ゴード族-ゲルマン人*2の一派である。歴史上は、270年頃からこの西ゴート族と東ゴート族に分かれる。

・*ゲルマン人-原始ゲルマン人は中世初期に再編され、ゲルマン民族となり、4世紀以降フン人の西進によって、ゲルマン系諸民族は大移動を開始し、ローマ領内の各地に建国して、フランク、ヴァンダル、東ゴート・西ゴート、ランゴバルドなどの新しい部族が形成された。

・*カタラウヌスの戦い-ゲルマン民族の大移動の時代に、フン族と西欧諸民族連合軍の間で行われた会戦である。

・*コンスターティンノープル-東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。

・*ベネディクト会-現代も活動するカトリック教会。最古の修道会。

・*ムハンマド-イスラム教の開祖、軍事指導者、政治家。

・*ムーア人-北西アフリカのイスラム教、教徒の呼称。

・*カール・マルテル-メロヴィング朝*9フランク王国の宮宰。カロリング家出身で、トゥール・ポワティエ間の戦い*10でウマイヤ朝*11の進撃を食い止め、西ヨーロッパへのイスラム教徒の侵入をイベリア半島でとどめたことで名高い。

・*メロヴィング朝-ゲルマン人(西ゲルマン)であるフランク族の支族のサリ族が築いたフランク王国における最初の王朝である。

・*10 トゥール・ポワティエ間の戦い-732年にフランス西部のトゥールとポワティエの間で、フランク王国(9)とウマイヤ朝の間で起こった戦い。ツール・ポアティエの戦いとも表記する。

・*11 ウマイヤ朝-イスラム史上最初の世襲イスラム王朝。

・*12 ムスリム-「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教の信者のことである。

・*13 カロリング朝-メロヴィング朝(9)に次いでフランク王国12番目の王朝。宮宰ピピン3世*14がメロヴィング朝(9)を倒して開いた。名称はピピン3世の父、カール・マルテル*8にちなむ。

・*14 ピピン3-フランク王国の国王。フランク王国宮宰カール・マルテルの子。

・*15 第二ニカイア公 -787年に小アジアのニカイア(二ケア)で開かれたキリスト教の公会議。

・*16 教皇シャルルマーニュ-カール大帝とも呼ばれ、初代神聖ローマ皇帝とも見なされる。カロリング朝を開いたピピン3(14)(小ピピン)の子。ドイツ(神聖ローマ帝国およびオーストリアを含めて)、フランス両国の始祖的英雄と見なされていることから、ドイツ風とフランス風の呼び方を共に避けて英語読みのチャールズ大帝という表記が用いられることもある。

・*17 オットー大帝-中世ドイツの王。オットーはカール大帝に倣い、戴冠式をアーヘン大聖堂(エクス・ラ・シャペル)で挙行する。

・*18 カペー王朝-中世フランス王国の王朝。

・*19 参事会-自治都市の議決機関。

・*20 第一回十字軍-1095年にローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地エルサレムの回復のために始められた軍事行動。

・*21 グレゴリウス改革-11世紀に教皇グレゴリウス7世(在位:1073-1085年)によって推進されたカトリック教会の改革。 

・*22 ブーヴィーヌの戦い-1214年、フランス王国のカペー朝・フィリップ2世が、神聖ローマ皇帝オットー4世、イングランド王国のジョン、フランドル伯などの連合軍を破った戦い。

・*23 黒死病-ペストのこと。

・*24 カルマール同盟-1397年にデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの3王国間で締結された同盟(物的同君連合)。

・*25 ヤン・フス-チェコ出身の宗教思想家、宗教改革者。ジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手し、ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖宥状を批判し、聖書だけを信仰の根拠とし、プロテスタント運動の先駆者となった。カトリック教会はフスを1411年に破門し、コンスタンツ公会議によって有罪とされた。


《参考文献》

五十嵐ミドリ「西ゴート王国」『スペイン・ポルトガルを知る事典』牛島信明他監修


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