挑戦〆リポート〆(22)

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2022年11月29日火曜日

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挑戦〆リポート〆(22)


◆民俗学【神話・伝承学】SR

神性を拡張する復活の喜び「折口 信夫」

著者:斎藤 英喜


1)授業内容を要約して下さい。


折口信夫(釈迢空)は民俗学者、国文学者、歌人・詩人、そして、神道学者である。2日間に渡り、神道学者としての折口信夫を中心にレクチャーを受けた。


折口信夫の成し遂げた研究は「折口学」と総称されている。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた1人だ。歌人としては、正岡子規の「根岸短歌会」、後「アララギ」に「釈迢空」の名で参加し、作歌や選歌をしたが、やがて自己の作風と乖離し、アララギを退会する。1924年(大正13年)北原白秋と同門の古泉千樫らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊した。

こうした活躍も幼少期には、この天才的な才能は理解されず、家族の中でも浮いている存在であり、厳しいしつけのため、折口も居心地の悪さは感じていたようだ。また、少年期に3度自殺を図ろうとしている。生涯独身を通した同性愛者であったのもこの頃の家族との記憶からなのではないかと思われる。


國學院大学時代、柳田國男を民俗学の師と仰ぐも、その後の論文などから柳田が民俗現象を比較検討することによって合理的説明をつけ、日本文化の起源に遡ろうとした帰納的傾向をしていたのに対し、折口はあらかじめマレビトやヨリシロという独創的概念に日本文化の起源があると想定し、そこから諸現象を説明しようとした演繹的な性格を持っていたとされる。その考え方の違いからか距離が離れていくが関係性は保っていた。


それからも学問の領域を超えて素晴らしい才能を現していく。その妖しい魅力的なカリスマ性から夢中になる門徒が多くいたという。学内を集団で闊歩する姿はカラスの群れのごとくなどと揶揄する者もいた。


また、奥三河で行われる大神楽に魅了され、毎年通い、鎮魂の研究もして行く。そこで古代に繋がる神仏融合をみることとなり、魂磨きをすることで人が神に近づけると確信を得ていくことになる。


ますます、自身の研鑽をする中、国策としての国学・神道=国民道徳論への批判、神道を宗教としない政府の考え方に真っ向から異議を唱える活動をした。同時に神道の大いなる可能性、民族教より人類教へと唱える流れとなる。折口信夫と神社本庁との闘いだ。


昭和三年、大嘗祭の現場から大嘗祭の本義を読み直すことをし、真床襲衾・天皇霊・まれびと神、天皇よりしろ説を推して物議を醸し出す。


そして、このころの数年間、コカインを常用していた。そのような状態の中、折口は口述して弟子が書記していたとのことだ。


最後に紹介いただいたのは、折口の暮石が2ヶ所にあると言うこと、一つは折口家の墓、そしてもう一つは最愛の戦死した弟子でもある養子の折口春洋(旧姓藤井)は家計をすわべて預かり、事実上の配偶者だった息子との墓だ。こちらには「もっとも苦しき たたかひに…… と刻まれた墓碑があり、春洋も自身も苦しい戦いであったことをトロしている。勇気を持ち、正直に自論を唱えることが、いつの時代も苦しいことなのだ。


柳田國男は一回生で学び、知っていたが、実のところ、折口信夫は詳しくは、知らなかったので、才能と魅力溢れるこの方に出会えたことは、これからも民俗学に触れる大きなモチベーションとなった。

 

2)卒論及び自分の関心との関わりを述べて下さい。

研究タイトルは()「西洋占星学と人との関係ー文化としての占星学ー」として考えています。

民俗学の観点から人と西洋占星学(星占い)との関係性と文化としての占星学の役割を占いを生業とし、占いに携わる人間として研究したい。

占星学に関わる人々はどんな人がいたのか、人はなぜこの学問を必要としたのか、そして、研究してきたのか、怪しいと言われるのは何故なのか、西洋と東洋に別れたのはいつ、どんな背景があったのか、占星学と宗教の関係は?占星学と政治との関係性は?占星学と医学との関係性は?占星学をどう扱い、生活、文化に活用してきたのか、またはしているのかなどです。


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