挑戦〆リポート〆(21)

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2022年11月27日日曜日

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挑戦〆リポート〆(21)


 【西洋の歴史】設題2

書籍:「茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の世界」著者:角山 


設題2:テキスト『茶の世界史――緑茶の文化と紅茶の世界』について。

ヨーロッパに紅茶文化が果たした役割や与えた影響について、その歴史的背景を意識しながら論じなさい。


アジア航路を発見したヨーロッパ人が相次いで日本にやってきた。信長、秀吉、家康の時代である。その際の最大の発見は、テキストの中では「茶の湯」文化だと書かれてあった。東洋文化のシンボルだと謳っている。しかも東洋は豊かでヨーロッパは、貧国だと書かれている。私的なイメージからすると逆のイメージだ。現在の我々は多かれ少なかれ、いわゆる、西洋信仰なのだ。交易の歴史からみると古代には東洋の絹、中世では東洋の香料、近世から東洋の中国茶やインド綿。東洋のお茶と綿布がヨーロッパの資本主義を促進する契機となったとも記されている。だとしたら、この関係性が逆転されていった過程を知りたくなる。この興味を中心として、設題に取り組むこととする。


全くお茶をしらなかったヨーロッパ人と中国茶は、16世紀、くすりとして、またはもてなしの飲み物として出会った。日本茶は、茶の湯として出会い、神秘的文化のイメージを持ったのだ。その後、17世紀から茶葉の輸入が始まる。そのころのお茶の呼び名は、陸路と海路で違った。陸路のモンゴル、シベリアからロシア、ポーランドへ、もう一つはチベット、ベンガル、インド、中近東、トルコを経てギリシアへと南海航路を経た海路に大別されていた。陸路では広東語系のCHA、海路では福建語のTEAとなっていく。


オランダでは、17世紀、茶葉自体が高価であったため、上流階級の間だけで流行していった。当時、賛否両論あるもののくすりとしての立場で入った。その後は、茶の湯を真似た動きがあり、その中で本質的な茶のこころが、抜け落ちていたため家庭崩壊が生まれたようだ。そのことでお茶文化を無視できなくなる。そして、喫茶亡国論に繋がるわけだ。その一方で、庶民のお茶を研究したオランダのケンペルが、廻国奇観の中でお茶を詳しく紹介しており、いまでも高く評価されている誌書だ。


ドイツはお茶への誘導や反対論あるもののビールの根付きには敵わず、論争までには発展しなかった。

フランスでは、一時期お茶の文化の花は開くが、高価なものであったため定着はしなかった。


かたやイギリスは、一部オランダから高価なお茶が入ってくるものの広東と茶貿易を直接はじめていた。当初は、くすりの要素があると知られ、東洋の神秘に触れ、霊験あらたかなお茶を高価でも手に入れていく。くすりから飲み物へ変化したきっかけは、ポルトガルからイギリス王室へ嫁いだ茶趣味であったキャサリン妃と言われている。その後、東洋趣味のメアリ女王、アン女王のように、王室が関わることにより東洋文化、特にお茶が広がりを見せる。その頃、茶貿易はオランダよりイギリスが勝っていく。食生活、衣料の変化によりイギリスの生活革命がもたらされる。そして、当時、輸入品目の首位にお茶がなり、18世紀の所得拡大により、お茶が国民飲料になっていったのは周知のごとくだ。


テキスト内で逆転の過程が明らかになり、がっつりとお茶が絡んでいるのだ。


16世紀のスペイン、ポルトガルの新航路開拓。16世紀のスペインの繁栄を支えたのはメキシコ、ペルーの銀にあった。17世紀には、オランダが東洋に進出。この商業活動を支えたのは、日本の銀だとの説。当時、日本は世界有数の産銀国であったからだ。その後、日本国内の銀が枯渇、輸出が停止される。それがオランダの衰退に繋がるのだ。代わってイギリスが英蘭戦争をつうじて、アジアにおいての支配圏を拡大していく。イギリス東インド社の台頭だ。お茶が奢侈品から生活必需品へ。文化から資本主義的「商品」へと変化していった。1718世紀の貿易は、奢侈品の交換によるものであった。19世紀はじめ、金銀、時計との交換でお茶を中国から手に入れる方法から、銀の流出を防ぐため、植民地であるインドのアヘンに目をつけ、生産し、中国へ輸出する。そこで逆転し、中国から銀を獲得することにシフトした。


スペインを支えたメキシコ、ペルーの銀。

オランダを支えた日本の銀。

イギリスを支えた中国の銀。なのだ。


18世紀後半、ヨーロッパではイギリスを中心とした産業革命となり、構造的な変化が起こりつつあった。機械文明の幕開けにより、資本主義体制が形成されてゆく。その形成過程で犠牲を強いられたのが、アジアであった。イギリスが中国に仕掛けたアヘン戦争はあまりにも有名である。


一番茶に価値を見出すことから、船のスピード競争が生まれ、イギリスの強力なライバルであるアメリカ勢が台頭してきた。それにより船の建造技術が上がっていくこととなる。運河もしかり、欲というのはとてつもないパワーを生み出す、不思議なものだ。


その一方でインドでの茶葉栽培に力を入れようとする。19世紀、インドで野生の茶樹が発見される。アッサムティだ。しかし、当初は日の目をみない。最初の発見から10年ほど経ったころ、インド茶の製造が始まった。アッサムから北部へ、さらに南部、ヒマヤラのダージリン、南インドのニルギリへと茶園が拡大していく。200年続いた中国茶と肩を並べるのも時間の問題だった。中国の自由貿易を促すためにアロー号事件(2次アヘン戦争)もおきた。


日本はというと19世紀、鎖国を解き、アメリカをかわきりにオランダ、ロシア、イギリス、フランスと条約を締結した。他のアジア諸国と同様、半植民地化的、従属国型貿易構造の始まりだ。


お茶は文化から切り離され、資本主義的商品でしかなくなった。当時、世界商品になっており、戦争をも引き起こすほどの価値あるものになっていたのだ。そこからみるとヨーロッパの土地と気候、アジアの恵まれた土地と気候、この差を埋めるため、知恵と力しかないのだ。豊かさと豊かさを求める人々の抗いがヨーロッパの歴史とアジアの立場を作り上げた。資本主義を非難するつもりはないが、植民地的もしくは植民地にして、武力で従属させるという暴挙から逆転が生まれたのだ。


西洋かぶれと明治生まれの祖父母は、昭和生まれのわたしによく言っていた。椅子の生活、カップで紅茶を飲み、ケーキを食べる。洋服を着る、ベットで寝る。トランプをする。きっとどこか記憶の中に従属化された嫌な思いがあったのかもしれない。だからこそ、私の若い頃はまだ、花嫁修行のひとつとして、華道、茶道があったのだろう。日本独自のわびさびの世界へ身を投じ、作法と日本の伝統美を学ぶ。上流社会の学びが庶民にも手が届くようになった時代であった。かと思うと、時には祖父母とお新香、大福をおやつに緑茶、ほうじ茶を飲む。下町の風情といわれることもリアルに体験できた時でもある。本当の意味は分からずとも、生意気にも「あーあ、日本人だなー」との思いになった。そこは根底に流れる血がそうさせたのだろう。緑茶に日本を感じ、文化を感じることは間違いない。商品のお茶だけではないお茶には立派な文化がある。


グローバルが叫ばれる時代、世界史を通して、日本の立ち位置を見直したい。今度こそ、無念なき世界との交流を気を引き締めて、行っていただきたいものだ。若者が真の世界史を学ぶべき理由がここにある。


平和にみえる、いまこそ、お茶文化を楽しむべきで、本題からは外れるが日本の茶道を嗜むこととしたい。


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