挑戦〆リポート〆(24)

Main Posts Background Image

Main Posts Background Image

2022年12月6日火曜日

挑戦〆リポート〆(24)



挑戦〆リポート〆(24)


◆【神話伝承学概論】設題2

書籍名「古事記はいかに読まれてきたか」

著者:斎藤 英喜

設題2:卜部・吉田(第四章)、その神話解釈の特徴と「古事記」の意義(よまれ方、価値づけ、関係)について論述しなさい。


吉田兼倶の神道説について


卜部家の『古事記』の読み方、とくに『釈日本紀』における『古事記』について、論じられていません。


卜部・吉田(第四章)、その神話解釈の特徴から論述していく。


卜部吉田家の神話解釈の特徴をまとめた。正史な日本書紀研究者として古事記を不可欠なテキストとしていた。伊勢神官とは別に古事記の写本として伝えてもいた。また、日本書紀の講師として称賛されていた。この講義は、聞き書きという形で残されている。神話に対し、皇国イデオロギー的解釈をしていた。それは『唯一神道名法要集』に見られる。そして、天文学と神話を結びつけ、天文神話として、独特なアマテラス解釈に繋がっている。天地・陰陽・万物の根元神として国常立神=虚無大元尊神と宋学知、仏教知の応用であったことはテキストP151にもある。


卜部・吉田(第四章)としての「古事記」のよまれ方の意義。


よまれ方は、前述したように正史な日本書紀研究者として古事記を不可欠なテキストとしていたこと、古事記の写本も伝えていた。日本書記の講師としても内容に古事記の引用とみられる部分がある。また、卜部兼文は、古事記を書写していたとされ、『真福寺本古事記』に注記が複数あることで証明されている。これは家門の面目と喜びを見出していたとテキストP159にある。日本書紀研究の一族であるとともに、日本書紀を理解するために古事記が不可欠な存在であったと言える。


卜部・吉田(第四章)としての「古事記」の価値づけの意義。


価値づけの意義は、兼倶が三石世界観のなかで日本書記と対比することから古事記が三部ノ本書とカウントされた意義は大きい。古事記の地位の獲得は兼倶の功績だと言える。前述したように正史な日本書紀研究者として古事記を不可欠なテキストとしていた事実からもわかる。


卜部・吉田(第四章)としての「古事記」の関係の意義。


関係の意義とは、伊勢神官とは別に古事記の写本として伝えていたこともあり、日本書紀の講師として称賛されていた吉田兼倶。ゆえに1468年、応仁の乱の戦火で吉田神社が焼け落ちた後、兼倶は動き出す。まずは、自邸内にあった「斎場所」を吉田山に移転させた。兼倶はこの斎場所を「日本最上神祇斎場」と呼び、神武天皇が橿原に都して以来、代々日本中の神を祀ってきた。「神社の総本山」であると宣言することができるなど、移転に際しては、後土御門天皇からは「日本国中三千余座、天神地祇八百万神」と記した勅額を頂いたのだ。そんなことができたのは、兼倶が朝廷の祭祀を担う役所である「神祇管」の最高位の祭官(神祇管領長上)だったからだ。兼倶は、自らの神道を「元本宗源神道」と呼び、天地開闢以来、国常立尊から天照大神、天児屋命へと脈々と受け継がれてきた一族であるとした。神道においては最高の血筋であり、しかも、天皇のお墨付きなのだ。


最後に


《参考文献》

吉田神道の四百年 神と葵の近世史 (講談社選書メチエ)    井上 智勝著



#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート

Error 404

申し訳ございません。お探しのページが見つかりませんでした。
トップページへ戻り、検索などでお試しください。

トップページへ移動する