西洋占星学 -星脳®︎-

星脳®︎の暁瑠凪は、西洋占星学研究家として人生を星よみの研究、実践、鍛錬の日々を繰り返して参りました。

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2022年11月19日土曜日

挑戦〆リポート〆(16)



挑戦〆リポート〆(16)


【哲学】設題2

書籍名「連続をめぐる哲学-流れ・瞬間・同一性-

編著者:田山令史/斎藤慶典

(序論)

6章のうち、一つの章を選んで、まずその内容を正確に要約せよ。その上で、自分が疑問に思うこと、批判すべきだと思う点を詳述せよ。


(要約)

3 瞬間と創造

ーデカルトにおける〈私〉の連続性ー

「デカルトとライプニッツの考え方の基本線を紹介して、思考の練習のための材料を提供する」ことが目的だ。

「私」「今ーここ」

ここでは「再帰的な自己同一性(自己性)の意味での『私』について語っている」また「『今ーここ』」というときの『今』とはどのようなものなのか」ということも紐解いていく。「デカルトの哲学が『私』(『自我』)の存在の連続性について、時間との関係から、興味深い議論を示している」とあり、ライプニッツは、「『合理主義(合理論)(rationalisme)の哲学と称される。」また、イギリスの哲学者たちの「『経験主義(経験論)(empirisme)』と対比される。」とある。

私は存在する,私は考える〈間〉は

こちらでは「『誇張的懐疑』『方法的懐疑』」が紹介され、その「懐疑論を避けるための『アルキメデスの一点』として、疑っているときに、疑っている私の存在が確実であることを主張する。」そして「『私はある、私は存在する』という命題に行き着く。」とある。また、時間としての規定が与えられる定義として「デカルトは『考えるもの』であるかぎりで存在するということから、物体(身体)を『私』の属性から取りのぞき、『思考』のみを『私』の属性として認める」という。そして「デカルトの考える『神』とは」「形而上学的な神であることに注意しなくてはならない。」につながる。「私が今あり、そしてかつてあったということを思い出す、ということから、私の持続が得られ、それを物体に対して私は適用するのである。考える私は何ら物体ではないが、持続の観念は私の内にある、とデカルトは考える。」とある。「デカルトは、神を『無限実体』とし、物体と精神を『有限実体』としている。」とあり、「連続を考えるためには、無限の概念に依拠しなくてはならないということに過ぎない」とある。

連続的な創造=保存

「無際限に分割可能な非連続的な時間点(瞬間)を想定しつつ、同時に自我や物体などの持続を認めるためには、世界そのものを保存するような働きを、有限な時間点の集合の外部としての無限の場に認めなくてはならないということである。」論述されている。

ライプニッツの連続律

「『個体性』と『自己性』(再帰的な反省的な自己意識の構造)」が新たな意識を呼び起こすとある。「ライプニッツは、表象の移行を連続的なものと考えており、あらゆる自然の変化は段階を追って生じるのであって、『あるものは変化し、あるものは変わらない』と述べている。」とある。また、「デカルトが自我の連続を、連続的創造=保存という無限の原因から因果的な結果と考えている」に対して、「ライブニッソは、同一の自我における無数の表象の移行する変化の連続性を、目的因の観点から考察している」とある。ライブニッソは「『予定調和』の概念に頼る」とある。

「なにゆえ無ではなく,むしろ何ものかがあるのか」

例えると「運動中の物体や発育中の生物は、その瞬間瞬間には偶然的で無数の可能性を持つにもかかわらず、結局はある一定の方向を描き、それ以外の現実存在でありえなかったのはなぜなのか。ライブニッソはその根拠を神に求めた。」とある。

「私」の人格の保存

「デカルトが運動における力の量の保存を述べた」対して「ライブニッソは力の方向の保存を述べた」とある。また、「デカルトが生物を機械とみなした」対して「ライブニッソは分割不可能な有機体とみなした。」とある。「ライブニッソが『私』の人格の保存について語っている」のが【形而上学叙説】にあるとある。「デカルトにおいて『私』の連続性が保存され」「瞬間の連続的な創造によって」とある。「ライブニッソは、『私』が道徳的に保存され、同じ人格でありつづけることを主張する。」そして、「『なぜなら知性的な魂に、罰や褒美を与えることができるのは、この私の記憶あるいは認識だからである』」とある。「『私』が経験する   さまざまな出来事や行為が、時間的継起において、連続しているものとして経験されている、その多様なものの『総合』の経験するもの」とある。また「連続性を思考するのではなくて、経験する」ともある。「『私』という語は、概念的規定を逃れているように見えるが、多様な経験そのもの統一性の表示と考えることも可能である。」とある。「デカルトやライプニッツは神について形而上学的に語る」とそして、デカルトは「有限な人間には計り知れない原因として無限の神の観念があり、ライプニッツにおいては、有限な人間がその似姿であるような神の観念があった。ライプニッツは、無限の神と有限な人間にアナロジーを立てていたのである。」とある。「神に頼らないで、実体の恒存、因果性、相互作用を内的直観の形式から語ろうとしたのがカントである。」「カントの哲学は、デカルトの哲学が哲学史につけた折り目を、さらにもう一度折り返したと言える。」と結んでいる。


疑問と批判すべきだと思う点。


個人的には「神の存在」を信じている。精霊と呼ばれる存在や自然から生まれる非科学現象も。(科学は歴史が浅いのでここで記述すること自体あまり良くないのか?はわからない)そして、宇宙の中の一つの星、地球。解明できてないことが沢山ある。宇宙規模と表現されるくらい宇宙のスケールは巨大なのだ。比較すると人間の能力や存在は、小さな存在である。当然、この地球で感知出来ないことが起きてもおかしくはない。


だからこそ、「神は偉大だから」と安直に片付けられるのかもしれない。しかしながら、最終的に「神」へ落ち着けてしまうのはいかがなものだろうか?⇒ 疑問の提起

偉大な無限の存在の神。人間を創生したであろう神が、時間も管理し、宇宙に存在する。そう、落とし込む。先人の哲学者が深い考察と思考の元、論述したのだからと納めたいが、納まりの悪い感じが残る。⇒ 問いかけ


神には頼らずに有限な存在が経験を通し、連続性を語れるのか?以下は気になる部分を本文より抜粋した。

デカルトは有限な人間には計り知れない原因として無限の神の観念がある。と論じた。『考えるもの』であるかぎりで存在する。連続を考えるためには、無限の概念に依拠しなくてはならないということに過ぎない。と論じた。

ライプニッツは有限な人間がその似姿であるような神の観念があった。『私』が道徳的に保存され、同じ人格でありつづけることを主張する。連続しているものとして経験されている、その多様なものの『総合』の経験するもの。と論じた。


懐疑論からは、私はある、私は存在する。


カントは神に頼らないで、実体の恒存、因果性、相互作用を内的直観の形式から語ろうとした。


ゆえに「カント」の論述であれば、神という存在を引き合いには出さないことで納得がいく。私自身、無限の存在は、宇宙と捉えている。宇宙からの信号を受け、有限の存在が生かされ、活動し、保存されて、存在していると。その意味では宇宙=神なのかもしれない。⇒ 本論のまとめ

哲学を学び、疑問を持つ大切さ、疑問を持つ勇気、角度を変えることで学びがあった。〈私〉という存在が瞬間瞬間保存され、実体ある存在として、この地球に存在したい。⇒ 言いたい事


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート

2022年11月15日火曜日

挑戦〆リポート〆(15)



挑戦〆リポート〆(15)


◆【哲学】設題

書籍名「連続をめぐる哲学-流れ・瞬間・同一性-

編著者:田山令史/斎藤慶典

6章のうち、一つの章を選んで、まずその内容を正確に要約せよ。その上で、自分が疑問に思うこと、批判すべきだと思う点を詳述せよ。


2  刹那滅の哲学 ー瞬間的存在と連続ー

巻頭〜仏教の世界では「すべての存在は今の瞬間にしかない。それ以外は端的にまるごとないのだ」=「刹那滅」。そして「刹那滅」は「非連続である。」また、「非連続と連続の瞬間は同時であってインターヴァルはない。その同時性における転換の際が刹那滅なのである。」とある。

存在はひとりでに、瞬時に消滅する

⑴哲学の衝撃ー「刹那滅」、この異様な衝撃波

刹那滅とは「すべての存在は瞬間的に消滅すること」だ。そして、「どこにも知覚されない。『今』そこから到来すべき未来の時間的場所はない。」ということだ。

⑵「刹那滅」は「ものの変化」ではない

「インド仏教の『無常』は最終的に『刹那滅』へ展開するが、一般に『無常観』は、多くの場合そこに『変化』をみている」そして「『変化』は存在そのものが丸ごとなくなるのではなく、時間的様相と考えられる」ということだ。そして「すべて『今の一瞬』しかないのだ。」そう、ものの変化ではないということなのだ。

2つの否定ー相対的否定と絶対的否定

「『非存在』という知覚されない言語対象をあたかも存在するかのように虚構してしまうのである。」が「相対的否定」である。「存在それ自体が基体もろとも端的に存在しない」また「『まるごとない』という否定のしかたを『絶対的否定』と呼ぶことにしよう。」とある。

⑷相対的否定としての「いま」の排除機能

排除機能として「『今』が『未だ』と『すでに』を排除する。この『今』のもつ排除機能を相対的否定としてとらえると『未だ・未来』と『すでに・過去』は排除された」がしかし「その存在そのものは否定されていない。」という事だ。

⑸絶対的否定としての「いま」の排除機能

排除機能として「『今』は『今以外のもの』の存在をまるごと否定する。」という事だ。

「『今』に接続する私や世界の基体の存在は、相対的否定によって、2瞬間を空間の2地点のように同時に並存できると思い込んでいる概念構想(言葉の世界)の虚構なのである。」そして「『私自身がまるごといなくなる』という『死』は、死体というものにはない。」、「死体や灰は存在しているものだからだ。」という観点からみていくと「刹那滅は単なる断絶ではない。」そして「私という同一の基体まるごとの死はその最終瞬間の消滅と同時に新しい存在が創発する瞬間でもあるのだ。」ということだ。

⑹消滅・非存在から存在するー死から生きる

「すべては、今の一瞬間なのである。しかし、この『今』に私の同一性の拠点を置くことはできない。『今』という切断の瞬間、もはや『今』ではない。」と「『今』という言葉が『今』と重ならないのだ」となり、「『存在』という言葉の自己同一性が解体し、『自己差異性』として出現する」、「『存在』と『非存在』を二分する相互の排除・差異しか残されていない。」そこで「『今』には両義性がある。」と論じれる。

⑺スラッシュとしての刹那滅

「刹那滅ということが『すべての存在は瞬間的に消滅すること』であるとともに、『すべての存在は瞬間的にのみ存在すること』である」と刹那滅を論じている。そして「『存在が非存在になる』」「すべての存在するものは一瞬間も留まることなく刹那に滅する」また「『存在』と『非存在』という言葉の対象はそれぞれ自己同一性をもって固定された実在ではない[これを『空』による時間実体の解体とみることができるだろう]となる。「刹那滅は最終的には『/』というスラッシュのみで表現する以外ないように思われる。」につながる。

⑻自発的消滅ー存在はひとりでに瞬間的に消滅する

自発的消滅論とは「存在は1瞬間も自己同一性を保つことなく自発的に消滅する」ことを前提に「この自発性がインターヴァルを置かないという意味で存在は刹那滅なのである」ことになる。「生は死を本質としているという意味で死を前提している。」という観点と「死なないということは生きてないということなのである。」というそもそも論が存在する。

刹那滅を論証する

⑴ことばの対象ー他者の排除・差異

ここではアポーハを中心にまとめられ「相対的否定によって分けていた私たちの『言葉』」「その『存在』と『非存在』の差異線にそって」「言葉の差異線を遡行する。」と差異を語り、「二分する分節作用である否定的な差異線が」リアリティなのだ。そして「すべての世界がまるごと一瞬もとどまらず、刹那に滅する」とまとめている。

⑵「存在」の定義ー結果をもたらす原因(効果的作用能力)

「『存在』を『効果的作用をなすこと・結果を発生すること』と規定することを提案したい」は刹那滅の中での言葉「存在」とはにつながる。「『結果をもたらす原因としての能力をもつもの』が『存在』である」と「縁起」の独自解釈から来ているものだとある。

⑶「効果的作用」のモデル

モデルは2つ「第1の継続的モデルは」「種子としての最終瞬間が瞬間的に消滅すると同時に結果として発芽する。」があげられ、「第2の同時的モデルは」原因が消滅してその場所を空にすることによって結果を呼び込み、その場所に同時に結果が発生することになる」〔このモデルはダルマキールティによって与えられた〕とある。そして「第2モデルこそ基本的なもの」とあり、「原因総体の最終瞬間として、最期の生の努力の終わるところ」「縁起の構造連関としての結果が発現する。」と死と新しい結果を解説している。

⑷「効果的作用」の両義性

ここでいう両義性とは「本質的関係としての因果関係は、その結果を目的行為と読み替えることができると同時に、言葉に連動することができる。それ以外の効果的作用の排除が同一の効果作用を決定するように、それ以外の言葉の使用法の排除が同一の言葉の対象を決定するからである。」となる。「『排除作用』によっていることに注意」ともある。また、「原因は結果を目的として先取りすること」という記述にも注目したい。

⑸刹那滅論証

創造的仮説という切り口から「『およそ存在するものは、瞬間的なものである』という前提そのものの論理的必然性[インド論理学では遍充関係という]を証明しようとするのである。」と解説され、「刹那滅論証は仮説をどのようにジャスティファイ(正当化)するかが問題」とあり、「パースの『アプダクション』に非常に近い視点をもっている」と論述している。

⑹刹那滅論証A

方法論の⑸よりもより具体的に論述されている「肯定的必然性〔肯定的遍充関係〕」は「『実例』を知覚することによって確かめることはできない。」とあり、「否定的必然性〔否定的遍充関係〕」だと「『存在性』とは『効果的作用をなすこと』であるから、『非瞬間的なものは効果的作用をなすことができない』ということを証明すればよい」につながり、継続的作用と非継続的作用の両者を否定すれば、効果的作用をなすことが不可能になることが証明される。」となる。

⑺刹那滅論証B

「『およそ存在するものは、瞬間的なものである』という肯定的必然性に基づいて証明すべきであると考える。」のが、Bということだ。「刹那滅論証の『本質の差異』という結論は」「自己同一性として確定することが」「『最終瞬間の消滅が結果の発生であること』から『自己差異性・自発的消滅を本質』としているという刹那滅の両義性を表現している」となる。

⑻論証Aと論証Bの違い

論証Aは「『すべての存在は瞬間的なものである』の代わりに『非瞬間的なものは存在出来ない(- B→-A)を先に証明している。」論証Bは「『およそ存在するものは、瞬間的なものである』という肯定的必然性(A→B)に基づいて」とあり、「論証Bは肯定的関係先決型であるが、論証Aは逆に否定的関係先決型」であると、違いを示した。ここで論証A=「リアルな対象を示さない」内遍充論とし、論証Bは「リアルな存在に基づくべきだ」という外遍充論としている。

⑼刹那滅論証Bと直観主義論理

「この論証Bから論証Aへの批判は直観主義論理の視点に近い。」とある。P84の欄外用語解説「クリプキの『直観主義倫理のモデル』」で理解できる。

⑽刹那滅論証C

論証Cは「対偶をシンメトリーとみなして、論証Bと論証Aを同等とみなす。」とある。そして大変興味深い「『嘘つきのパラドックス』」が紹介されている。そして元々「哲学は『語り得ぬもの』を語らなければならない運命」と哲学の核心部とも言える論述がある。

刹那滅と連続

⑴知覚される瞬間的存在

「刹那滅であると判断することは、知覚判断という概念構想に基づいている」とある。また、「『一瞬間を画定する直接的把捉』として把捉しているはずである。」となる。

⑵創発する刹那滅

「日常のレヴェルの自己否定があって、初めて究極的レヴェルが創発される。」しかしながら「一般に真理は恒常不変で」「不変不動の基準でなければならないと思い込まれている」とある。

⑶刹那滅は連続するか

「連続性は刹那滅の切断を媒介にして成立する。」とある。「刹那滅の哲学は『未完の連続の哲学』だ」と結んでいる。

⑷刹那滅ー絶対者なき哲学スタイル

「唯一の絶対的真理よりも、境界線上に留まり続け、未完のままくとうすることを選ぶことこそ、哲学の最後の切札なのである。」となる。

インド哲学からの挑戦


疑問と批判すべきだと思う点と考察。


P60の⑴にある「この異様な衝撃波」とある。果たして、異様なのだろうか?また、P67の⑹にある「生は死によって初めて新しい生となってきらめく。生の意味は死によってはじめて与えられる」とある。誤解が生まれそうな文言であるこの部分を問いたい。


異様な衝撃波と言わしめた「刹那滅」それは一体なぜなのだろうか?


そこで、果たして異様なのだろうか?と疑問を提起したの理由について述べていくとともに誤解が生まれそうと感じた文言についても述べていく。

1.刹那滅、刹那に滅するとは、確かに強烈な印象を与えているが、だからこそ、未来に繋げたい。

2.奥深い部分に触れると哲学の醍醐味が、味わえる言葉だ。ゆえに異様ではないと思う。もっとポピュラーにしたい言葉だ。

3.ブッダの言葉「すべての形成されるものは消滅する。だからこそ心に集中し、努力せよ」なのだ。だからこそなのだ。心に沁み入る言葉だ。

4.次に誤解が生まれそうな文言について述べる。本文での刹那滅の伝え方でほかの部分において気になるところはないが「きらめく」だけが、気になる。

5.夢のある言葉が「消滅」と直結しているという受け方をしたからだということが要因なのだ。印象かもしれないが疑問を伴う。人の死に何度も向き合ってきた、祖父母の死、父母の死、ペット・生き物の死。身近な消滅を経験し、自ら消滅を選ぶ人を見てきたからこそ切ないのだ。夢がそこには1ミリもあってはならない。死はゲームのリセットとは違うのだ。8.たびごとに「また会おうね」というような思いになる。しかし、同じ存在に会うことがないのは理解している。同じ存在は消滅したのだ。

6.また、宇宙に目を向ければ、地球に存在する我々はちっぽけだ。時間軸も違う。人間の百年などは瞬きのごとくだ。

6.だからこそ、端的に刹那滅は一瞬間である以上連続としては捉えられない。といえるとしたい。ブッダの最後の言葉がちっぽけな一瞬の生ある我々の存在を生かしてくれる。


刹那滅は存在と非存在の究極の表現である。それでも存在は滅することを理解しているが、直視できない。一瞬という刹那よりも、ひとときでもこの世に連続していると思いたい。我々がそこまで、刹那滅を意識することない理由は、刹那滅が浸透していないということもあるが、逆に非連続であることを認めることで「きらめく」心を大切に瞬間を愛で、存在そのものを意識できるのではないか。


つまりP92の「ブッダ最後の『言葉』」 「すべてのサンカーラは消滅する。だからこそ心に集中せよ」すべてここにつきると言いたい。命ある限り、存在を意識していきたい。


刹那滅

すべての存在は、生まれた次の瞬間には消滅する。しかし一瞬前の存在を因として次の一瞬の存在を生じるのである。したがって常に連続的に存在することができ、しかも、その新しく生まれる存在は、一瞬前の存在と全く同じではない。という理論です。


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート

2022年11月13日日曜日

挑戦〆リポート〆(14)



挑戦〆リポート〆(14)


◆【三つの能力の関係を問う】設題1

副題:今後の学習計画と課題


(序論)

三つの能力関係を踏まえ、今後の学習計画と課題を問う⇒ テーマ


しかし、その前に学習経験、または方法はどうであったのか?読む(読んで理解)書く(アウトプット)問う(考えるの出発点)を念頭に置くと確かに読む、書くは出来ていた。明確な問うを可視化して来なかったのではないか?⇒ 疑問の提起


それにもかかわらず、次々と新しい話題、課題に翻弄され、新しいことに触れる喜びだけで満足し、明確な問うを意識出来ていない気がする。それは一体なぜなのだろうか?また、今後自立学習の計画を立てて行くにはどうすれば良いか?⇒ 問いかけ


そこで三つの能力の関係を踏まえ、今後の学習計画と課題を問うてみよう。⇒ レポートしたい事


(本論)

問うを実践する(課題)

1.手引き書により三つの能力を知ることができた。読む、書く、問うという能力だ。

2.読み、理解する。理解した事を書く事でアウトプットする。問う能力は二つの能力へ関わってくる。

3.読みながら、問う。書きながら問う。こうする事で考え、解決していく。

4.過去の学習経験でわかったことは読む、書くは出来ていた。しかし、要約文でしかない状態であった。

5.過去の学習経験でわかったことは読む、書くだけで学習を終わらせていた。結果、疑問を持たなかった。問う力(能力)がない。

6.過去の学習経験では明確な問うの意識がなかった。感想はあるものの疑問ではなかった。

7.今後は問う(考えるの出発点)への意識をすることが課題である。疑問を持つことだ。

8.知らなかったことを知れた喜びはある。問うは喜びだけでは終わらせない力があると理解し、そこから一歩踏み込む問うの意識を持つ。

9.問うことで一つ一つの話題、課題が深まると確信できる。疑問を持ち、解決する力だ。

10.問うは私自身にとって必要不可欠な能力になると手引き書を読み、理解した。


今後の学習計画を立てる

1.計画するにあたり、自身の立場、立ち位置はどうなのか?と問う。社会人であり、妻、母、嫁、祖母という役割がある。

2.1を見てしまうと言い訳のような時間のなさが浮き彫りにされて行く。しかし、乗り越えるには映像の中であった、自分を励ますとある。そう励ませば良いのだ。

3.2をうけて、どう励ますのかを問うてみる。以下46のように自問自答してみた。

4.まだ、1つ目の課題でありながら、歓喜している自分がいる。こんなに学習意欲があったのかと驚きを隠せない。

5.4年間に渡る学習の継続を鑑みるとスタートだから4のような現象が起きているのかもしれないと疑う。

6.学習の動機が待ちに待ったタイミングゆえに4のような意欲だとしたら、本気度がものを言うのか?この答えは4年後に出るはずだ。

7.どう励ますか?やっと来たタイミングなのだということ。長い間の思い。「楽しむべきだ」と励まそう。20代、30代、40代、50代、そして60歳になった今だからこそのタイミング。

8.どう励ますか?自立学習とはいえ、孤独ではない。「1人ではない」と励まそう。そのために歴史ある実績ある本学を選んだ。仏教という壮大な教えに裏付けされた導き。

9.学習計画を立てるにあたり、映像教材内の「必要なのは隙間時間を上手く利用する事である」や「5分の積み重ね勉強法」は強い味方だ。

10.計画に関しては無理なく余裕ある配分が望ましい。卒業まで、大量に書くリポートに押しつぶされないようにする為なのだ。


テキストP135(以下からT.P135と記す)に「読・書・問の能力がきわめて基礎的な学力だということ」のとおり、自立学習の三つの能力はこの学習の中心であると理解した。また、T.P133にあるように三つの能力が「連関しあっていわば螺旋的に向上していくこと」とある。この事は揺るぎない事である。T.P9にあるように「自己流に読むではなく、書かれている内容を正しく理解すること」なのだ。「読むことを意識的に学ぶ必要がある」とも説いてる。また、読んで理解する事は、文章だけではない経験することだとT.P27にある「生活や社会を観察することは、学問を『虚学』にせずに真の『実学』に結びつけることができる」と教えてくれた。映像教材にも「ある程度リアルな経験をする」や「教科書=講義」だと教えられた。T.P33の三つのステップも映像教材と合わせてみると理解しやすい。注意点としては「『残像』が消えないうちに」や「課題意識を忘れない」、「難所は後回しにせよ、ただし印しを残せ」だ。技術としての読むはT.P10にある「本人の価値観とも離れ、また著者の意図からもいったん離れて、文章に表現されていることがらを正確に読解する必要がある」と解説されていた。書くに関連して映像教材内の読むの章にあった「読まなければかけない」や「WhyWhatHow」など知識を取り入れ整理する為であるということ。T.P12の「『行間を読む』より『行間に書く』こと。第1章第1節⑵の見出しである「読むから書けるレポート」、「沈黙のテキスト」、「読むから読める」というセンテンスはわかりやすいかった。特にT.P14の「テキストに『語らせる』必要がある。」は一番心に響いた。書く章ではT.P59の「放電」は納得である。なぜの節に三つの効用があることも知り、レポートの性格は「出された課題に対する報告」と理解した。どのようにの節では、「その論拠を事実をあげて論ずる必要がある。」「私的体験は一般的な証拠にはならない。」で具体的にみれた。T.P73のレポートの4つのステップを踏まえて書く。そして、T.P134に本文中で「限定してきた対象よりも拡張することができる」ということ。技術等を初めて知ることが出来、それを軸に学習を進めていく。映像教材にもあった「高める為にメディアを利用する」ことも活用する。問うという事へ踏み込んで行く。そして、私自身も改めて自立学習をするんだと決心した。しかしながらそれでも、リポートを書くという行為は学ぶ者として皆、不安が伴う。皆がと思えたのは映像教材の中やT.P64で紹介された「学習の不安」第1位で約70パーセントの方が持つレポートへの不安である。克服する方法として「レポートを書いてみて」とあった。また映像教材内の「レポートの悩み」を視聴することで書くことへの不安は少し払拭された。タイトル決めもT.P81の「視点が明確になり内容も精選できる」を活用した。T.P107ここで改めて「『考える』ためには『読む』、『書く』だけではなく、『問う』能力が必要なのである。」や問題を自覚し、発見し、解決を意識的に求めることとある。こういった学ぶことの真髄に触れて、試行錯誤しながら前進するイメージだ。自分のものにしていけば、T.P3にある「三つの能力を自由自在に働かせることができる」とリンクする。当初、自立学習は孤独と思えた。T.P4の「考えるという営みは孤独な試行錯誤である」とある。とはいえ映像やテキストという指導者がいる。立場は違えど、それぞれの思いで集う仲間がいる。脱落しないように支えてくれるシステムがある。T.P7の最後に「自分にふさわしい方法を選択し、工夫し、確立していってほしい。」とある。そうだ、先人の方々が乗り越えて来たように、私自身を鼓舞しながら進めて行こう。


私は社会人であり、妻、母、嫁、祖母という役割の中で貴重で限られた時間でも可能な学習計画を立て、欠落していた問う力をつけることがこの学習の課題なのである。無理のない学習計画と問うという課題。このことを旨にしっかりと自立学習をしていくと決意したのである。


別エピソードとして、私の名刺にはよむ、書く、教えると記載がある。これは私の仕事内容を端的に表した記載である。このことがあった為、手引き書にあった三つの能力読む、書く、問うが、すんなりと入ってきた。そして、嬉しさでほくそ笑んだ。私のよむは鑑定、書くは原稿書き、教えるとは文字通り講座やスクール活動に従事していることである。この事にも通信教育に何かしらの縁を感じたのである。


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート

2022年11月12日土曜日

挑戦〆リポート〆(13)



挑戦〆リポート〆(13)


【ブッダの教え】SR設題1

スクーリング後提出

〈講義と資料が主体、テキストは後日読〉

主題:自分がブッダと会うならば何を話したいと考えるか、自由に述べよ。


今回の課題は自由度が高い。しかし、 ブッタと会って会話することは、現実なわけではなく、会話出来るというわけではない。⇒ 疑問の提起


それにもかかわらず、問いかけをする。もちろん、課題だからというのもある。講義から得た人と柄から、想像を働かせるという難問だ。しかしながら、講義の中で教えを教授され、道徳性や倫理観に感銘を受けた。本気で問うて見よう。工藤先生よりご紹介いただいた風でチャレンジしてみたい。


はじめまして、工藤 順之先生よりご紹介頂きました。○○と申します。漢字を用いておりますが、2018年現代に存在する日本人です。そして、あなたが残された教え「仏教」の名が入っている「佛教大学」に通う者です。先般、工藤先生の授業の課題として、あなたに自由に何を問いても良いと伺いましたので、いくつかの質問をさせていただきます。


1.現代人が、今もなお、あなたを崇め奉ることに対して、どう感じていますか?特に神格化されることに対して、どのようなお気持ちなのでしょうか?

2.あなたの教え自体ついて、私は道徳的倫理観として受けとりましたが、間違いでしょうか?また、あなたの教えを自ら後世に残したいと思ったのでしょうか?そもそも教えと捉えていたのかも含めお答えください。

3.あなたは、哲学者として貫き生きたと私は感じたのですが、いかがでしょうか?後世の者が宗教と位置づけなければ、きっとそうであったように思います。

4.あなたの教えは現代に通用する自己啓発が詰まっていると思います。そして、人々の悩み、迷いの解決に役立ち、生きる力を与える教えと理解しましたが、どうでしょうか?

5.あなたの教えのスタートは、人のためでもあるが、あなた自身のためでもあると理解しましたが、良いのでしようか?

6.既存の宗教に疑問を持ち、自分に向き合い、戒律を破ったりしても真実を追求する原動力は?また、人生をかけ、苦行も乗り越え、悟りを開いて、あなたは幸せになったのでしょうか?


あの時代、正しいと思われる学びがあったわけではないのに、自らの努力で沢山の方を教えという形で救いました。あなたの思う形ではないかもしれませんが、現在も救い続けています。今回の講義で、普段使っている言葉(輪廻、業など)の本当の意味を知りました。あなたが、影響を与えた人々も私と同じように、目から鱗だったと思います。現世利益より魂磨き。そんなあなただからこそ、後世まで語り継がれることになったのだと。ひとつ、あなたに謝らなければなりません。あなたの事を誤解していたことです。妻、子供、国を捨て、出家なんて。それで人に法を説けるのかと。その誤解を解いてくれたのは工藤先生でした。四住期を知り、時代背景とお国柄を考えれば、納得です。

最後に、私の話です。誰でもが自分の意見を主張出来る魔法のような辻説法ツール(SNS)物なのですが、ここに参加し、発信しています。「しあわせは自分自身でつかむ」「昨日の自分より今日の自分」「素直が一番」などと題して、それなりの反応をいただいています。これからも誰かの一助となると信じて、配信を続けて行きます。


(結論)

ブッタは人格者であり、満たされた哲学者ではあるが、それでも奢ることはなく、精進した。教えをこう人々に対しても平等に接していた。人柄、努力、聡明さを感じるブッタの教えは、今日も色褪せることはない。

そして、大衆がそこまで、ブッタを崇める理由は、ブッタの教え、そのものが人々を平穏、平和、平等に導く条件を満たしているからなのだろう。


つまりブッタが、望んだことは、皆が幸福になるということ。また、それがブッタ本人の幸福に繋がっているのだ。


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート

2022年11月8日火曜日

挑戦〆リポート〆(12)



挑戦〆リポート〆(12)


【京都の歴史と文化】設問1

書籍名「京のまつりと祈り〜みやこの四季をめぐる民俗」著者:八木 

主題:日本一の都市祭礼である祇園祭の意義と祭りの楽しみ方


祇園祭は都市祭礼である。日本一の都市祭礼であることは間違いない。


そこで改めて、祭を調べてみると

「祭(まつり)とは、感謝や祈り、慰霊のために神仏および祖先をまつる行為(儀式)である。供物そのほかが捧げられる。祭祀(さいし)、祭礼(さいれい)、祭儀(さいぎ)。また、まつりの漢字の表記(祀り・祭り・奉り・政りなど)によって、用途や意味合いが少し異なってくる。」(ウキペディア調べ)とある。


そもそも、日本人にとって祭りとは何か。上記の記述もそうだが、四季を感じる心と周囲との絆を深め、団結力を養う行事なのではないか。先人の行いを素直に受け継ぐだけではない。自然の脅威から身を守るための神事だけでもない。たしかに疫病などの被害にあわないことを願い、先人を見習い、祈りや慰霊を行う。夏に疫病が流行することを踏まえ、日本の夏祭りに疫病退散を目的としたものが多い。疫病退散が中心ではあるが、虫送り、台風除けなども見られる。しかしながら、町衆にとって特別なリクレーション、楽しみであったのではないか。でなければ、何千年も何百年も町衆のモチベーションが持つとは思えない。

その祭礼の中でも、今回学んだ、都市祭礼が「祇園祭」だ。その歴史はレジェンド級に長く、脈々と町に受け継がれている。その歴史の長さは、地元のプライドをかけた熱い思いと努力の賜物だと知った。関わる衆方の情熱が、祭りを唯一無二の祭りへと昇華させたのだ。だからこそ、この「祇園祭」は、日本三大祭りの筆頭なのだ。あとは、東京の「神田祭り」、大阪の「天神祭」だ。また、実際に京都と交易が深かった都市は、同じように疫病に苦しめられたことから、「祇園祭」をまねて、独自の祭りを作り上げたとある。

日本には四季があり、人々の暮らしと共に自然がある。昔の祭りの役目は、地域が平和で健康に過ごせるためが強かった。しかしながら、世の中が成熟するにつれ、楽しむという娯楽感が出て来たのではないか。もう一歩進むと「祇園祭」のような都市祭礼では、観光資源としての役割が大きくなる。祭を継承するという強い思いの地域住民と県や市の公共的思惑が「祇園祭」を挟んで一致し、 細かい思いの違いはあるものの、京都独特のグレーゾーン的折り合いをつけて、成長している祭の成功例といえる。数字を見ても日本一に相応しい、都市祭礼なのだ。どの角度から分析しても、規模、歴史ともに素晴らしい世界に誇れる祭礼、風流なのだと思う。


先祖より受け継がれる神事と観光資源的要素、守るところは守られ、合理的に変容すべきところは変容し、今後、町衆、学生だけでなく、京都にご縁が出来た者も取り込み、男女差も乗り越えて、発展していくことは間違いないだろう。


先生も再三おっしゃったように、祭りを楽しみたかったら、祭りの意味、由来を知り、現場に行き、参加する。何のための祭りなのか、何を祈願するものなのか、といった祭りを知ることで、より深く理解でき、実際に目にした時の感動はひとしおだろう。

恒例行事とし、ポイントを決めて参加したいものだ。違いを見つけるのも悪くない。違いがない祭りの凄さもある。テーマを決め、参加し、装束、かけ声やお囃子の風流を楽しむのだ。

事前準備を怠らなければ、楽しめるはずだ。


「祇園祭」もそうだが、祭り自体は地域の絆を深め、人との結びつきを強くする。やはり日本人にとってなくてはならない心のよりどころだ。実際に祭りに参加したり、楽しんでいる人と触れ合うことは、日本人が大切にしてきたものを理解することにつながる。海外の方も日本文化に触れ、理解するため、訪れてくれる。だからこそ、日本人も大いに祭りを楽しんで欲しいと思う。


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2022年11月7日月曜日

挑戦〆リポート〆(11)



挑戦〆リポート〆(11)


【民俗学】設題1

書籍名:「新・民俗学を学ぶ:現代を知るために」著者八木透編

主題:「ユネスコ無形文化遺産の意義と課題」・「日本人の霊魂観と来世観」・「江戸時代の民間宗教者の実態」・「現代社会における〝家の意義」・「仏教民族学の可能性」の中から、具体的な課題をひとつ取りあげ、その内容について、各自の見解も交えながら論述せよ。


課題のひとつである「日本人の霊魂観と来世観」を論述する。


テキストP104にある「伝統的社会の霊魂観と来世観」「死後に認識される霊魂」の冒頭文「『死』は肉体からの魂の離脱として捉えられていた。霊肉二元論的認識である。」について取り上げてみた。私自身も幼い頃よりこのことが、真実かのような認識の元、育ってきた。大半の日本人は疑問も持たず、この霊肉二元論的認識を通常認識として、昭和を生きてきたと思う。この認識が、ご先祖様に通じる考え方でもあると思う。そして、そこから派生して、来世観に繋がっていったのではないか。

その文のあとに「古代において、霊が意識されるのは、凶事が起きた時であり、それは死者の怨念が引き起こしたものとして理解されていた。霊を鎮めるために、平安時代には御霊会が営まれた。もともと霊肉二元論的要素があるところに、江戸時代以降、寺院を介して仏教的霊肉二元論の観念が入り込んだために、霊の観念は複雑化したものと考えられる。」とあり、時代背景が記されている。古代においての怨霊の考え方は代替案の一つに過ぎないのではないかとの疑問が生まれる。何かの所為にするという考え方だ。

霊肉二元論を調べてみた。「実体二元論(じったいにげんろん、英: Substance dualism)とは、心身問題に関する形而上学的な立場のひとつで、この世界にはモノとココロという本質的に異なる独立した二つの実体がある、とする考え方。ここで言う実体とは他の何にも依らずそれだけで独立して存在しうるものの事を言い、つまりは脳が無くとも心はある、とする考え方を表す。ただ実体二元論という一つのはっきりとした理論があるわけではなく、一般に次の二つの特徴を併せ持つような考え方が実体二元論と呼ばれる。

この世界には、肉体や物質といった物理的実体とは別に、魂や霊魂、自我や精神、また時に意識、などと呼ばれる能動性を持った心的実体がある。そして心的な機能の一部(例えば思考や判断など)は物質とは別のこの心的実体が担っている。」(実体二元論=霊肉二元論、ウキペディア調べ)検証はできないものの形而上学の分野に分類されている。魂や霊魂が心としての捉え方なのだ。また、仏教的には「心身一如」心身は一体であるとする考え方のはず、神道の二元論と重なって神仏信仰になっている日本人の生死観に対する柔軟性が現れているのではないかと思う。

テキスト内「先祖観」の中には「来世観が不明確な中での遺体のこの世からあの世への即時移行は、霊も含めて死者のこの世からの追放を意図するものと考えられる。ただし、沖縄では『ニライカナイ』と呼ばれる『あの世』が明確に想定されている。」とある。また「『あの世の存在』との意識があるだけで、『先祖』というイメージは曖昧なものとなっている。」がしかし、人の死〜葬儀〜お別れ〜先祖〜そして生まれ変わり(輪廻転生)だと理解している私としたら、その間に生きる人々の別れに対する辛い思いから解放するための優しさか、次へ進むための現実性を推進するためにあの世とやらに置き換えて、一旦別れるという考え方に行き着いたのではないかと思う。何度か死を見てきた私として、あの人は、あの世で楽しく有意義にあの世を満喫しているはずと思いたい。そして、又会う日までと思いたい。こころを軽くする術として、あの世説が、生きている者のために存在させているのではと思う。先祖のイメージについては、数代前の人には現実性が高いので先祖的意識を持とうと思えば持てる。その前となると存在は、人間が生を受けることを鑑みれば自ずと理解はできる。しかし、現実性に欠けるのと現代においての法律、教育がそうさせるのだと思われる。

いわゆるどこかの宗教に偏ってはならないということの功罪から先祖的意識、霊魂観、来世観を持つことをためらわれるようになったと推測できる。

テキスト内P106〜の「火葬の受容」には「『条例による土葬禁止』『墓地が狭くなったこと』『衛生観念の発達』『古臭いという観念』『火葬場ができた』などである。」意外と理由が明確であると感じた。「火葬受容の葛藤」の中に「政治的な禁止は別にして、この世の側の都合や感覚によって葬法が選択されているということができる。」そして「葬法の相違と死生観との連関性の低さを示しているといえる。さらにこのことは、来世観が不明瞭であることを背景とすると考えられる。」やはり、沖縄のようにあの世が明確であれば良いのか?そこもまた、疑問ではある。そこで「ニライカナイ」を調べてみた「遥か遠い東(辰巳の方角)の海の彼方、または海の底、地の底にあるとされる異界。豊穣や生命の源であり、神界でもある。年初にはニライカナイから神がやってきて豊穣をもたらし、年末にまた帰るとされる。また、生者の魂もニライカナイより来て、死者の魂はニライカナイに去ると考えられている。琉球では死後7代して死者の魂は親族の守護神になるという考えが信仰されており、後生(ぐそー:あの世)であるニライカナイは、祖霊が守護神へと生まれ変わる場所、つまり祖霊神が生まれる場所でもあった。」(ウキペディア調べ)なるほど、これだけ明瞭に語りつがれれば、祖先観や霊魂観、来世観がしっかりと持てる。現実主義者には、ハテナがいっぱいになるだろうが。しかしながら、私が存在することは事実、私を母が産み、その母も祖母から産まれ、祖母も曽祖母から産まれた。遡ることが古代までできるのだ。あるかもしれないが、今のところ突然変異で人が誕生した記録はない。ということは人から人が誕生し、現世に繋がっているという事実。その事実の上に立つと来世があるというところに行き、あの世の存在感が増す。


(結論)

平安時代には特に、霊魂に対する恐れが多く見られ、霊魂を鎮めるための祭事が沢山存在した。何かが起こると怨霊の所為にする。今の世の中にも何かの所為にして、縛りつけることもおきてはいる。成長が見られない気がして、残念だ。御霊は何もしない。神仏信仰からすれば、二元化ではあるが、心身だから元は人であるし、ブッダの教えによれば、先祖のカルマ消化もありえないのだ。ゆえに怖がることではない。恐れていては成長はない。それよりも感謝し、あなたがいたから、私が存在すると意味づけたい。そして、私の存在が次世代に繋げる。そもそも現代は自身が先祖になるという意識が薄いように感じる。次へ繋げる、次に繋がるからこそ、今世をつつがなく過ごそうとする正善的意識が働く、だからこそ生きていくためにも来世観が必要なのだ。


つまり霊魂観は人が人でなくなることではなく心(霊魂、魂)として残り、あの世(ある一定の場所)に一時的に拠る。来世観も同様、その場所からまた今世に現れ、誰かの身体と一体化する。この場は修行の場として、苦難、苦行を乗り越え、心を丸く丸く球体にする。その繰り返しを意識する事で魂に磨き(イメージの世界)この世界(地球)に戻ることなく、あの世の先(パラダイス)へ行かれるのだと思う。それが世に言う神的存在なのではと思う。人として産まれたブッダしかり、キリストしかり、サトリの領域へ至ったではないのか。


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2022年11月6日日曜日

挑戦〆リポート〆⑽



挑戦〆リポート〆⑽


【教育学入門】設題2

書籍名「教育学への誘い」

編著者:山崎高哉

主題あなたが今日の日本の教育が直面している最も大きな課題と思うものを一つ挙げ、それと教育との関連について述べなさい。


最も大きな課題と教育との関連について

日本の教育が直面している課題八章を読み、第1章の家庭と教育が根幹であると思った。しかし、家庭と教育を一括りに表現するのは、現時点においては隔たりを感じている。簡単には成立しない課題ではないのか?直接的な打開策というより家族、家庭に対する意識改革が必要な課題であると感じる。また社会の一員としての意識も重要なのではないか?それらを含め考察していきたい。


そもそも、家族の定義、現在の家庭の有り様に違和感や疑問を持っている。仕事柄、親子、夫婦、家族全体の悩みを聞くことが多い。また、未婚の方の結婚感も垣間見る。一緒に暮らす家族があり、子がいて成り立つ家庭。かつては当たり前のように本文中にある「暮らし」があった。しかしながら、現社会は「暮らし」のその背景に八章すべての課題が絡み合って、複雑化しているのが現実だ。


そこで、問題、課題を明確にするため、第1章の「家庭と教育」についてまとめていく。


1.家庭という〈問題〉

⑴家庭と教育をめぐる諸問題P146

「実態として、家庭・家族の崩壊や解体、病理や逆機能を示すかのような現象が噴出している。」(DINKs、ホテル家族、個族、解離性性同一性障害、アダルトチルドレン、共依存、孤食など)は、第7章の「価値の多元化と教育」に関連する問題とリンクしている。「家庭の教育力の低下が指摘されるかたわら、すさまじい勢いで早期教育が家庭に侵入してきつつある。」は、教育格差を生んでいる根底に家庭の経済力も関わっているのではないか。「高齢化社会の急激な到来か〈介護〉という課題」は、第8章の「環境問題と教育」に関連する問題とリンクしている。また、養育と介護は「人間に対するケアとして、本質的に共通するものがある。」とある。ここは養育と介護を経験した者として実感がある。

⑵〈問題〉としての家庭p148

「家庭は根本的に問題を抱えている」、「家庭・家族そのものが原理的に問題なのだ という認識」、「『魂の殺人』さえ犯しかねないもの」、「『愛の巣』それ自体が『病巣』であるかもしれない」とある。

確かに、親子の問題で多く聞かれる、過干渉と否定愛。玩具的扱いと認めて貰えない存在。どちらも悲しい事実だ。このことで年齢的には大人になった者もかなり長い間苦しんでいるという現実がある。この現実がある以上、「魂の殺人」「病巣」と呼んでも仕方ないことだ。現状では、持たなければならない認識であると言える。家庭の定義としては正解というのがない中、多様な形があって然るべしだ。しかし、バックボーンにあるべきものは共通しているはずと考えられる。

2.原初の家族の姿-ヒト・家族・ケア- P149

「家族の成立は人類の発祥と同時だったと見ることができる」(動物の種社会を構成する社会的単位をオイキアという)、「①オイキアを②雄・雌間に③インセント・タブーが④オイキア間に⑤複数の形成されること。」、「家族が成立するためには〈協同〉〈分配〉〈交換〉などの社会的行動が発達してなければならない」、「他の家族メンバーに対する顕慮・配慮(ケア)がなければならない」とある。至極当たり前で当然だと思うが、現在では難しく、過去の出来事なのか?核家族化が進む中では難しいのか?

3.家族の機能と性別役割分業・ジェンダー

⑴家族の機能と役割 P150

「社会システムは適応、目標達成、統合、潜在的なパターン維持と緊張処理である」、「性別役割分業それ自体は否定すべきでもないと考える。吟味・検討すべきは、その今日的な在り方なのである。」とある。このシステムバランスが家族という集合体のキモであると考える。今後の課題であることは間違いない。

⑵養育と父親 P151

役割については「みんながひとしくメンバーであるということを象徴的に表現する」、家事については「貨幣価値には還元できない独自の価値としてきちんと評価する」とある。家事労働の評価が見過ごされていた過去がある故に、価値としてみたことは、通過点としては評価したい。とは言え、それだけではなく、根本を見たほうが良いのだという意図は家事を担う者として有難い。

⑶ジェンダーと拒食症 P153

「自己のアイデンティティを獲得することへの無意識の抵抗・拒否が、拒食症の陰に隠されているように思われる。」、「家族とは、人間の〈共同〉的存在の根本様態、根本形式なのである。」 とある。拒食症を抱えた方も私の元に来ることがある。自己否定の果て、行為に及ぶと感じている。

4.生活の変化と家庭の空洞化

⑴裸の家族 P154

過去は「生活全体に具体性があった。」、現在は「豊かで便利でラクな消費生活に変わった。」とある。また、最後にあった「生活における目的と課題の欠落を埋めることはできず。」に繋がる。便利が不備を生んでいるとということなのか?人の努力、工夫が根本的な事を忘れさせ、便利とラクに流れ過ぎたということなのか?貪欲さが裏目に出たということか。

⑵外注化と個人化 P157

「家庭で行なうことと言えば、いまや、食事・睡眠・排泄・入浴・セックスと、休息・寛ぎ・

憩い・娯楽が中心である」、「家庭の機能の外部化・外注化が、とどまるところを知らず進行していく。」いわゆる「便利〈施設〉となる。」、「いうなれば家屋あって家庭なし」とある。「家族は結びつく必然性を失って『ホテル家族』化し、」とある。

確かに耳が痛い部分もある。幸福論は各々であるにしろ。陳腐な言い方かもしれないが、愛情があれば、絆が生まれる。病の共有もしかり、負の要素ではあるが、ピンチな時こそ、家族の想いが、そして、心の中の確かなものが見えてくる。向き合うことの大切さが見える。

5.家庭教育の原理的基底としての〈ケア〉

⑴〈ケア〉の場としての家庭 P158

「ケアとは何か。ー気遣う、心配する、気に懸ける、関心をもつ、気をつける、気を配る、配慮する、注意する、大切にする、思い遣る、労る、そして、世話する、保護する、面倒を見る、等々。」(〇〇にこころを寄せる)とある。そうありたい。ここを教育の根幹にすべきと声を上げていくべきだ。ふたたび「現代の『ホテル家族』は〈ケア〉という原理を欠いている」とある。そこが課題であり、一番の問題なのか。

⑵親に求められるもの P160

「無条件に子どもの『存在』を肯定し受容して真率な関心を寄せること、家庭を子どもと自分との〈存在の場〉〈居場所〉とすること」、現在「子どもというものが授かるものからつくるものになって」、「こどもはみずから望んでこの世に生まれてくるのっはないし、親を選んで生まれてくるわけでもない。にもかかわらず、その親に全面的に頼る他、生きていくことができない。それゆえに、親には、この事実に見合うだけの深い認識と覚悟が求められる。それがなければ、家庭も子育ても、一切が親〈個人〉の恣意によることとなり果てるのである。」、そして「家庭とは人間が〈共に在ること〉、〈共同存在〉の原基であり、〈存在に対する真率な関心・配慮〉すなわち〈ケア〉の原体験の場である。」また、家庭とは「人間の〈生〉と〈存在〉の根源に位置するもの」とある。このことが家族、家庭の根幹であると考える。


(結論)

家庭は小さな社会である。家族はその社会(規律の中)に参加し、向き合い、認め合い、愛をバックボーンに持ち、一から作り上げて行くものだ。どんなに便利になってもケア力は忘れては、成り立たないと知るべきだ。そして、P150〜の章にもあるように、人は1人では暮らしていけない、誰かの行いに助けられ、暮らしているのだ。


つまり教育は暮らしの中で作られるコミニティーと外社会とのリレーションにより成り立つのである。社会全体が人を育て、導く「教育」を各々が意識するべきだ。特に教育者(親も含む)は、その「教育」が定着するよう「教育」すべきだ。


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2022年11月5日土曜日

挑戦〆リポート〆⑼



挑戦〆リポート〆⑼


【教育学入門】設題1

書籍名「教育学への誘い」

編著者:山崎高哉

主題「教育」を表す言葉(漢語・邦語・英語)の語源のうち最も興味をもったものを一つ選び、それと関連させて、あなたの教育観を述べなさい。


邦語における「をしふ」「そだつ」の語義と自らの教育観を重ねてみた。


邦語の語義である「をしふ」は「ヲシム」で愛に通じる、「そだつ」は「スダツ」=巣立つ由来の「教育」とテキストP6にあり、そう理解した。このような意味付けにすると「教育」とはあまりにも綺麗ごと過ぎではないのか?愛を掲げるのは、言うは易し、行い難しなのではないか?との疑問が出る。


それにもかかわらず、邦語の語義に興味をもったのはなぜなのだろうか?


そこで、興味をもった理由について考察し、述べていこうと思う。


手始めに漢字の教育の語義、英語の教育の語義、邦語の語義がどうなのか理解し、それぞれを比べてみた。


テキストP5にある漢字における「教育」は「生まれた子どもを育て、その子どもが学ぶべきことを教える」となっている。素晴らしいし、ごもっともであるものの邦語の語義と比較すると平凡さを感じる。興味を持つところまでいかない。

テキストP5にある漢字における「教育」は、当初「親と子の間」でというのが中心であったとされ、その後、孟子の書物により、第三者が関わり、英才教育のような表現がなされているとある。狭い空間から広い空間へ変化していったと言うことは理解出来る。漢字における「教育」とテキストP6にある邦語における「教育」を比較すると次の部分にあげる意味に興味を持ち、惹かれる。「教えることが人間の『愛惜する情』を基盤とする」という部分だ。

テキストP7にある英語における「教育」は「養い育てる過程」、「しつける過程」「組織的な教授、学校教育、訓練」「能力の開発ないし発展、性格の形成」とある。まったくもって然りである。だが、個人の尊厳、人の感情に対して、意味合いが希薄だ。英語における「教育」とテキストP6にある邦語における「教育」を比較するとやはりあの一文「教えることが人間の『愛惜する情』を基盤とする」という説明に惹かれる。

テキストP6にある邦語の「教育」の「教えることが人間の『愛惜する情』を基盤とすると同時に、親や大人が愛情をもって子どもに生命を守る手段から様々な知識・技能、人間としてふさわしい行動・態度・生き方に至りまで、しかも『要点をおさえて』教授・指導・訓戒するという意味」に共感を覚えるのだ。心にズシンとくる表現である。そこで、「愛惜の情」の意味を調べてみた。「人や物を愛しく感じ、大切にすることを意味する語。」(webio調べ)とある。その意味も踏まえて、再度熟読すると綺麗事ではない内容であると理解できた。愛ありきの内容だ。言葉だけでは到底叶わない素晴らしい内容であった。綺麗事と解釈した事を反省せざる得ない。

テキストP7にあるように教育の捉え方も「『教える』ことと『育てる』ことは不可分に結びついてる」とある。それはもともと「育てる」が両方の意味を併せ持つからだとある。育てることは教えること、このことを子育てと考えれば、納得がいく。経験値からも言える。また、興味を持った大きな理由のひとつ、テキストP7にある「育てられる者と育てる者との共同の営為であるのみならず、育ち、育てられるに値する何らかの価値・規範が目的として存在している」とあるところだ。受けとる側と授ける側との方向性が同じであれば「教育」の成果が出やすいのだろう。

教育の成果を調べてみると「思考力、判断力、表現力等に関する評価の工夫」、「関心・意欲・態度や道徳的心情・実践力等に関する評価の工夫」とあった。(文部科学省配布資料より)教育=成果ではないものの逆引き的方法で調べてみると本質が見えてくると思った。思考力、判断力、表現力等は、個人の素質にもよりバラツキはあるが、価値といわれる部分なのだ。関心・意欲・態度や道徳的心情・実践力等が、規範にあたると思われる。共同的に教育を進めることが必要なのだ。成果主義に陥ることなくだ。

そして「本来みづから成長する素質をもったものに対する助成的なはたらき」ということは生まれながらの素質、素材を生かして生きていかれるということが前提なのだと理解でき、生まれたことの意義に繋がると解釈できる。私自身が仕事をしていく上で目標とする境地と重なった。また、テキスト中、4ページと少ないページ数ではあるものの凝縮された「教育」が邦語の語義の中で生き生きと表現されている。人が生まれ、生きていく上で、真の「教育」はこうあり、こうあれなのだ。

(結論)

テキストP9にある「教育とは、意図的、計画的な『文化化』への援助」とある。また、P11には、社会化と教育の作用について「常に両方の可能性が存在しているのが現実である。」とある。文化化と社会化が、教育のキーワードなのだ。そして、P13の「人格化への方向づけの援助」も必要だ。選択の自由と批判の能力、自発性や自律性、責任を自覚することもあげられる。なによりP15の「学習が成立するように支援する『学習への援助』が『教育』」そのものなのだ。P1617に発達の概念として①成長・成熟②適応③社会化・文化化④人格化⑤自己形成・自己実現があげられている。P23に凝縮された教育とはの文章「人間らしく生き抜くために生涯にわたって努力し続けるようにさせる社会的行為である」とあった。

個性尊重、個性重視が重要であるとされる、テキストP4158にその重要性がとかれている。そもそもの個性を把握し、発達させ、許容し、尊重する。許容することが尊重になるとある。また、テキストP5977の中で「生きる力」をつけることも「教育」が目指す目標として掲げている。家庭、学校、教育関係、対人援助、情報化社会、国際化、価値観、環境、テキスト第3編にある「現代における教育学の課題」の中に綴られている。その内容が日常的教育を浮き彫りにしている。ひとつ、ひとつが「教育」における課題なのだ。教える側は教えること(課題)に愛情を持っていることが、必要だ。共同意識を持ち、課題に向かい、先人の教え・知識を活用し、感謝して臨むことが重要だ。人は皆、存在することに意味があると思わせてくれる「教育」が求められ、目指すめあてなのだと思う。


私の「教育観」をまとめてみた。社会に出ても生きて抜くスキル(人間関係の技術も含む)と社会に役に立つ人材になること、そして、人として最低限度の情動を具備させることだ。「教育」は愛惜を持った指導者と成長することを望んでいる学ぶ者との共同の営為なのである。ゆえにどちらかの独りよがりではなりたたないものであるとテキストで理解し、テキストP6にある邦語の「教育」の「教えることが人間の『愛惜する情』を基盤とすると同時に、親や大人が愛情をもって子どもに生命を守る手段から様々な知識・技能、人間としてふさわしい行動・態度・生き方に至るまで、しかも『要点をおさえて』教授・指導・訓戒するという意味」とあるところから、前述のような「教育観」が、明確となった。


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