西洋占星学 -星脳®︎-

星脳®︎の暁瑠凪は、西洋占星学研究家として人生を星よみの研究、実践、鍛錬の日々を繰り返して参りました。

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2022年10月11日火曜日

挑戦 〆スケジュール〆⑹

【暁の挑戦】2018


挑戦 〆スケジュール〆⑹


19/1/1214 SR(現代社会と法律・くらしと自然)

19/1/14SRリポート提出(現代社会と法律・くらしと自然)

19/2/910 名古屋SR(法然の生涯と思想)

19/2/10SRリポート提出(法然の生涯と思想)

19/3/25認定(教育学入門・法然の生涯と思想・生涯学習・現代社会と法律・くらしと自然・地理と風土・基礎ゼミナール・日本文化史)


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート

2022年10月10日月曜日

挑戦 〆スケジュール〆⑸

【暁の挑戦】2018


挑戦 〆スケジュール〆⑸


10/110 10/28試験申込み(日本文化史)

10/7試験(哲学不合格・考古学不合格・文化人類学不合格・日本の歴史合格)

10/25 SR申込×5講座(生涯学習・地理と風土・現代社会と法律・くらしと自然・基礎ゼミナール)

10/28試験(日本文化史合格)

11/110 11/25試験申込み(教育学)

11/25 SR申込×1講座(法然の生涯と思想)

11/25試験(教育学不合格)

12/12 SR(基礎ゼミナール)

12/2SRリポート提出(基礎ゼミナール)

12/2224 SR(生涯学習・地理と風土)

12/24SRリポート提出(生涯学習・地理と風土)

12/25認定(自立学習入門・民俗学)


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート

2022年10月9日日曜日

挑戦 〆スケジュール〆⑷



【暁の挑戦】2018


挑戦 〆スケジュール〆⑷


8/110  9/16分試験申込(哲学・民俗学)

8/611 SR(ジェンダー・エコロジー・英語

8/11SRリポート提出(ジェンダー・エコロジー・英語

8/1315 SR(くらしとマスコミ・世界の教育)

8/15SRリポート提出(くらしとマスコミ・世界の教育)

8/19試験(日本の歴史不合格)

9/110リポート受理(哲学・教育学・民俗学・考古学・日本の歴史・日本文化史)

9/16試験(教育学不合格・民俗学合格)

9/25認定(ブッダの教え・くらしとマスコミ・世界の教育・ジェンダー・エコロジー・こころの健康・京都の歴史と文化・英語Ⅰ)


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート

2022年10月3日月曜日

挑戦 〆スケジュール〆 ⑶

【暁の挑戦】2018


挑戦 〆スケジュール〆


6/910 SR(くらしとマスコミ・世界の教育・こころの健康)

6/10SRリポート提出(くらしとマスコミ・世界の教育・こころの健康)

6/2324 東京SR(ブッダの教え)

6/24SRリポート提出(ブッダの教え)

6/307/1 SR(京都の歴史と文化)

7/1SRリポート提出(京都の歴史と文化)

7/110Tリポート提出(考古学・日本の歴史・日本文化史)

&8/19分試験申込み(日本の歴史)

7/8試験(哲学不合格・教育学合格)


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート #スクーリング

2022年10月2日日曜日

挑戦 〆スケジュール〆⑵



【暁の挑戦】2018


挑戦 〆スケジュール〆


4/25 SR申込×3講座(くらしとマスコミ・世界の教育・こころの健康)

5/25 SR申込×5講座(ブッダの教え・京都の歴史と文化・ジェンダー・エコロジー・英語

6/110Tリポート提出(自立学習入門・哲学・教育学・民俗学)&7/8試験申込み(哲学・教育学)


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート

2022年10月1日土曜日

挑戦 〆スケジュール〆⑴



【暁の挑戦】2018


〆スケジュール〆


4/25/31 テキスト読込

1①自立学習入門 読む、書く、問う

1②哲学入門

1③教育学入門

1④心理学入門

1⑤民俗学

1⑥考古学

1⑦文化人類学

1⑧日本の歴史

1⑨日本文化史

1⑩西洋の歴史


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート

2022年9月27日火曜日

挑戦【大学入学前スケジュール】 2018年



〆スケジュール〆


2018【入学前スケジュール】


1/24 資料到着

2/10 説明会

2/11 卒業証明書依頼

2/14 志望動機記入

2/17 健康診断

2/23 願書郵送

3/15 入学通知セット到着

3/22 教科書申込

3/31 教科書到着


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談

2022年9月26日月曜日

挑戦〆決心と経緯〆⑴



◉2017年 〆決心と経緯〆

【齢六十大学生奮闘記】

暁、大学生になります。

前々から大学に行きたいと思ってました。20代、30代、40代、50代と。ただ18歳の時、親が薦める進学を拒否した経緯もあり、親の傘下の内は言い出せず。その後、結婚、出産、父親の死、出産、そして、激変する生活が続き母親の介護、母の死、そんな余裕もなく時は過ぎていきました。そんな中でも種火は消えてなかったんです。

よく人は「何故あの時に」との思いがあります。でもでも種火があれば想いは叶うのだと、年齢ではなくヤル気だと、言える、証明する自分を作りたかったのです。

年数で見ると順調に進んでも大学院生卒業までは78年、70歳に終わるか?との思いもあり、今しかない、ラストチャンスかも。今が最良の時と悟るわけです。

今やる、小さな小さなキッカケに小銭貯金(その日の小銭を全部入れる)の目的を娘に問われ、特に目的はないと答えた瞬間、学費貯金としよう!と思い立ちました。

どうなるかはわかりません。しかし、どうするかはわかっています。周囲の協力の元、ゴールする。そのゴールがまたスタートラインかもと期待しながら。準備にかかりました。


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談

2021年1月20日水曜日

初!【教授面談】



↑ 担当教授の著書 (角川文庫)

無事⁉︎ 3回生もそろそろ終盤。論文テーマ予備調査提出し、卒論指導担任教授も決定。1回生でお世話になり、こちらの教授が担任になってくれたらと想っていた教授が担任に!やる気倍増中!
そして、昨年中に研究計画書を提出。受理されたため、教授との面談がかないました。
色々とご指示、ご指摘いただき、スッキリ!

アドバイスを踏まえ、参考文献を見直し、選定、研究計画書の清書の提出、読込へ突入すっぞ。何故かドラゴンボール口調wとにかく、顔晴る❗️

2020年3月24日火曜日

暁の挑戦〜大学2-1〜

【総合1SR

課題:本講義で取り扱ったトピックスと関連させて、自分で論題を設定し自由に論述して下さい。

付記:なるべく、講義内容に加えて、色々な書籍や論文・専門家筋の書いたネット記事などを参考にして、情報源を明らかにしつつリポート作成を行なって下さい。


「ワイマール時代に出現したバウハウス」


今や知らない人がいSRないユニバーサルデザインの元祖『バウハウス』。誕生から100年を迎えた『バウハウス』のモダニズム。講義を通じて、バウハウスの存在を知り、講義内で1番興味を持ったこのワイマール時代の文化の象徴バウハウスを論じたい。


講義内の資料によるとww1以後の1920年代に若干の経済復興がなされ、近代化、都市化が進み、庶民の生活や労働環境に変化が起こった。そのとき、新中間層が登場する。同時期にバウハウス(19191933)建築・工芸・デザインの総合学校、工房として存在した。伝統や宗教的な美から距離をとって合理性と機能美を追求し、近代デザインの始祖と言われているモダニズム誕生なのだ。


バウハウスを検索するとほとんど建築デザイン関係の会社が、検索にかかりこのバウハウスを各社が解説している。例として「モダニズムのパイオニアとして、建築、インダストリアル・デザイン、グラフィック・アート、写真など広範な分野で世界に衝撃と感動をもたらしたバウハウス。」と解説しており、続いて歴史が紹介されている。「それは、1919年、第1次大戦後のドイツで、芸術と技術の新たな統合を目指し創設された学校だ。創設者は、フランク・ロイド・ライト、ル・コルビュジエと並ぶ近代建築の巨匠、ヴァルター・グロピウス。そして三代目校長はもう一人の近代建築の巨匠、ミース・ファン・デル・ローエが務めた。」または「バウハウスとは、第一次世界大戦後にドイツ中部の街ワイマール共和国に設立された、美術学校のことです。1919年から1933年の14年間、そこでは工芸、写真、デザイン、美術、建築など総合的な教育を行っていました。その歴史は短いながら、その功績は大きく、モダンデザインの基礎を作り、今もなお世界中の建築やデザインなど、さまざまな分野に多大な影響を及ぼしています。」とある。


このルーツは19世紀末にイギリスで起こったアーツアンドクラフト運動だ。産業革命により粗悪な工業製品が大量に生産された状況に異議を唱え、中世の手仕事に回帰しようとする運動の影響を受け、ドイツでは、建築家や工芸家により結成されたドイツ工作連盟が誕生し、芸術と産業の融合をかかげ、製品の質の向上を目的に規格化を推進した。そして、バウハウスは当時のドイツ工作連盟で活動していた建築家ワルター・グロピウスを初代校長とし、ww1後の混沌とした政治状勢のなか、1919年にワイマール共和国に設立された流れだ。


日本で現在活躍している各社が、こぞって解説するくらいこの時代のドイツモダニズムが永続的に見本として存在するのだ。色褪せることのないモダンニズムの証明と言える。


そこで創設者のヴァルター・グロピウスを調べてみると「モダニズムを代表するドイツ人建築家。近代建築の三大巨匠(ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ)に加え、4人目の巨匠とされています。『造形は機能に従う』と言って、世界中に建築することが可能な、統一された様式のインターナショナルスタイル(国際様式)を提唱しました。」とある。


また、グロピウスによる設立宣言は「すべての造形活動の最終目標は建築である」個々の造形芸術のジャンルの垣根を取り去り、それらの「総合」を目指すという高い理想を掲げたのだ。多くの国際的な芸術家を教師として招き、実践と理論を教育していく。その学生の中から優秀なものが、教育側にまわり造形教育を展開していった。このような素晴らしい志しと才能を時の政府ナチスは、1933年、弾圧し、閉校をさせてしまう。しかしながら、14年間の活動と成果は、前述にあるとおりだ。


1人の独裁者により、その時の民衆も煽動され、混沌とした時代に突入してしまう。この方向に舵をきってなければ、芸術や文化はどう発展したのだろう。これだけの影響を与えられる人々を駆除した時代の流れは、先導した者、先導された者も含め、肝に命じ、今の世を生きる我々も無駄にしてはならない史実として受け止めるべきなのだ。



https://bulan.co/swings/about_bauhaus/

(C)BULANCO

Swingsはデザイン事務所 Bulanco Inc. が運営しています。



参考文献

X-Knowledge HOME 特別編集 04/10 バウハウス No.3 2004年 ()エクスナレッジ



Text: 深川雅文(キュレーター/クリティック)

2020年2月29日土曜日

暁の挑戦〜大学1-16〜

【考古学】設題2


書籍名:「旅する考古学」

著者:門田 誠一

主題:考古学資料からみた精神生活(信仰、儀礼、祭祀、習俗など)について具体的に論述せよ。


設題2にフォーカスして、資料であるテキストを通読すると小牧野遺跡、伊勢堂岱遺跡、相島積石塚群、落川遺跡などなど、初めて目にする名前ばかりであったが、その中でもテキストP109に小牧野遺跡の記述に目が止まり調べてみた。「小牧野遺跡(こまきのいせき)は、青森県青森市にある縄文時代後期前半の遺跡。所在地は青森市野沢字小牧野。三内丸山遺跡の南に位置する。1995年(平成7年)317日に国の史跡に指定された。」(ウキペディア調べ)とあった。その中に記載ある環状列石を調べてみると「環状石籬ともいう。巨石記念物の一つで,自然石を環状に並べたもの。ヨーロッパでは新石器時代から鉄器時代にかけてのものが多くみられ,著名なものとしてイギリスのストーンヘンジがある。太陽崇拝に関係ある祭祀遺跡ともいわれ,また墳墓に関係するものもあるといわれる。日本では直径 1030mの円形に立石を並べてあるものから,直径12mの小さいものまでを含めている。北海道の忍路環状石籬,秋田の大湯環状列石は有名。年代は明らかではないが,発見される遺物から判断すると,縄文時代後期あるいはその流れをくむ文化の所産であろうと思われる。」(ブリタニカ百科事典調べ)いわゆるストーンサークルなのだ。テキストp110111にあるように、縄文時代の祭祀の場として存在し、精神生活に関わっていたことがわかる。

また、p114から始まるクマへの信仰の章を読み、浮かんだのがコミックやアニメになっている「ゴールデンカムイ」だ。カムイはアイヌ語で神格を有する高位の霊的存在のこと。『ゴールデンカムイ』は、野田サトル氏による日本の漫画。明治時代末期の北海道・樺太を舞台にした作品。このストーリーの中でアイヌ(民族)が描かれている。アイヌの人々がクマを特別扱いする場面が見られる。そこでカムイ()を調べるとクマへの信仰の記述があった「ヒグマがアイヌの狩りにより捕らえられたとき、それをアイヌは『キムン・カムイが毛皮と肉を持って自分たちのもとにやってきてくれた』と解釈する。アイヌは、キムン・カムイから毛皮や肉など、利用できるものを利用させてもらい、またカムイに感謝してカムイノミ(カムイ送りの儀式)を行って還ってもらう。」(ウキペディア調べ)とあった。やはり、精神生活に関わっていることが垣間見れる。元々原住民であるアイヌの生活の中のカムイは他の多くの宗教の「神」とは違い、人間と対等に並び立つ存在とされていて、アイヌの世界は人間とカムイがお互いを支えあうことで成り立っていると考え、カムイをカムイ・モシリへ返還したり、カムイを新しく作るのは、人間が主導権を握っていると考えるのだ。独特の考えに見えるが、アイヌ民族の伝統的信仰は日本神道に近いとする説もあり、その場合多神教に分類される。日本語の「カミ」と同様、「霊」や「自然」と表現してもおかしくない(キリスト教の神のような唯一絶対の存在ではない)。日本神道の「八百万の神」も、アイヌの信仰文化と同様の「アニミズム」の特徴があるという説もある。

そして次の章の離島の積石塚も興味深い。積石塚を調べてみた。「積石塚とは、土の代りに石を積んで墳丘を造った墳墓をいう。石を用いるのは,礫石が入手しやすく,凍結期にもつくりやすいなどの理由によるものと思われる。世界各地に分布するが,特に北ヨーロッパのバルト海周辺からロシア,シベリア,モンゴルに多い。また中国,朝鮮の石器時代から金属器時代初期の墳墓にもみられ,日本では,香川県石清尾山,長崎県対馬,長野県須坂市大室の古墳群などの積石塚がよく知られている。」(ブリタニカ百科事典調べ)とある。積石塚自体、アジア、ヨーロッパともに寒い地域が多く見られるのに対し、日本では温暖地に見られるにはなぜなのか?と疑問を持った。ジーコンボ古墳にあるような交易民説、西日本の島々にある風葬説などがあるようだ。風葬にフォーカスして調べてみると日本だけではなく、温暖地に多く見られるようだ。「風葬とは、故人のご遺体を自然の中に安置し、そこで風など自然の営みに任せる形で風化させるという供養方法です。俗な言い方をすれば、吹きさらしのところで自然任せにご遺体を葬るということになります。風葬が行われる主な場所として樹木の上や崖、洞窟の中などが選ばれ、世界各地で行われています。」と葬儀社の中の終活ネットに記述があった。沖縄の風葬が、詳しく取り上げられており「洗骨という風葬の一過程について見ていきましょう。

洗骨とは沖縄の風葬独特の風習であるとともに、風葬の中でも重要なプロセスとされています。沖縄では、風葬で骨だけになった故人のご遺体はそのままの状態では穢れているため、神仏の前に出られない存在と考えられていました。そこで、洗骨という段階が必要となります。この洗骨という行程では、ご遺体を一度棺に納めて風化するのを待ちます。そして、風化した頃合いに取り出して、親族の女性の手によって海水などでご遺骨を洗い、あらためて骨壷(厨子甕)に入れて弔います。洗骨は戦前まで存在していましたが、戦後になって女性解放運動や保健所の指導によって消滅し、現在ではあまり見られなくなりました。」と締めくくられている。沖縄文化は独特だとしても、暑い地域の土葬はどこも衛生上よろしくない。そこで風にさらされることで、湿気や匂いが抑えられ、骨化することを早め、地域を守ったのではと考えられる。そこにはもちろん精神生活が当たり前のようにあったのだ。

信仰という言葉がしっくりときたのは、テキストp136から始まる章であった。そこは私が住む地域でもあり、当初、想像がつきにくいからこそ、逆に精神生活と古代の息吹を感じられる遺跡に驚きがあり、興味をもったのかもしれない。関東の古代文字文化の存在をしり、年号がわかり、墨書土器なるものの存在を知り得た。しかも千葉の公津原遺跡群(成田市)の中の加良部遺跡から出土したものには、忍保寺、新寺、大寺など寺院名と見られる墨書や仏に供えた器であることが 示されていて、仏堂(堀立柱建築)の存在が遺跡にあったのだ。また、現在のルーツのような仏教施設もあったことが記述されている。三宝に繋がる様々な文献資料や遺跡からの出土物が物語っている。まさにここに民衆信仰があったことを我々に伝えてくれているのだ。

三宝とは「仏教の用語。サンスクリット語のトリーニ・ラトナーニ、トリ・ラトナtri-ratnaまたはラトナ・トラヤratna-trayaの訳であり、「三種の宝」の意。仏(ブッダBuddha)と法(ダルマDharma)と僧(サンガSamgha)の三つをいう。この三つは仏教徒が尊崇すべき基本であるので、世の宝に譬(たと)えて三宝と称する。仏宝とは悟りを開いた人で仏教の教主を、法宝とはその仏の教えで真実の理法を、僧宝とは仏の教えのもとで修行する出家者の和合の教団をさす。古く原始仏教において、仏教を構成する根本的要素と考えられ、後代には三宝の見方について種々な解釈が行われた。三宝はそれぞれ別異なものであるとみなす説(別相(べっそう)三宝)、本質的に同一であるとみなす説(一体三宝)、あるいは仏像と経巻と出家者は仏教を維持し伝えていく意味での三宝であるとみなす説(住持(じゅうじ)三宝)などがある。三宝は仏教のあるところかならず存在し、三宝に帰依(きえ)すること(三帰依または三帰という)は仏教への入信の最初の要件とされる。[藤田宏達]」日本大百科全書より。ここに原始仏教の姿がとらえられる。

その原始仏教(根本仏教)・・・紀元前4世紀(または5世紀)⇒ スリランカに原始仏教伝来・・・紀元前3世紀

部派仏教(アビダルマ)・・・紀元前3世紀頃(仏滅後100年後)

初期大乗仏教(中観)・・・紀元前1世紀(仏滅後約300年後)

 中国に仏教伝来が始まる・・・1世紀

中期大乗仏教(如来蔵・唯識)・・・3世紀(仏滅後約700年後)

 中国を経由して日本に仏教伝来・・・6世紀

後期大乗仏教(密教)・・・7世紀(仏滅後約1100年後)

その後、仏教消滅・・・5世紀からのインドでの仏教弾圧、13世紀のイスラム侵攻により滅亡(仏滅後約1700年後)したとある。(仏教の教え〜原始仏教の世界より)

精神生活の切り口からでも、考古学は国や地域を越えた広がりをもつ、研究分野であることが理解できた。

2020年1月26日日曜日

暁の挑戦〜大学1-15〜

【考古学】設題1


書籍名:「旅する考古学」

著者:門田 誠一

主題考古学資料からみた「もの」(物質やその背景となる文化なども含む)や技術の移動と広がりについて具体例をあげて述べよ。


考古学は人間が地中に残した資料であり、痕跡だとこの学習を通じて知った。

歴史に関わっている奥深い学問だとっていたが、あまりにも不理解な部分が多かったのだと知ることになった。そこで、設題1を主題に、ものや技術の流通観点から考古学をみていくと古代の人々の鼓動や生き様、生活が映像化されて入ってくる。文中から臨場感が伝わり、思いをはせることが出来る。そこで現実に立ち返り、テキストの中にあった具体例をあげて書き進めていく。

ものといえば印象的であったのが、礼文島の船泊遺跡から平貝やイモ貝で作られた装飾品が出土したことである。礼文島は日本列島最北の島である。南の暖かい海に生息している貝が運ばれて来たということだ。南の島の貝がである。献上品なのか、交易品として、遠く離れた北の地にひとの手から手へと運ばれたのだ。

また、ヒスイ製の装飾品も出土したとある。1700キロ離れた糸魚川周辺から利尻島に運ばれたのだ。そのような距離をものともせず交流が行われたということだ。また、初めて目にする「天然アスファルト」というものも出土している。勉強不足であったが、黒曜石製のアスファルトを生活の中で活用していたことも知った。秋田県や新潟県産のものもあるのに、近いという理由で国内ではなくサハリン産のものが使われていたことが判明している。ユーラシア北方地域との交流を示しているのだ。飛行機もなく、鉄道整備もない縄文時代に盛んに交易していたのだ。便利な現代から見ても遠い距離である。そんな現実を目の当たりにすると我々としても驚きを隠せない。そして、他にも交易品としてあらゆる地域のものが集まって来ていたのだ。

技術の移動と広がりの具体例として、遊牧民の造った白い城壁をまず、取り上げたい。テキストp176に記述してある。約1500年前に遊牧民の系統の支配者によって造られた城の跡とのことだ。そこでひとつ疑問が出る遊牧民が城を造る時代、文化があったのかと驚きがあった。遊牧民と言えば、居を構えないことが遊牧民のはずである。結びのページにその疑問を解決に導く内容が解説されていた。「現地に足を運ぶのが、最も大切なことだ。」と机上の考えより、しっかりとこの目で見ることが重要なのだと。文献よりも直接、自分自身で現地に足を運ぶことこそ、考古学の真髄であり、あるべき姿なのだ。そして、白い壁の技術が1500年前には現実にあり、日本家屋に見られる三和土のルーツであったことを知る。幼い頃に見た三和土や壁に使用されていたのだ。そもそも三和土とは「『敲き土(たたきつち)』の略で、赤土・砂利などに消石灰とにがりを混ぜて練り、塗って敲き固めた素材。3種類の材料を混ぜ合わせることから「三和土」と書く。土間の床に使われる。」(ウキペディア調べ)三和土自体、いまではコンクリートに変わっているが、今でもある倉の白い壁にこの技術が生かされているということなのだ。しごく頑丈なものだから、現在も残っていて歴史を感じることが出来るのだ。

そして、原の辻遺跡の車馬具の部品だ。p187にもあるように「その当時の外来文物が、日本列島に入ってくるあり様を考える材料として、重要であることがわかる。」とある。「小さな金属製品にも、さまざまな地域の営みが凝縮されているのである。」と結ばれている。本来、当時あるわけのないものが、交易、交流を通じて海を越え、もたらされたのだ。ひとつひとつのもの、こと、跡などがヒントのように、我々に語りかけるのだ。そこでその部品の出どころと思われる百済を歴史から紐解いてみた。「百済(くだら[1]、旧字体:百濟、4世紀前半 - 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。」とある。また「百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城時代(475年まで)、熊津時代(475-538年)、泗沘時代(538から)に分類される。漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。538年には新たな首都として泗沘を建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。」そして「中国の南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。」とあった。「中国で南北朝時代が終焉を迎え、隋が成立すると隋の高句麗遠征に加わるも逆に高句麗から侵攻されることになり、ついで唐がその支配を握ると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、聖王死後の百済と対立していた新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。」(ウキペディア調べ)やはり日本と百済はしっかりとした交流の歴史があったからこそ、660年代に支援したのだと想像できる。

古代の営みを論理的に想像し、考え、状況から意味を汲み取ることを繰り返す地道な努力で、古代の技術の広がり、交流の有無などが解り、考古学の視点から歴史を私たちも垣間見られることが出来るのだ。

そのことを踏まえ、再読して行くと何故、どのように、どんな意味があるのか?などなど、交易、交流そのものから目が離せなくなる。

一人一人の人、国、地域が交流を持つことを強く望まなければ、かなわない距離と時間と危険性だ。当初の目的は別であったかもしれないが、人の想像をはるかに超えている行為だ。論点はかなりズレてしまうかもしれないが、先人が歩み、進めたこの勇気ある行動、行為を現代人も知って、国際交流、または国際貢献に生かすべきだ。この勇気や好奇心の火を絶やすことなく、歴史を支える考古学を元にアプローチして行くことが肝心なのだ。

2020年1月11日土曜日

暁の挑戦〜大学1-14〜

【心理学】設題2


書籍:「心の理解を求めて」

著者:橋本 憲尚

主題:多数者への同調や権威者への服従はどのようになされるか解説しなさい。


多数者への同調はどのようになされるかについて述べていく。


1.P171「多数者の同調」のところに「それぞれの集団には特有のルールや行動様式、価値観がある。」「なかには規範を受け入れないメンバーもいる。そうした逸脱者に対して、一致への圧力や集団からの排斥という形で、多数者の力が行使される。」とある。たしかに、多かれ少なかれ、集団の中にこのような現実や空気感があることは否めない。良くも悪くもこの価値観を共有して、溶け込めた、または溶け込めると思えるところがある。そのリーダーのメンバー への対応とリーダーとの相性もあるだろう。

2.「アッシュ(1951)は、多数者の意見が個人の判断を歪曲する。」実験を踏まえると「他のみんなが一致している中で自分だけ異なった意見を主張し続けることはかなり困難であろう。」とある。実験も物語るように、自分が間違っていると思う。よほど確信があることであれば、貫くことが出来ても、目で見ても、知らないことであれば、自分を疑ってしまう。その対応は難しい。

3.「多数者への同調の背後にある心理は一様ではない。」「自分に確信がもてないときに、他者を参考にして自分の意見や行動を変容することがある。」「判断が困難であり、確信がもちにくいときほど同調が起きやすい。」「人はまた力を感じるためにその人たちを模倣する結果として同調する場合もある。」「異質な者として孤立してしまう恐怖から多数者へ同調したり、嘲笑や避難を恐れて追従する場合もある。」「集団に所属することが自分にとって重要である(得をする、魅力がある、他に行き場がないなど)ほど同調は起きやすい。」とある。確かに得だと思えることがあれば、そうなる。孤独感が人を不安にさせる。あの人のそば、もしくは傘の下に入れば、安心、安全だと思える。難しすぎて自己判断は不可能だと思い、責任転嫁したい。など理由は多種多様だ。

集団でいじめをするような「P110攻撃行動は、所属する集団の規範に同調する行動」とある。決まりを守れないものは悪だ、という意外と真面目さがそうさせることがある。グループ、集団の規律を守る為に動いて、成功をおさめているとしたら、なおさらだろう。人は時として、変化、変容を受け入れ、または嫌うところもある。変えてしまいそうな異分子のエネルギーを拒否したいという願望から行われることもある。しかしながらどちらにしても、人が人を傷つける行為はおきてはならないことだ。


次に権威者への服従はどのようになされるかについて述べていく。


1.P174〜「権威者への服従」のところに「代理状態とは、人が自分自身を『他人の要望を遂行する代理人』とみなす状態である。」「代理状態になると、自分の行為に対する責任を感じなくなる。また、権威者による行為の意味づけを受け入れる。」「『権威者に従うこと』が守るべきモラルとなった」守るべきモラルを遂行するという旗印、しかも無責任になれる感覚。これにより、服従が始まる。また、威を借る狐的心情もあると思う。

2.「ミルグラム実験は」「一般の人たちにみられるという『悪の平凡さ』を示すものとして衝撃を与えた。」とある。また「仲間がいれば服従は劇的に減少した。」服従に対し、逆らう行為は、仲間がいれば出来るということだ。古くは、百姓一揆のようなことなのだろう。

3.「竹村・高木(1988)は、中学生を対象にした調査から、いじめを見て見ぬふりをしている傍観者が加害者や周りで面白がっている観衆にどう反応するかで、いじめが助長されるか抑止されるかが左右される可能性を指摘している。多数者に対しても権威者に対してもたとえ少数であっても仲間とともに抵抗すれば影響力を発揮できるという知見を生かすことはできないものだろうか。」とある。ここにいじめを防ぐ手立てが詰まっている。こういった心理の流れをレクチャーするべきだ。


この課題を通してみつけた危惧

1.価値観共有を得られるものと得られないものとの差がある弊害。

価値観は千差万別。共感性の低い者は、中々共有できにくい。学校であれ、仕事であれ、知らん顔をするわけには行かず、団体行動を強いられる。団体行動が苦手な者もおり、そこに軋轢が生まれる。自分の行動に自信が持てる間は、上手くかいくぐれる。しかし、幼稚園〜高校生までの長きに渡り、置かれる立場、状況を考えるとそうもいかない。そこで、多数決に屈することを覚えねばならないのだ。個性という名の厄介な宝物だ。個性を重んじる学社も増えてきているようなので今後に期待する。

2.自己評価の低さからくる自信が持てないという弊害。

文字通り自分への信頼度が低い者がいる。残念なことだが、現実だ。多くは環境によるものが多く感じる。選択の余地のない環境をどう生き、自分の立ち位置を確立して行くかが、大切だ。

3.欲をかくときに生まれる弊害。

人の欲とは、際限がない。一つ得られるとまた一つと動いてしまう。貪欲さを持つことから多く見られる、やる気だけではない得をしたい、得になるならという思い。この根底には、自信の欠如から来る不安解消の可能性がある。欲は多少あった方が良いが、足るを知ることも大切だ。

4.責任逃れからくる責任転嫁の弊害。

みんなで渡れば怖くない。に表される集団心理。言い出しっぺにならないよう空気を読む。自信のなさからくるのだろう。自信が持てる何かを持つことですべてのスキルが上がる。

5.変容からくる恐怖心の弊害。

いままでうまく流れていたのを変えられてしまう恐怖。もっと効率的にもっと合理的になるだろうことはわかっていても失敗の恐れから変えられない。想像力の欠如も考えられる。良いイメージをつくり、恐怖心を取り除き、挑戦する勇気を持つ。

6.皆がやるから安心という集団心理から来る無責任感の弊害。

知らないふりをする、みんなが右に流れたから自分の意思とは別に右に流れる。自分発信ではないから何か起きても自分は責任を取らなくてすむ。そんな考えの中、次におきるのは罪の意識か、後悔か。自分の意見が言えるようになれば、人としての対応力が上がると思う。

7.真面目さ、規律正しさから来る善悪の判断基準のブレの弊害。

真面目さ、正しさばかりに目をやり、本来のあるべき姿を忘れてしまう規律はいかがなものか。頭を硬くせず、柔軟対応に変えることが重要。


心理学は学問であるが、教育学などと合体して、一般常識としてもっとひろまることが望ましい。心理構造がわかれば、集団心理の解明や心の有り様に役立つ。とはいえ、心理学を知らないとした人が少なくなり、教育者も学んでいながら、それでもいじめ、服従などは消滅することはなく、今日もどこかには存在している。いじめ、服従がそこまで、みなを無感覚にしている理由は、保身が正義の条件を無視しているからなのではないか。保身が悪いことではないが、無感覚になるほど、追い込んでいる、逆に苦しみを生むように思える。


つまり同調、服従は、集団心理が他者への無感覚を生み、悪を享受することになり、過剰な保身が、人の弱さを最大にした心理状態なのである。ここを打破するには、一人一人が、学びの意識を持ち、必要とあらば心理学の学びを取り入れたい。その環境をつくるには、心理学の社会的認知と正しい評価が必須なのかもしれない。

2019年12月27日金曜日

暁の挑戦〜大学1-13〜

【教育学】設題1

書籍名「教育学への誘い」

編著者:山崎高哉

主題「教育」を表す言葉(漢語・邦語・英語)の語源のうち最も興味をもったものを一つ選び、それと関連させて、あなたの教育観を述べなさい。


邦語における「をしふ」「そだつ」の語義と自らの教育観を重ねてみた。


邦語の語義である「をしふ」は「ヲシム」で愛に通じる、「そだつ」は「スダツ」=巣立つ由来の「教育」とテキストP6にあり、そう理解した。このような意味付けにすると「教育」とはあまりにも綺麗ごと過ぎではないのか?愛を掲げるのは、言うは易し、行い難しなのではないか?との疑問が出る。


それにもかかわらず、邦語の語義に興味をもったのはなぜなのだろうか?


そこで、興味をもった理由について考察し、述べていこうと思う。


手始めに漢字の教育の語義、英語の教育の語義、邦語の語義がどうなのか理解し、それぞれを比べてみた。


    テキストP5にある漢字における「教育」は「生まれた子どもを育て、その子どもが学ぶべきことを教える」となっている。素晴らしいし、ごもっともであるものの邦語の語義と比較すると平凡さを感じる。興味を持つところまでいかない。

    テキストP5にある漢字における「教育」は、当初「親と子の間」でというのが中心であったとされ、その後、孟子の書物により、第三者が関わり、英才教育のような表現がなされているとある。狭い空間から広い空間へ変化していったと言うことは理解出来る。漢字における「教育」とテキストP6にある邦語における「教育」を比較すると次の部分にあげる意味に興味を持ち、惹かれる。「教えることが人間の『愛惜する情』を基盤とする」という部分だ。

テキストP7にある英語における「教育」は「養い育てる過程」、「しつける過程」「組織的な教授、学校教育、訓練」「能力の開発ないし発展、性格の形成」とある。まったくもって然りである。だが、個人の尊厳、人の感情に対して、意味合いが希薄だ。英語における「教育」とテキストP6にある邦語における「教育」を比較するとやはりあの一文「教えることが人間の『愛惜する情』を基盤とする」という説明に惹かれる。

    テキストP6にある邦語の「教育」の「教えることが人間の『愛惜する情』を基盤とすると同時に、親や大人が愛情をもって子どもに生命を守る手段から様々な知識・技能、人間としてふさわしい行動・態度・生き方に至りまで、しかも『要点をおさえて』教授・指導・訓戒するという意味」に共感を覚えるのだ。心にズシンとくる表現である。そこで、「愛惜の情」の意味を調べてみた。「人や物を愛しく感じ、大切にすることを意味する語。」(webio調べ)とある。その意味も踏まえて、再度熟読すると綺麗事ではない内容であると理解できた。愛ありきの内容だ。言葉だけでは到底叶わない素晴らしい内容であった。綺麗事と解釈した事を反省せざる得ない。

    テキストP7にあるように教育の捉え方も「『教える』ことと『育てる』ことは不可分に結びついてる」とある。それはもともと「育てる」が両方の意味を併せ持つからだとある。育てることは教えること、このことを子育てと考えれば、納得がいく。経験値からも言える。また、興味を持った大きな理由のひとつ、テキストP7にある「育てられる者と育てる者との共同の営為であるのみならず、育ち、育てられるに値する何らかの価値・規範が目的として存在している」とあるところだ。受けとる側と授ける側との方向性が同じであれば「教育」の成果が出やすいのだろう。

教育の成果を調べてみると「思考力、判断力、表現力等に関する評価の工夫」、「関心・意欲・態度や道徳的心情・実践力等に関する評価の工夫」とあった。(文部科学省配布資料より)教育=成果ではないものの逆引き的方法で調べてみると本質が見えてくると思った。思考力、判断力、表現力等は、個人の素質にもよりバラツキはあるが、価値といわれる部分なのだ。関心・意欲・態度や道徳的心情・実践力等が、規範にあたると思われる。共同的に教育を進めることが必要なのだ。成果主義に陥ることなくだ。

そして「本来みづから成長する素質をもったものに対する助成的なはたらき」ということは生まれながらの素質、素材を生かして生きていかれるということが前提なのだと理解でき、生まれたことの意義に繋がると解釈できる。私自身が仕事をしていく上で目標とする境地と重なった。また、テキスト中、4ページと少ないページ数ではあるものの凝縮された「教育」が邦語の語義の中で生き生きと表現されている。人が生まれ、生きていく上で、真の「教育」はこうあり、こうあれなのだ。

テキストP9にある「教育とは、意図的、計画的な『文化化』への援助」とある。また、P11には、社会化と教育の作用について「常に両方の可能性が存在しているのが現実である。」とある。文化化と社会化が、教育のキーワードなのだ。そして、P13の「人格化への方向づけの援助」も必要だ。選択の自由と批判の能力、自発性や自律性、責任を自覚することもあげられる。なによりP15の「学習が成立するように支援する『学習への援助』が『教育』」そのものなのだ。P1617に発達の概念として①成長・成熟②適応③社会化・文化化④人格化⑤自己形成・自己実現があげられている。P23に凝縮された教育とはの文章「人間らしく生き抜くために生涯にわたって努力し続けるようにさせる社会的行為である」とあった。

個性尊重、個性重視が重要であるとされる、テキストP4158にその重要性がとかれている。そもそもの個性を把握し、発達させ、許容し、尊重する。許容することが尊重になるとある。また、テキストP5977の中で「生きる力」をつけることも「教育」が目指す目標として掲げている。家庭、学校、教育関係、対人援助、情報化社会、国際化、価値観、環境、テキスト第3編にある「現代における教育学の課題」の中に綴られている。その内容が日常的教育を浮き彫りにしている。ひとつ、ひとつが「教育」における課題なのだ。教える側は教えること(課題)に愛情を持っていることが、必要だ。共同意識を持ち、課題に向かい、先人の教え・知識を活用し、感謝して臨むことが重要だ。人は皆、存在することに意味があると思わせてくれる「教育」が求められ、目指すめあてなのだと思う

私の「教育観」をまとめてみた。社会に出ても生きて抜くスキル(人間関係の技術も含む)と社会に役に立つ人材になること、そして、人として最低限度の情動を具備させることだ。「教育」は愛惜を持った指導者と成長することを望んでいる学ぶ者との共同の営為なのである。ゆえにどちらかの独りよがりではなりたたないものであるとテキストで理解し、テキストP6にある邦語の「教育」の「教えることが人間の『愛惜する情』を基盤とすると同時に、親や大人が愛情をもって子どもに生命を守る手段から様々な知識・技能、人間としてふさわしい行動・態度・生き方に至るまで、しかも『要点をおさえて』教授・指導・訓戒するという意味」とあるところから、前述のような「教育観」が明確となった。

2019年12月12日木曜日

暁の挑戦〜大学1-12〜

【日本の歴史】設題

書籍名「概論 日本歴史」

編者:佐々木潤之介、佐藤 信、中島三千男、藤田 覚、外園豊基、渡辺隆喜


主題:鎌倉幕府と執権政治について


まずは設問1.をうけて、〈執権〉を調べてみた。「執権は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け、政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。」とある。鎌倉幕府独自の職だったのだ。

「執権職は北条氏が独占し、世襲した。当初から大きな勢力を持っていたが、三代将軍源実朝暗殺後はほとんど幕府の実権を掌握し、政務を執った。しかしながら将軍職は公家や皇族を京から迎える形で名目的存在としてあり、北条氏は形式的服従を貫いていた。」北条氏の権力はこうして、定着していったのかと過程が解った。

「北条氏の嫡流は『得宗家』と称され、得宗家の当主またはその後継者が幼少の時には北条氏の庶流から執権が任じられた。元弘の乱の最終段階(鎌倉の戦い・東勝寺合戦)において、13代基時・14代高時(得宗家)・15代貞顕・16

守時の4名の執権(及び経験者)が鎌倉幕府とともに滅ぼされることになった。初代の『執権』は、1203年(建仁3年)に北条時政が外孫である3代将軍源実朝を擁立した際に政所別当とともに合わせて任じられたのが最初とされている(異説として、初代政所別当である大江広元を初代執権とする説もあるが少数説である。また後述のように北条泰時の時代に初めて登場した説もある)。時政の就任以来、北条氏の権力確立の足場となる。2代執権の北条義時が侍所の別当を兼ねてからは、事実上、幕府の最高の職となった。基本的に鎌倉幕府は、鎌倉殿と御家人の主従関係で成り立っており、北条氏も御家人のひとつに過ぎなかった。」御家人の立場から執権職という地位までに登っていった北条時政の人物像はいかなるものか。

時政は平家ゆかりのものであるが、頼朝の見張り役になったことで頼朝の舅となる。鉢田の戦い、富士川の戦いに挙兵した。その後は御家人としての時政がいた。亀の前事件で空白の期間

があるものの治承・寿永の乱が終結した際、政治力により、京都守護の立場得て、手腕を発揮する。七ヶ国地頭を譲り、駿河守護として活動していた。しかし、義時との対立を深め、時政と政子・義時らの政治的対立も背景にあったからと推測され、以後の時政は二度と表舞台に立つことなく政治生命を終えた。

その後「源氏将軍が3代の源実朝で途絶えてからは、摂関家、皇族から名目上の鎌倉殿を迎え、その下で執権が幕府の事実上の最高責任者となる体制となった。しかし、政敵となる有力御家人を次々と滅ぼし、また執権以外の幕府の要職の多くを北条氏が独占していくにつれて、御家人の第一人者に過ぎなかった北条氏の実質的権力は、漸次増大していった。」とある。

「摂家将軍・宮将軍の下では幕府で行われる訴訟の裁決は、将軍による下文ではなく執権によ

る下知状によって行われることになり、執権が幕府における訴訟の最高責任者となって将軍は訴訟の場から排除される事になるが、これは単なる執権の権力の拡大ではなく鎌倉幕府を維持する上で必要性があったとする見方がある。この考えによれば、御恩と奉公の論理によって支えられていた鎌倉幕府において、将軍は御恩の一環として御家人の所領を安堵して彼らを 保護する義務を負っていたが、御家人同士の所領争いの裁決を下す事で敗れた御家人に対する保護義務を反故にしたと受け取られ、将軍と訴訟に敗れた御家人との主従関係を破綻させる可能性を秘めていた。そのため、所領を安堵する将軍とは別に同じ御家人である執権が訴訟の裁許を行うことで、御家人同士の所領争いにおいて将軍と御家人における御恩と奉公の関係を壊すことなく公正な訴訟が執り行われることになり、幕府の訴訟制度の確立につながったとする。」とある。

「執権による公正な訴訟は御家人にとっても望

ましいものであった。また、合議制の訴訟制度の確立の過程で、かつ将軍の後見人(「軍営御後見」)でもあった北条泰時が、評定衆を取りまとめて将軍の代わりに裁決を行う役目として兼ねた職が執権の始まりで、時政・義時を執権としたのは過去の政所別当・軍営御後見を遡って「執権」と記した『吾妻鏡』の記述に由来とする説もある。やがて、北条氏の権力が増大するにつれて、幕府の公的地位である執権よりも、北条一門の惣領に過ぎない得宗に実際の権力が移動していく事になる。6代執権の長時の時代に、出家した執権の座を譲った得宗である時頼が依然として幕府内の権力を保持し続けた事が、得宗への権力移動の端緒となる。これ以降、得宗と執権が分離し、実際の権力は得宗が持つようになり、執権は名目上の地位となった。さらに、9代北条貞時が幼くして得宗と執権の両方を継承すると、得宗家に仕える御内人が貞時の補佐を名目として幕府の政治に関与する

ようになり、北条高時の時代になると、北条家の執事とも言うべき内管領の長崎氏が権力を握るようになった。」とある。この頃には部下までも権力を持ったのだ。

「近代になって龍粛が1922年(大正11年)に著した『尼将軍政子』の中で源実朝没後に執権が鎌倉幕府の実権を掌握してからの体制を執権政治と表現して以後、この語が広く用いられるようになった。ただし、近年では実朝の死後は北条政子が『尼将軍』として実権を掌握しており、執権政治への移行は政子の死後であるとする見方が出されている他、執権政治を2つに分けて8代北条時宗の急死後、幼少の9代北条貞時が幼くして得宗と執権をともに引き継いでからの体制を得宗専制と呼んで、それ以前の執権政治と分ける区分方法も行われている。」

〈執権職一覧〉

北条時政から始まり、北条義時、泰時、経時、時頼、長時、政村、時宗。

貞時、師時、宗宣、煕時、基時、高時、貞顕、守時。

さて、ここに得宗専制という制度が出てきた。執権とは何が違うのか?

簡単に言えば、北条一族の執権が御家人である評定衆をまとめるのが執権政治。執権は将軍を補佐する役割で幕府の役職。執権は代々北条氏が世襲。

「得宗は北条一門の嫡流(家督を継承する系統、人物)のこととなり、初代執権北条時政から5代時頼までは北条一門の得宗が執権に就任したので、得宗=執権という関係になるが、6代執権長時以降は得宗が執権にならないケースも出てきた。北条氏は他の有力御家人を次々滅ぼし5代時頼の時代に宝治合戦で三浦氏を滅亡させ、北条氏に対抗できる勢力がいなくなった。執権や連署、評定衆、引付衆、侍所、政所、問注所、六波羅探題など幕府の要職を北条一門が占めるようになると、一門をまとめる得宗の発言力が増大。評定衆による合議制は形骸化し、将

軍を補佐する執権の重要性が薄れたことで、得宗が執権に就任する必要性がなくなった。得宗に権力が集中したことで、得宗と側近が幕府の政策を決定する得宗専制政治へと移行していった。」ということは嫡流である得宗家が御内人と共に幕府を牛耳る体制が得宗専制なのだ。

現代政治の世界もともすると世襲制は非難されたりもする。そこまで悪しき制度とは思わぬが、この頃も人の欲がむき出しになっていたことが伺える。そのような行いはいかがなものだろうと疑問は出る。とにかく、将軍を祭り上げ、政治は自分達で行っていたということだ。

しかしながら現在の政治の和製的礎を築いた時代であることは間違いない。そして、鎌倉幕府が滅びるまで、北条方が幕府の実権を握っていたのだ。


〈参考文献〉

橋本義彦「執権 ()」(『国史大辞典 6』(吉川弘文館、1985年) 

上横手雅敬「執権 ()/「執権政治」(『国史大辞典 6』(吉川弘文館、1985年)

五味文彦「執権」/「執権政治」(『日本歴史大事典 2』(小学館、2000年) 

2019年11月27日水曜日

暁の挑戦〜大学1-11〜

【日本の歴史】設題


書籍名「概論 日本歴史」

編者:佐々木潤之介、佐藤 信、中島三千男、藤田 覚、外園豊基、渡辺隆喜

主題:初期議会から日清戦後にかけての政党について


1870年代からスタートした自由民権運動。

1890年の第一議会から日清戦争直前の第六議会までを初期議会呼ぶ。

初期議会と呼ばれる第一議会時の内閣総理大臣は山縣有朋である。最初の内閣総理大臣は、伊藤博文。憲法発布時の内閣総理大臣は、黒田清隆。そして、第一議会の内閣総理大臣は山縣有朋である。

初期議会の特徴として、超然主義の富国強兵を推進する藩閥政府と議席で過半数を占める民党との戦いがあった。藩閥政府政党の動向には左右されないと超然主義を取り、かつ朝鮮の利権に興味があり、膨大な軍事費を使いたいとの思いが見える。

それに対して、民党の立憲民進党や立憲改進党は議会の過半数を占めて、この時期に戦争を起こすのには反対、経費削減が中心スタンスだった。それにより対立構図が出来上がっていった。

衆議院の構成は、300議席中、立憲自由党が第一党130議席、立憲改進党も40議席で、民党が過半数を占めていた。

松方正義を首相とする第二議会も、予算案を巡って対立。海軍大臣樺山資紀の蛮勇演説で紛糾し、議会は解散、第二回総選挙となった。この時、内務大臣品川弥二郎による流血の大選挙干渉があった。しかし、結果は民党が過半数を占め、選挙干渉の責任問題で、議会運営の見通しの立たない松方内閣は第三議会終了後、総辞職

した。松方辞職の後、伊藤博文は山県有朋に、総理を打診したが、山県は拒否。そこで伊藤は自らが内閣を組織、第2次伊藤内閣となる。

第2次伊藤内閣のもと、第四議会では、自由党が内閣に接近して、与党化した。また、予算案で紛糾する議会に対して、和衷協同の詔=天皇の建艦詔勅が出され、予算案は通過した。これ以後、民党は政府との対決の手段を、予算審議から条約改正問題へ移すこととなる。

第五議会では、与党化した自由党に対して、民党である立憲改進党に、品川弥二郎の率いる国民協会が接近した。品川は先の選挙干渉の責任をとる形で、政府を出されていた。品川にしてみれば、噴飯やるかたない思いであったろう。自分の選挙干渉のおかげで当選した議員たちに、立憲改進党とともに、政府攻撃をさせた。これを対外硬派連合という。この攻撃に対し、政府は議会を解散。第六議会は、開始とともに内閣弾劾上奏案可決、内閣は議会を解散、泥沼化かと思われた。ところが、この年、日清戦争が始まる。大本営のおかれた広島で、開かれた第七議会は、満場一致で戦費予算を承認。ここに内閣と議会の全面対決は終了した。

日清戦争に目を向けると日清戦争は、政府と政党との関係に大きな変化をもたらした戦争であった。戦争中、政府と政党は政争を一時中止して挙国一致で戦争遂行にあたったが、

戦後になると、政府と衆議院の第一党である自由党は戦後経営をめぐって共同歩調をとり、1895(明治28)年11月、両者は公然と提携を宣言し、軍備拡張などを盛り込んだ予算案を認めた。そして、翌年4月には板垣退助が内務大臣として第2次伊藤内閣に入閣した。これより、同内閣は事実上、自由党との連立内閣となった。また、この年に伊藤内閣のあとを受けて成立した第2次松方内閣は、進歩党と提携して、大隈重信が外相となった。こうした藩閥と政党との連立内閣の出現を通じて、政党はしだいに勢力を伸長していった。1898(明治31)年には、第3次伊藤内閣は、戦後経営のための恒常的な財源を確保するため、地租増徴案を議会に提出したが、自由党と進歩党はともにこれに反対し、同案は否決された。衆議院は解散されたが、同年6月、自由党と進歩党は合同して憲政党を結成し、来るべき総選挙で衆議院の絶対多数を制する形勢となった。その結果、伊藤内閣は退陣し、伊藤はじめ元老たちの推薦を受けた大隈重信と板垣退助が組閣を命ぜられ、大隈を首相とし憲政党を与党とする日本で最初の政党内閣を組織するにいたった。このいわゆる隈板内閣は、首相大隈·内相板垣以下、陸相・海相以外はすべて憲政党員からなっていた。しかし、憲政党は同年8月の総選挙で衆議院の絶対多数を占めたにもかかわらず、自由党系と進歩党系の対立が激しく、文相尾崎行雄が共和演説 を非難されて辞職に追い込まれた。結局、旧自由党系の星亨が暗躍して憲政党を解党させたために同内閣はわずか4カ月余りの短命に終わった。尾崎が帝国教育会で道議高揚を説く演説をしたとき、「もし日本が共和制となれば三井・三菱らは大統領になるだろう」と日本の拝金主義を戒めたのが逆用され、旧自由党系や天皇側近の間から天皇に対する不敬の言動として攻撃され、辞職に追い込まれた。このとき、旧自由党系は新しく憲政党を結成し、旧進歩党系は憲政本党をつくった。あとを継いだ第2次山県内閣は、いったん憲政党と手を結んで、1898(明治31)年、地租増徴案を成立させ、地租率を地価の3.3%に引き上げた。山県内閣は、その後、政党の力をおさえるため、1899(明冶32)年には文官任用令を改正して政党員が官吏になる道を制限し、翌1900年には軍部大臣は現役の大将・中将に限る軍部大臣現役武官制を確立し、また治安警察法をつくつて社会、労働運動を規制するなどの政策をとった。

しかし、超然主義がもはや不可能であることは明らかであった。懸案となっていた衆議院議員選挙法の改正が山県内閣のもとで1900(明治33)年に行われ、選挙権については直接国税の制限額は10円以上に引き下げられて有権者は倍増し、被選挙権における納税額による制限は撤廃されるなど、国民の参政権が拡大されたのである。投票方法も無記名秘密投票制が採用された。このような情勢のなかで、憲政党は文官任用令改正問題で対立を深めていた山県内閣との提携をやめ、伊藤博文に接近し、伊藤も自ら積極的に政党結成に乗り出した。こうして星亨らの指導により憲政党は解党し、伊藤を総裁に擁立して、1900(明治33)年9月立憲政友会が結成された。立憲政友会、初代総裁は伊藤博文、幹部は西園寺公望(18491940)·星亨・松田正久(18451914)・片岡健吉・尾崎行雄·原敬(18561921)・大岡育造(18561928)らであった。かつて自由民権派として活躍した旧自由党系政治家や伊藤系の官僚が中心メンバーとなったが、伊藤は結党にあたって広く実業家・地方議員などにも入党を呼びかけ、また地主層などに多くの支持者を得た。1902(明治35)年の総選挙では190名の代議士を衆議院に送り込んで、過半数を制した(衆議院の定数は376名)。しかし、山県有朋は伊藤の立憲政友

会結成に批判的立場をとり、山県系の官僚やその影響下にあった貴族院議員などは立憲政友会に参加せず、貴族院は立憲政友会と伊藤内閣の反対勢力の拠点となった。

立憲政友会を基礎として190010月に成立した第4次伊藤内閣は半年余りで終わったが、これを機に伊藤・山県らは第一線を退き、元老として内閣の背後から政治を動かすようになった。そして、1901(明治34)年の第1次桂内閣成立以後、山県を後ろ盾に藩閥·官僚勢力に基礎をおく桂太郎(18471913)と、伊藤のあとを継いだ立憲政友会総裁西園寺公望が、交代して内閣を組織する、いわゆる桂園時代が始まった。

このように、帝国議会開設以来10年ほどで立憲政治は定着し、明治憲法体制下に大きな地位と勢力を占め、日本における政党政治発展の基礎が築かれることになった。憲法制定に際して日本が多くを学んだドイツでは、議会の多数党が政権をとることはなかった。

日本の場合、憲法の運用がドイツとはかなり違っていたことがわかる。


〈参考文献〉

詳説日本史研究/山川出版社

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