暁の挑戦〜大学1-15〜

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2020年1月26日日曜日

暁の挑戦〜大学1-15〜

【考古学】設題1


書籍名:「旅する考古学」

著者:門田 誠一

主題考古学資料からみた「もの」(物質やその背景となる文化なども含む)や技術の移動と広がりについて具体例をあげて述べよ。


考古学は人間が地中に残した資料であり、痕跡だとこの学習を通じて知った。

歴史に関わっている奥深い学問だとっていたが、あまりにも不理解な部分が多かったのだと知ることになった。そこで、設題1を主題に、ものや技術の流通観点から考古学をみていくと古代の人々の鼓動や生き様、生活が映像化されて入ってくる。文中から臨場感が伝わり、思いをはせることが出来る。そこで現実に立ち返り、テキストの中にあった具体例をあげて書き進めていく。

ものといえば印象的であったのが、礼文島の船泊遺跡から平貝やイモ貝で作られた装飾品が出土したことである。礼文島は日本列島最北の島である。南の暖かい海に生息している貝が運ばれて来たということだ。南の島の貝がである。献上品なのか、交易品として、遠く離れた北の地にひとの手から手へと運ばれたのだ。

また、ヒスイ製の装飾品も出土したとある。1700キロ離れた糸魚川周辺から利尻島に運ばれたのだ。そのような距離をものともせず交流が行われたということだ。また、初めて目にする「天然アスファルト」というものも出土している。勉強不足であったが、黒曜石製のアスファルトを生活の中で活用していたことも知った。秋田県や新潟県産のものもあるのに、近いという理由で国内ではなくサハリン産のものが使われていたことが判明している。ユーラシア北方地域との交流を示しているのだ。飛行機もなく、鉄道整備もない縄文時代に盛んに交易していたのだ。便利な現代から見ても遠い距離である。そんな現実を目の当たりにすると我々としても驚きを隠せない。そして、他にも交易品としてあらゆる地域のものが集まって来ていたのだ。

技術の移動と広がりの具体例として、遊牧民の造った白い城壁をまず、取り上げたい。テキストp176に記述してある。約1500年前に遊牧民の系統の支配者によって造られた城の跡とのことだ。そこでひとつ疑問が出る遊牧民が城を造る時代、文化があったのかと驚きがあった。遊牧民と言えば、居を構えないことが遊牧民のはずである。結びのページにその疑問を解決に導く内容が解説されていた。「現地に足を運ぶのが、最も大切なことだ。」と机上の考えより、しっかりとこの目で見ることが重要なのだと。文献よりも直接、自分自身で現地に足を運ぶことこそ、考古学の真髄であり、あるべき姿なのだ。そして、白い壁の技術が1500年前には現実にあり、日本家屋に見られる三和土のルーツであったことを知る。幼い頃に見た三和土や壁に使用されていたのだ。そもそも三和土とは「『敲き土(たたきつち)』の略で、赤土・砂利などに消石灰とにがりを混ぜて練り、塗って敲き固めた素材。3種類の材料を混ぜ合わせることから「三和土」と書く。土間の床に使われる。」(ウキペディア調べ)三和土自体、いまではコンクリートに変わっているが、今でもある倉の白い壁にこの技術が生かされているということなのだ。しごく頑丈なものだから、現在も残っていて歴史を感じることが出来るのだ。

そして、原の辻遺跡の車馬具の部品だ。p187にもあるように「その当時の外来文物が、日本列島に入ってくるあり様を考える材料として、重要であることがわかる。」とある。「小さな金属製品にも、さまざまな地域の営みが凝縮されているのである。」と結ばれている。本来、当時あるわけのないものが、交易、交流を通じて海を越え、もたらされたのだ。ひとつひとつのもの、こと、跡などがヒントのように、我々に語りかけるのだ。そこでその部品の出どころと思われる百済を歴史から紐解いてみた。「百済(くだら[1]、旧字体:百濟、4世紀前半 - 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。」とある。また「百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城時代(475年まで)、熊津時代(475-538年)、泗沘時代(538から)に分類される。漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。538年には新たな首都として泗沘を建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。」そして「中国の南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。」とあった。「中国で南北朝時代が終焉を迎え、隋が成立すると隋の高句麗遠征に加わるも逆に高句麗から侵攻されることになり、ついで唐がその支配を握ると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、聖王死後の百済と対立していた新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。」(ウキペディア調べ)やはり日本と百済はしっかりとした交流の歴史があったからこそ、660年代に支援したのだと想像できる。

古代の営みを論理的に想像し、考え、状況から意味を汲み取ることを繰り返す地道な努力で、古代の技術の広がり、交流の有無などが解り、考古学の視点から歴史を私たちも垣間見られることが出来るのだ。

そのことを踏まえ、再読して行くと何故、どのように、どんな意味があるのか?などなど、交易、交流そのものから目が離せなくなる。

一人一人の人、国、地域が交流を持つことを強く望まなければ、かなわない距離と時間と危険性だ。当初の目的は別であったかもしれないが、人の想像をはるかに超えている行為だ。論点はかなりズレてしまうかもしれないが、先人が歩み、進めたこの勇気ある行動、行為を現代人も知って、国際交流、または国際貢献に生かすべきだ。この勇気や好奇心の火を絶やすことなく、歴史を支える考古学を元にアプローチして行くことが肝心なのだ。

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