暁の挑戦〜大学1-11〜

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2019年11月27日水曜日

暁の挑戦〜大学1-11〜

【日本の歴史】設題


書籍名「概論 日本歴史」

編者:佐々木潤之介、佐藤 信、中島三千男、藤田 覚、外園豊基、渡辺隆喜

主題:初期議会から日清戦後にかけての政党について


1870年代からスタートした自由民権運動。

1890年の第一議会から日清戦争直前の第六議会までを初期議会呼ぶ。

初期議会と呼ばれる第一議会時の内閣総理大臣は山縣有朋である。最初の内閣総理大臣は、伊藤博文。憲法発布時の内閣総理大臣は、黒田清隆。そして、第一議会の内閣総理大臣は山縣有朋である。

初期議会の特徴として、超然主義の富国強兵を推進する藩閥政府と議席で過半数を占める民党との戦いがあった。藩閥政府政党の動向には左右されないと超然主義を取り、かつ朝鮮の利権に興味があり、膨大な軍事費を使いたいとの思いが見える。

それに対して、民党の立憲民進党や立憲改進党は議会の過半数を占めて、この時期に戦争を起こすのには反対、経費削減が中心スタンスだった。それにより対立構図が出来上がっていった。

衆議院の構成は、300議席中、立憲自由党が第一党130議席、立憲改進党も40議席で、民党が過半数を占めていた。

松方正義を首相とする第二議会も、予算案を巡って対立。海軍大臣樺山資紀の蛮勇演説で紛糾し、議会は解散、第二回総選挙となった。この時、内務大臣品川弥二郎による流血の大選挙干渉があった。しかし、結果は民党が過半数を占め、選挙干渉の責任問題で、議会運営の見通しの立たない松方内閣は第三議会終了後、総辞職

した。松方辞職の後、伊藤博文は山県有朋に、総理を打診したが、山県は拒否。そこで伊藤は自らが内閣を組織、第2次伊藤内閣となる。

第2次伊藤内閣のもと、第四議会では、自由党が内閣に接近して、与党化した。また、予算案で紛糾する議会に対して、和衷協同の詔=天皇の建艦詔勅が出され、予算案は通過した。これ以後、民党は政府との対決の手段を、予算審議から条約改正問題へ移すこととなる。

第五議会では、与党化した自由党に対して、民党である立憲改進党に、品川弥二郎の率いる国民協会が接近した。品川は先の選挙干渉の責任をとる形で、政府を出されていた。品川にしてみれば、噴飯やるかたない思いであったろう。自分の選挙干渉のおかげで当選した議員たちに、立憲改進党とともに、政府攻撃をさせた。これを対外硬派連合という。この攻撃に対し、政府は議会を解散。第六議会は、開始とともに内閣弾劾上奏案可決、内閣は議会を解散、泥沼化かと思われた。ところが、この年、日清戦争が始まる。大本営のおかれた広島で、開かれた第七議会は、満場一致で戦費予算を承認。ここに内閣と議会の全面対決は終了した。

日清戦争に目を向けると日清戦争は、政府と政党との関係に大きな変化をもたらした戦争であった。戦争中、政府と政党は政争を一時中止して挙国一致で戦争遂行にあたったが、

戦後になると、政府と衆議院の第一党である自由党は戦後経営をめぐって共同歩調をとり、1895(明治28)年11月、両者は公然と提携を宣言し、軍備拡張などを盛り込んだ予算案を認めた。そして、翌年4月には板垣退助が内務大臣として第2次伊藤内閣に入閣した。これより、同内閣は事実上、自由党との連立内閣となった。また、この年に伊藤内閣のあとを受けて成立した第2次松方内閣は、進歩党と提携して、大隈重信が外相となった。こうした藩閥と政党との連立内閣の出現を通じて、政党はしだいに勢力を伸長していった。1898(明治31)年には、第3次伊藤内閣は、戦後経営のための恒常的な財源を確保するため、地租増徴案を議会に提出したが、自由党と進歩党はともにこれに反対し、同案は否決された。衆議院は解散されたが、同年6月、自由党と進歩党は合同して憲政党を結成し、来るべき総選挙で衆議院の絶対多数を制する形勢となった。その結果、伊藤内閣は退陣し、伊藤はじめ元老たちの推薦を受けた大隈重信と板垣退助が組閣を命ぜられ、大隈を首相とし憲政党を与党とする日本で最初の政党内閣を組織するにいたった。このいわゆる隈板内閣は、首相大隈·内相板垣以下、陸相・海相以外はすべて憲政党員からなっていた。しかし、憲政党は同年8月の総選挙で衆議院の絶対多数を占めたにもかかわらず、自由党系と進歩党系の対立が激しく、文相尾崎行雄が共和演説 を非難されて辞職に追い込まれた。結局、旧自由党系の星亨が暗躍して憲政党を解党させたために同内閣はわずか4カ月余りの短命に終わった。尾崎が帝国教育会で道議高揚を説く演説をしたとき、「もし日本が共和制となれば三井・三菱らは大統領になるだろう」と日本の拝金主義を戒めたのが逆用され、旧自由党系や天皇側近の間から天皇に対する不敬の言動として攻撃され、辞職に追い込まれた。このとき、旧自由党系は新しく憲政党を結成し、旧進歩党系は憲政本党をつくった。あとを継いだ第2次山県内閣は、いったん憲政党と手を結んで、1898(明治31)年、地租増徴案を成立させ、地租率を地価の3.3%に引き上げた。山県内閣は、その後、政党の力をおさえるため、1899(明冶32)年には文官任用令を改正して政党員が官吏になる道を制限し、翌1900年には軍部大臣は現役の大将・中将に限る軍部大臣現役武官制を確立し、また治安警察法をつくつて社会、労働運動を規制するなどの政策をとった。

しかし、超然主義がもはや不可能であることは明らかであった。懸案となっていた衆議院議員選挙法の改正が山県内閣のもとで1900(明治33)年に行われ、選挙権については直接国税の制限額は10円以上に引き下げられて有権者は倍増し、被選挙権における納税額による制限は撤廃されるなど、国民の参政権が拡大されたのである。投票方法も無記名秘密投票制が採用された。このような情勢のなかで、憲政党は文官任用令改正問題で対立を深めていた山県内閣との提携をやめ、伊藤博文に接近し、伊藤も自ら積極的に政党結成に乗り出した。こうして星亨らの指導により憲政党は解党し、伊藤を総裁に擁立して、1900(明治33)年9月立憲政友会が結成された。立憲政友会、初代総裁は伊藤博文、幹部は西園寺公望(18491940)·星亨・松田正久(18451914)・片岡健吉・尾崎行雄·原敬(18561921)・大岡育造(18561928)らであった。かつて自由民権派として活躍した旧自由党系政治家や伊藤系の官僚が中心メンバーとなったが、伊藤は結党にあたって広く実業家・地方議員などにも入党を呼びかけ、また地主層などに多くの支持者を得た。1902(明治35)年の総選挙では190名の代議士を衆議院に送り込んで、過半数を制した(衆議院の定数は376名)。しかし、山県有朋は伊藤の立憲政友

会結成に批判的立場をとり、山県系の官僚やその影響下にあった貴族院議員などは立憲政友会に参加せず、貴族院は立憲政友会と伊藤内閣の反対勢力の拠点となった。

立憲政友会を基礎として190010月に成立した第4次伊藤内閣は半年余りで終わったが、これを機に伊藤・山県らは第一線を退き、元老として内閣の背後から政治を動かすようになった。そして、1901(明治34)年の第1次桂内閣成立以後、山県を後ろ盾に藩閥·官僚勢力に基礎をおく桂太郎(18471913)と、伊藤のあとを継いだ立憲政友会総裁西園寺公望が、交代して内閣を組織する、いわゆる桂園時代が始まった。

このように、帝国議会開設以来10年ほどで立憲政治は定着し、明治憲法体制下に大きな地位と勢力を占め、日本における政党政治発展の基礎が築かれることになった。憲法制定に際して日本が多くを学んだドイツでは、議会の多数党が政権をとることはなかった。

日本の場合、憲法の運用がドイツとはかなり違っていたことがわかる。


〈参考文献〉

詳説日本史研究/山川出版社

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