暁の挑戦〜大学1-16〜

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2020年2月29日土曜日

暁の挑戦〜大学1-16〜

【考古学】設題2


書籍名:「旅する考古学」

著者:門田 誠一

主題:考古学資料からみた精神生活(信仰、儀礼、祭祀、習俗など)について具体的に論述せよ。


設題2にフォーカスして、資料であるテキストを通読すると小牧野遺跡、伊勢堂岱遺跡、相島積石塚群、落川遺跡などなど、初めて目にする名前ばかりであったが、その中でもテキストP109に小牧野遺跡の記述に目が止まり調べてみた。「小牧野遺跡(こまきのいせき)は、青森県青森市にある縄文時代後期前半の遺跡。所在地は青森市野沢字小牧野。三内丸山遺跡の南に位置する。1995年(平成7年)317日に国の史跡に指定された。」(ウキペディア調べ)とあった。その中に記載ある環状列石を調べてみると「環状石籬ともいう。巨石記念物の一つで,自然石を環状に並べたもの。ヨーロッパでは新石器時代から鉄器時代にかけてのものが多くみられ,著名なものとしてイギリスのストーンヘンジがある。太陽崇拝に関係ある祭祀遺跡ともいわれ,また墳墓に関係するものもあるといわれる。日本では直径 1030mの円形に立石を並べてあるものから,直径12mの小さいものまでを含めている。北海道の忍路環状石籬,秋田の大湯環状列石は有名。年代は明らかではないが,発見される遺物から判断すると,縄文時代後期あるいはその流れをくむ文化の所産であろうと思われる。」(ブリタニカ百科事典調べ)いわゆるストーンサークルなのだ。テキストp110111にあるように、縄文時代の祭祀の場として存在し、精神生活に関わっていたことがわかる。

また、p114から始まるクマへの信仰の章を読み、浮かんだのがコミックやアニメになっている「ゴールデンカムイ」だ。カムイはアイヌ語で神格を有する高位の霊的存在のこと。『ゴールデンカムイ』は、野田サトル氏による日本の漫画。明治時代末期の北海道・樺太を舞台にした作品。このストーリーの中でアイヌ(民族)が描かれている。アイヌの人々がクマを特別扱いする場面が見られる。そこでカムイ()を調べるとクマへの信仰の記述があった「ヒグマがアイヌの狩りにより捕らえられたとき、それをアイヌは『キムン・カムイが毛皮と肉を持って自分たちのもとにやってきてくれた』と解釈する。アイヌは、キムン・カムイから毛皮や肉など、利用できるものを利用させてもらい、またカムイに感謝してカムイノミ(カムイ送りの儀式)を行って還ってもらう。」(ウキペディア調べ)とあった。やはり、精神生活に関わっていることが垣間見れる。元々原住民であるアイヌの生活の中のカムイは他の多くの宗教の「神」とは違い、人間と対等に並び立つ存在とされていて、アイヌの世界は人間とカムイがお互いを支えあうことで成り立っていると考え、カムイをカムイ・モシリへ返還したり、カムイを新しく作るのは、人間が主導権を握っていると考えるのだ。独特の考えに見えるが、アイヌ民族の伝統的信仰は日本神道に近いとする説もあり、その場合多神教に分類される。日本語の「カミ」と同様、「霊」や「自然」と表現してもおかしくない(キリスト教の神のような唯一絶対の存在ではない)。日本神道の「八百万の神」も、アイヌの信仰文化と同様の「アニミズム」の特徴があるという説もある。

そして次の章の離島の積石塚も興味深い。積石塚を調べてみた。「積石塚とは、土の代りに石を積んで墳丘を造った墳墓をいう。石を用いるのは,礫石が入手しやすく,凍結期にもつくりやすいなどの理由によるものと思われる。世界各地に分布するが,特に北ヨーロッパのバルト海周辺からロシア,シベリア,モンゴルに多い。また中国,朝鮮の石器時代から金属器時代初期の墳墓にもみられ,日本では,香川県石清尾山,長崎県対馬,長野県須坂市大室の古墳群などの積石塚がよく知られている。」(ブリタニカ百科事典調べ)とある。積石塚自体、アジア、ヨーロッパともに寒い地域が多く見られるのに対し、日本では温暖地に見られるにはなぜなのか?と疑問を持った。ジーコンボ古墳にあるような交易民説、西日本の島々にある風葬説などがあるようだ。風葬にフォーカスして調べてみると日本だけではなく、温暖地に多く見られるようだ。「風葬とは、故人のご遺体を自然の中に安置し、そこで風など自然の営みに任せる形で風化させるという供養方法です。俗な言い方をすれば、吹きさらしのところで自然任せにご遺体を葬るということになります。風葬が行われる主な場所として樹木の上や崖、洞窟の中などが選ばれ、世界各地で行われています。」と葬儀社の中の終活ネットに記述があった。沖縄の風葬が、詳しく取り上げられており「洗骨という風葬の一過程について見ていきましょう。

洗骨とは沖縄の風葬独特の風習であるとともに、風葬の中でも重要なプロセスとされています。沖縄では、風葬で骨だけになった故人のご遺体はそのままの状態では穢れているため、神仏の前に出られない存在と考えられていました。そこで、洗骨という段階が必要となります。この洗骨という行程では、ご遺体を一度棺に納めて風化するのを待ちます。そして、風化した頃合いに取り出して、親族の女性の手によって海水などでご遺骨を洗い、あらためて骨壷(厨子甕)に入れて弔います。洗骨は戦前まで存在していましたが、戦後になって女性解放運動や保健所の指導によって消滅し、現在ではあまり見られなくなりました。」と締めくくられている。沖縄文化は独特だとしても、暑い地域の土葬はどこも衛生上よろしくない。そこで風にさらされることで、湿気や匂いが抑えられ、骨化することを早め、地域を守ったのではと考えられる。そこにはもちろん精神生活が当たり前のようにあったのだ。

信仰という言葉がしっくりときたのは、テキストp136から始まる章であった。そこは私が住む地域でもあり、当初、想像がつきにくいからこそ、逆に精神生活と古代の息吹を感じられる遺跡に驚きがあり、興味をもったのかもしれない。関東の古代文字文化の存在をしり、年号がわかり、墨書土器なるものの存在を知り得た。しかも千葉の公津原遺跡群(成田市)の中の加良部遺跡から出土したものには、忍保寺、新寺、大寺など寺院名と見られる墨書や仏に供えた器であることが 示されていて、仏堂(堀立柱建築)の存在が遺跡にあったのだ。また、現在のルーツのような仏教施設もあったことが記述されている。三宝に繋がる様々な文献資料や遺跡からの出土物が物語っている。まさにここに民衆信仰があったことを我々に伝えてくれているのだ。

三宝とは「仏教の用語。サンスクリット語のトリーニ・ラトナーニ、トリ・ラトナtri-ratnaまたはラトナ・トラヤratna-trayaの訳であり、「三種の宝」の意。仏(ブッダBuddha)と法(ダルマDharma)と僧(サンガSamgha)の三つをいう。この三つは仏教徒が尊崇すべき基本であるので、世の宝に譬(たと)えて三宝と称する。仏宝とは悟りを開いた人で仏教の教主を、法宝とはその仏の教えで真実の理法を、僧宝とは仏の教えのもとで修行する出家者の和合の教団をさす。古く原始仏教において、仏教を構成する根本的要素と考えられ、後代には三宝の見方について種々な解釈が行われた。三宝はそれぞれ別異なものであるとみなす説(別相(べっそう)三宝)、本質的に同一であるとみなす説(一体三宝)、あるいは仏像と経巻と出家者は仏教を維持し伝えていく意味での三宝であるとみなす説(住持(じゅうじ)三宝)などがある。三宝は仏教のあるところかならず存在し、三宝に帰依(きえ)すること(三帰依または三帰という)は仏教への入信の最初の要件とされる。[藤田宏達]」日本大百科全書より。ここに原始仏教の姿がとらえられる。

その原始仏教(根本仏教)・・・紀元前4世紀(または5世紀)⇒ スリランカに原始仏教伝来・・・紀元前3世紀

部派仏教(アビダルマ)・・・紀元前3世紀頃(仏滅後100年後)

初期大乗仏教(中観)・・・紀元前1世紀(仏滅後約300年後)

 中国に仏教伝来が始まる・・・1世紀

中期大乗仏教(如来蔵・唯識)・・・3世紀(仏滅後約700年後)

 中国を経由して日本に仏教伝来・・・6世紀

後期大乗仏教(密教)・・・7世紀(仏滅後約1100年後)

その後、仏教消滅・・・5世紀からのインドでの仏教弾圧、13世紀のイスラム侵攻により滅亡(仏滅後約1700年後)したとある。(仏教の教え〜原始仏教の世界より)

精神生活の切り口からでも、考古学は国や地域を越えた広がりをもつ、研究分野であることが理解できた。

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