西洋占星学 -星脳®︎-

星脳®︎の暁瑠凪は、西洋占星学研究家として人生を星よみの研究、実践、鍛錬の日々を繰り返して参りました。

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2019年11月15日金曜日

【2019/11月後半スケジュール】


おはようございます、暁です。11月後半です。あと1カ月半、粛々と意識を持って進みましょう

2019/11月後半スケジュール】

11/16土曜 1112:30 個人レッスン@横浜

11/18月曜 13時〜竹橋「東京毎日文化センター」タロット講座、15時〜西洋占星学講座、17:30〜蓮沼

11/19火曜 1921HARA塾「環(くるり)@原宿

11/20水曜 1121 原宿占い館「塔里木タリム」出演(ヴェルニlog in)

11/21木曜 1121 原宿占い館「塔里木タリム」出演(ヴェルニlog in)

11/22金曜 1121 原宿占い館「塔里木タリム」出演(ヴェルニlog in)

11/24日曜 1315HARA塾「環(くるり)@原宿

11/25月曜 1617:30個人レッスン、18:30FT有志忘年会@田園調布

11/26火曜 1315HARA塾「環(くるり)@原宿、1718時ミク役員会、1921時ミクセリア忘年会@横浜ポートサイド地区

11/27水曜 1121 原宿占い館「塔里木タリム」出演(ヴェルニlog in)

11/28木曜 1121 原宿占い館「塔里木タリム」出演(ヴェルニlog in)

11/29金曜 1121 原宿占い館「塔里木タリム」出演(ヴェルニlog in)

2019年11月12日火曜日

暁の挑戦〜大学1-10〜

【民俗学】設題1

書籍名:「新・民俗学を学ぶ:現代を知るために」

著者八木透編

主題:「ユネスコ無形文化遺産の意義と課題」・「日本人の霊魂観と来世観」・「江戸時代の民間宗教者の実態」・「現代社会における〝家の意義」・「仏教民族学の可能性」の中から、具体的な課題をひとつ取りあげ、その内容について、各自の見解も交えながら論述せよ。


課題のひとつである「日本人の霊魂観と来世観」を論述する。


テキストP104にある「伝統的社会の霊魂観と来世観」「死後に認識される霊魂」の冒頭文「『死』は肉体からの魂の離脱として捉えられていた。霊肉二元論的認識である。」について取り上げてみた。私自身も幼い頃よりこのことが、真実かのような認識の元、育ってきた。大半の日本人は疑問も持たず、この霊肉二元論的認識を通常認識として、昭和を生きてきたと思う。この認識が、ご先祖様に通じる考え方でもあると思う。そして、そこから派生して、来世観に繋がっていったのではないか。

その文のあとに「古代において、霊が意識されるのは、凶事が起きた時であり、それは死者の怨念が引き起こしたものとして理解されていた。霊を鎮めるために、平安時代には御霊会が営まれた。もともと霊肉二元論的要素があるところに、江戸時代以降、寺院を介して仏教的霊肉二元論の観念が入り込んだために、霊の観念は複雑化したものと考えられる。」とあり、時代背景が記されている。古代においての怨霊の考え方は代替案の一つに過ぎないのではないかとの疑問が生まれる。何かの所為にするという考え方だ。

霊肉二元論を調べてみた。「実体二元論(じったいにげんろん、英: Substance dualism)とは、心身問題に関する形而上学的な立場のひとつで、この世界にはモノとココロという本質的に異なる独立した二つの実体がある、とする考え方。ここで言う実体とは他の何にも依らずそれだけで独立して存在しうるものの事を言い、つまりは脳が無くとも心はある、とする考え方を表す。ただ実体二元論という一つのはっきりとした理論があるわけではなく、一般に次の二つの特徴を併せ持つような考え方が実体二元論と呼ばれる。

この世界には、肉体や物質といった物理的実体とは別に、魂や霊魂、自我や精神、また時に意識、などと呼ばれる能動性を持った心的実体がある。そして心的な機能の一部(例えば思考や判断など)は物質とは別のこの心的実体が担っている。」(実体二元論=霊肉二元論、ウキペディア調べ)検証はできないものの形而上学の分野に分類されている。魂や霊魂が心としての捉え方なのだ。また、仏教的には「心身一如」心身は一体であるとする考え方のはず、神道の二元論と重なって神仏信仰になっている日本人の生死観に対する柔軟性が現れているのではないかと思う。

テキスト内「先祖観」の中には「来世観が不明確な中での遺体のこの世からあの世への即時移行は、霊も含めて死者のこの世からの追放を意図するものと考えられる。ただし、沖縄では『ニライカナイ』と呼ばれる『あの世』が明確に想定されている。」とある。また「『あの世の存在』との意識があるだけで、『先祖』というイメージは曖昧なものとなっている。」がしかし、人の死〜葬儀〜お別れ〜先祖〜そして生まれ変わり(輪廻転生)だと理解している私としたら、その間に生きる人々の別れに対する辛い思いから解放するための優しさか、次へ進むための現実性を推進するためにあの世とやらに置き換えて、一旦別れるという考え方に行き着いたのではないかと思う。何度か死を見てきた私として、あの人は、あの世で楽しく有意義にあの世を満喫しているはずと思いたい。そして、又会う日までと思いたい。こころを軽くする術として、あの世説が、生きている者のために存在させているのではと思う。先祖のイメージについては、数代前の人には現実性が高いので先祖的意識を持とうと思えば持てる。その前となると存在は、人間が生を受けることを鑑みれば自ずと理解はできる。しかし、現実性に欠けるのと現代においての法律、教育がそうさせるのだと思われる。

いわゆるどこかの宗教に偏ってはならないということの功罪から先祖的意識、霊魂観、来世観を持つことをためらわれるようになったと推測できる。

テキスト内P106〜の「火葬の受容」には「『条例による土葬禁止』『墓地が狭くなったこと』『衛生観念の発達』『古臭いという観念』『火葬場ができた』などである。」意外と理由が明確であると感じた。「火葬受容の葛藤」の中に「政治的な禁止は別にして、この世の側の都合や感覚によって葬法が選択されているということができる。」そして「葬法の相違と死生観との連関性の低さを示しているといえる。さらにこのことは、来世観が不明瞭であることを背景とすると考えられる。」やはり、沖縄のようにあの世が明確であれば良いのか?そこもまた、疑問ではある。そこで「ニライカナイ」を調べてみた「遥か遠い東(辰巳の方角)の海の彼方、または海の底、地の底にあるとされる異界。豊穣や生命の源であり、神界でもある。年初にはニライカナイから神がやってきて豊穣をもたらし、年末にまた帰るとされる。また、生者の魂もニライカナイより来て、死者の魂はニライカナイに去ると考えられている。琉球では死後7代して死者の魂は親族の守護神になるという考えが信仰されており、後生(ぐそー:あの世)であるニライカナイは、祖霊が守護神へと生まれ変わる場所、つまり祖霊神が生まれる場所でもあった。」(ウキペディア調べ)なるほど、これだけ明瞭に語りつがれれば、祖先観や霊魂観、来世観がしっかりと持てる。現実主義者には、ハテナがいっぱいになるだろうが。しかしながら、私が存在することは事実、私を母が産み、その母も祖母から産まれ、祖母も曽祖母から産まれた。遡ることが古代までできるのだ。あるかもしれないが、今のところ突然変異で人が誕生した記録はない。ということは人から人が誕生し、現世に繋がっているという事実。その事実の上に立つと来世があるというところに行き、あの世の存在感が増す。


平安時代には特に、霊魂に対する恐れが多く見られ、霊魂を鎮めるための祭事が沢山存在した。何かが起こると怨霊の所為にする。今の世の中にも何かの所為にして、縛りつけることもおきてはいる。成長が見られない気がして、残念だ。御霊は何もしない。神仏信仰からすれば、二元化ではあるが、心身だから元は人であるし、ブッダの教えによれば、先祖のカルマ消化もありえないのだ。ゆえに怖がることではない。恐れていては成長はない。それよりも感謝し、あなたがいたから、私が存在すると意味づけたい。そして、私の存在が次世代に繋げる。そもそも現代は自身が先祖になるという意識が薄いように感じる。次へ繋げる、次に繋がるからこそ、今世をつつがなく過ごそうとする正善的意識が働く、だからこそ生きていくためにも来世観が必要なのだ。


つまり霊魂観は人が人でなくなることではなく心(霊魂、魂)として残り、あの世(ある一定の場所)に一時的に拠る。来世観も同様、その場所からまた今世に現れ、誰かの身体と一体化する。この場は修行の場として、苦難、苦行を乗り越え、心を丸く丸く球体にする。その繰り返しを意識する事で魂に磨き(イメージの世界)この世界(地球)に戻ることなく、あの世の先(パラダイス)へ行かれるのだと思う。それが世に言う神的存在なのではと思う。人として産まれたブッダしかり、キリストしかり、サトリの領域へ至ったではないのか。

2019年10月28日月曜日

暁の挑戦〜大学1-9〜

【日本文化史】設題2

書籍名「日本文化史をよむ 5つのキーワード」

著者:藤田 正勝

主題:テキストの第四章 世阿弥の「花」ー 能と禅の交わりーに興味、関心を持ち、世阿弥を中心にまとめた。


「世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18/貞治2年(1363年)嘉吉388日(144391日))は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師である。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽(申楽とも。現在の能)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。」600年余りも受け継がれているのだ。芸道の集大成ということなのか。

「幼名は鬼夜叉、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるものとされる。正しくは「世阿彌」。世阿弥が生まれたとき、父である観阿弥は31歳で、大和猿楽の有力な役者であった。観阿弥がひきいる一座は興福寺の庇護を受けていたが、京都へ進出し、醍醐寺の7日間興行などで名をとどろかせた。世阿弥は幼少のころから父の一座に出演し、大和国十市郡の補巌寺で竹窓智厳に師事し、参学した。1374年または1375年、観阿弥が今熊野で催した猿楽(申楽)能に12歳の世阿弥が出演したとき、室町将軍足利義満の目にとまった。以後、義満は観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになった。1378年の祇園会では将軍義満の桟敷に世阿弥が近侍し、公家の批判をあびている(「後愚昧記」)。1384年に観阿弥が没して世阿弥は観世太夫を継ぐ。

当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があった。世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられる。一般に猿楽者の教養は低いものだったが、世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、教養を身に付けていた。特に摂政二条良基には連歌を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしている。

義満の死後、将軍が足利義持の代になっても、世阿弥はさらに猿楽を深化させていった。『風姿花伝』(1400年ごろ成立か)『至花道』が著されたのもこのころである。義持は猿楽よりも田楽好みであったため、義満のころほどは恩恵を受けられなくなる。

義持が没し足利義教の代になると、弾圧が加えられるようになる。1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用する。一方、仙洞御所への出入り禁止(1429年)、醍醐清滝宮の楽頭職罷免(1430年)など、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていった。

1432年、長男の観世元雅は伊勢安濃津にて客死した。失意の中、世阿弥も1434年に佐渡国に流刑される。1436年(永享8年)には『金島書』を著す。後に帰洛したとも伝えられるが、幼少時に参学した補巌寺に帰依し、世阿弥夫妻は至翁禅門・寿椿禅尼と呼ばれ、田地各一段を寄進したことが能帳に残っている。大徳寺に分骨されたのではないかといわれている。「観世小次郎画像賛」によれば嘉吉3年(1443年)に没したことになっている[2]。


著書『風姿花伝』(『風姿華傳』、『花伝書』)では、観客に感動を与える力を「花」として表現している。少年は美しい声と姿をもつが、それは「時分の花」に過ぎない。能の奥義である「まことの花」は心の工夫公案から生まれると説く。「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」として『風姿花伝』の内容は長ら

く秘伝とされてきた。」心を大切にしながら、心技体を研ぎ澄まし、放つ。しかしそれは花のように立たずだけ、生き様が出るということなのか。


そこで

「風姿花伝 は、世阿弥が記した能の理論書。世阿弥の残した21種の伝書のうち最初の作品。亡父観阿弥の教えを基に、能の修行法・心得・演技論・演出論・歴史・能の美学など世阿弥自身が会得した芸道の視点からの解釈を加えた著述になっている。 成立は15世紀の初め頃。 」ウィキペディア調べ。


世阿弥が事あるごとに用いたとされる、飛花落葉と辞書でひくと「絶えず移り変わるこの世の、無常なことのたとえ。春に咲く花も風に吹かれて散り、青葉もやがて枯れ落ちる意から。」とある。茶道の精神のひとつ、侘び寂びが浮かんできた。


5つのキーワードのひとつ、「花」この言葉の中には、芸術(芸道)と人の心、人の命が投影されている。世阿弥の芸道に向かい合い守る姿勢は今も受け継がれるのが理解できる。時代は変われど、人の心、命の儚さは変わりえぬ部分のひとつだ。人の道も説きながら、身体を通して、人としての姿勢が伺えた。手前味噌になるが、なんと日本文化の美しいことであろう。世界の人々が日本文化に魅せられることも頷ける。これからの時代、変化しながらもこの日本文化を守り、伝えて行くことも日本の為にも世界の為にも必要なのかもしれない。


最後にテキストP130「人が人としてめざすべきものも見られていたのではないだろうか」に尽きる。

2019年10月14日月曜日

暁の挑戦〜大学1-8〜

【日本文化史】設題1

書籍名「日本文化史 第ニ版」

著者:家永 三郎

主題:貴族文化の【国風文化】について


遣唐使の廃止によってそれまで中国の影響を受けていた日本の文化が、日本独自のもの へと転換をしてゆく。これが【国風文化】だ。時期は平安末期、文化の国風化は都でまず起きた。平安末期には地方で武士が勃興し、彼らが都の文化を受容して地方でも【国風文化】が展開する。また【国風文化】の特徴として、密教・加持祈祷の流行があげられる。そして、神仏習合が定着していった。本地垂迹説、仏が本地、神が垂迹ということだ。

8世紀には、神は仏によって解脱に導かれるものとされた。8世紀後半になると、神は仏によって菩薩になった存在とされ、10世紀には、仏が姿を変えたものが神であると考えられるようになり、本地垂迹説が成立した。

そして、寺院守護の目的で鎮守が置かれる。興福寺=春日大社、延暦寺=日吉山王社などの関係。仏は慈悲で衆生を救い、神は神罰を下して悪者を懲らしめる。この考え方は、後に両部神道になる。真言宗で両部曼陀羅によって日本の神を説明したものがあり、曼陀羅に描かれているのは仏だから、これと神を一体化したのである。仏教の国風化ということで大切なのは浄土教の考えが成立したことである。日本では正像はそれぞれ1000年と考え、釈迦入滅を紀元前949年とした。そのため1052年に末法になるとした。なので平等院は1053 年に建てられている。また、空也は 948年に延暦寺に登り、後に京都に西光寺、六波羅蜜寺を建てる。金鼓を叩いて念仏を広めながら、民間布教 をした。その頃、慶滋保胤はもとは儒学者。出家して比叡山に入る。「日本往生極楽 記」は聖徳太子、行基など45人の往生者の伝記である。どうすれば極楽往生ができたのか、極楽でどう住んでいるのかを記しており、極楽へのあこがれを誘う本である。

また、源信は13歳で出家して比叡山に入り、44歳で「往生要集」を著す。3巻、10章。「厭離穢土」「欣求浄土」「極楽の証拠」「正修念仏」などで極楽への行き方を 記した。「往生要集」では、極楽に行くための臨終の床の場面が記される。

次に阿弥陀堂の建立があげられる。阿弥陀堂は死に場所として建てたものだ。阿弥陀堂の多くは敷地の西側に建て、東から西方極楽浄土にいる阿弥陀如来を拝む形をとっている。

また、平等院鳳凰堂は、頼通が60歳を迎えた翌年、道長にもらっ た宇治の別荘を寺として建てた。池に面して西側に建てられ、西方極楽浄土を拝む形になる。極楽に飛ぶ鳳凰をあしらう。全体の形も鳳凰の形だ。内陣内には雲中供養菩薩が飛び、音楽を奏でる。平等院鳳凰堂阿弥陀如来は2m79cmの大きなもの。唐風ではなく和様の仏像として画期的なものだ。寄木造の分業によって作られたものだという。一木で作るには材料がなくなっていたとされ、阿弥陀仏が貴族の手によってたくさん作られ、需要に応じるには分業が必要であった。寄木造は一木造りのように狂わないというメリットもある。その代わり、継ぎ目の部分が空いてくる。ここはトノコなどで埋める。(夏のSRの折に平等院へお邪魔させていただいた。それはそれは雅の世界であった。)

またその時代、御霊信仰も忘れてはならない。この世に恨みを残して死んだものは祟る。疫病をもたらす牛頭天王=祇園や落雷をもたらす天神=北野天神を祀る信仰にみえるものだ。(SR京都の歴史の中でも学んだ。)そこで、活躍するのは陰陽師、陰陽道は暦の信仰で中国から入る。暦は日読みで、日月5惑星の動きを示したものである。これらは陰陽五行と称したものだ。今の生活の中にもある七曜や六輝である。陰陽道では、陰陽2種の気によって天地間の事柄が生じ、五行の動きによって世の中の 吉凶が決まるとした。毎日位置が変わるので、毎日吉凶が変わってくる。六輝は六曜ともいい、大安、仏滅、友引、赤口、先勝、先負。時間によって吉凶が変わ るというものだ。

平安末期になると・中尊寺は奥州藤原氏がその本拠地である平泉に建てたもの。金色堂は屋根まで漆を塗って金箔を押している。清衡の建立。3代の遺体が3つの須弥檀 下に納められているので葬堂であるとされている。3つの壇ともに阿弥陀三尊を祀る。金銀螺鈿で装飾されている。清衡~秀衡までの3代の遺体がミイラ化していた。基衡のミイラは身長167㎝で、当時としては大柄で、血液型もわかる。泰衡のものと考えられる首も出たとある。

富貴寺大堂(阿弥陀堂)は大分県豊後高田市。

白水阿弥陀堂はいわき市。秀衡の妹が建てたものだ。

当時の美術関連として有名な聖衆来迎図は阿弥陀如来が25人の菩薩を連れて西方極楽浄土から迎えにくる様を描いている。死に際して掛けられたものとさわれている。山越の阿弥陀は山の向こうに阿弥陀が見えるというもの。

このあたりでは、かつてはオテント迎えの行事があり、本来は太陽にしたがって東に行き、西に行って沈む太陽を拝んだとある。

書道としては三蹟と言われる小野道風、藤原佐理、藤原行成がいた。

絵画は大和絵で絵巻物の発達し、詞書きと絵が交互に出てくる。四大絵巻が成立する。源氏物語絵巻、信貴山縁起絵巻、鳥獣戯画、伴大納言絵詞である。源氏物語絵巻はもともと何巻あったかはわからない。現在は56面が残っていて、徳川美術館と五島美術館に分蔵されている。徳川のものは巻数も多 い。吹抜屋台、引目鈎鼻。わざとぼんやりした顔にすること で、見る者に感情移入をさせる。能面と同じ理屈。秋に一週間ぐらい公開される。

信貴山縁起絵巻は信貴山にいた修行僧・命蓮の物語。鉢を飛ばして托鉢をする。山崎長者はそれまでは食べ物を入れてやっていたが、面倒になって蔵の中に閉じこめた。鉢は蔵を持ち上げて飛び去ろうとする。蔵を持って 行かれた山崎長者は命蓮に泣きつく。米だけ返すことになり、一つを鉢にのせるとそれに続いて残りの米が列をなして飛んでいった。庶民の風俗が描かれていて 資料的価値が高いされている。

鳥獣戯画はサルが僧になって蛙の本尊を拝んだりしている。 詞書きがなくて絵だけのもの。

伴大納言絵詞は応天門の変を描く。異時同図法がよくわかる。

平家納経は装飾経として優秀であったとされ、本来、写経は白紙に墨書する ものだったが、これに装飾を施すようになる。33巻。平清盛が一門の繁栄を祈って厳島神社に納めたものだ。

扇面古写経は10帖。四天王寺など。浄土信仰に基づいて貴族社会で作られたもの。下絵は経文とは関係なく描かれている。庶民生活や伊勢物語などに題材をとっている。

そして、仮名文字の発達から女性の活躍も見られる。和歌は古今和歌集以後八代集、六歌仙の活躍がみられる。物語文学は源氏物語、竹取物語、伊勢物語。日記、随筆は枕草子、土佐日記、蜻蛉日記、更級日記。歴史文学は、栄花物語、大鏡。戦記物語は、将門記、陸奥話記。説話文学は、今昔物語。歌謡芸能(催馬楽、今様)梁 塵秘抄てある。特に後白河法皇は今様が好きで、その集大成をおこなっている。七五調4句の歌謡。

とみていくと文化に宗教が溶け込み、中心になり、華やかな雅の世界そのままに芸術が生きている。この頃から人は食らう、生きながらえる、戦うだけの原始的生活からはっきりと人としての情緒的部分が根付いた「文化」があった。宗教が根付いた理由は、生老病死への葛藤があったのだろうと推測できる。しかしながら庶民に余裕からの楽しむ文化が根付くのは江戸時代ではあるが


〈参考文献〉

「平安時代」を知る本〈2〉文化・芸術―国風文化の完成と仏教美術の展開 /日外アソシエーツ

2019年9月29日日曜日

暁の挑戦〜大学1-7〜

【京都の歴史と文化】SR
書籍名「京のまつりと祈り〜みやこの四季をめぐる民俗」
著者:八木
主題:日本一の都市祭礼である祇園祭の意義と祭りの楽しみ方

祇園祭は都市祭礼である。日本一の都市祭礼であることは間違いない。

そこで改めて、祭を調べてみると
「祭(まつり)とは、感謝や祈り、慰霊のために神仏および祖先をまつる行為(儀式)である。供物そのほかが捧げられる。祭祀(さいし)、祭礼(さいれい)、祭儀(さいぎ)。また、まつりの漢字の表記(祀り・祭り・奉り・政りなど)によって、用途や意味合いが少し異なってくる。」(ウキペディア調べ)とある。

そもそも、日本人にとって祭りとは何か。上記の記述もそうだが、四季を感じる心と周囲との絆を深め、団結力を養う行事なのではないか。先人の行いを素直に受け継ぐだけではない。自然の脅威から身を守るための神事だけでもない。たしかに疫病などの被害にあわないことを願い、先人を見習い、祈りや慰霊を行う。夏に疫病が流行することを踏まえ、日本の夏祭りに疫病退散を目的としたものが多い。疫病退散が中心ではあるが、虫送り、台風除けなども見られる。しかしながら、町衆にとって特別なリクレーション、楽しみであったのではないか。でなければ、何千年も何百年も町衆のモチベーションが持つとは思えない。
その祭礼の中でも、今回学んだ、都市祭礼が「祇園祭」だ。その歴史はレジェンド級に長く、脈々と町に受け継がれている。その歴史の長さは、地元のプライドをかけた熱い思いと努力の賜物だと知った。関わる衆方の情熱が、祭りを唯一無二の祭りへと昇華させたのだ。だからこそ、この「祇園祭」は、日本三大祭りの筆頭なのだ。あとは、東京の「神田祭り」、大阪の「天神祭」だ。また、実際に京都と交易が深かった都市は、同じように疫病に苦しめられたことから、「祇園祭」をまねて、独自の祭りを作り上げたとある。
日本には四季があり、人々の暮らしと共に自然がある。昔の祭りの役目は、地域が平和で健康に過ごせるためが強かった。しかしながら、世の中が成熟するにつれ、楽しむという娯楽感が出て来たのではないか。もう一歩進むと「祇園祭」のような都市祭礼では、観光資源としての役割が大きくなる。祭を継承するという強い思いの地域住民と県や市の公共的思惑が「祇園祭」を挟んで一致し、細かい思いの違いはあるものの、京都独特のグレーゾーン的折り合いをつけて、成長している祭の成功例といえる。数字を見ても日本一に相応しい、都市祭礼なのだ。どの角度から分析しても、規模、歴史ともに素晴らしい世界に誇れる祭礼、風流なのだと思う。

先祖より受け継がれる神事と観光資源的要素、守るところは守られ、合理的に変容すべきところは変容し、今後、町衆、学生だけでなく、京都にご縁が出来た者も取り込み、男女差も乗り越えて、発展していくことは間違いないだろう。

先生も再三おっしゃったように、祭りを楽しみたかったら、祭りの意味、由来を知り、現場に行き、参加する。何のための祭りなのか、何を祈願するものなのか、といった祭りを知ることで、より深く理解でき、実際に目にした時の感動はひとしおだろう。
恒例行事とし、ポイントを決めて参加したいものだ。違いを見つけるのも悪くない。違いがない祭りの凄さもある。テーマを決め、参加し、装束、かけ声やお囃子の風流を楽しむのだ。
事前準備を怠らなければ、楽しめるはずだ。

「祇園祭」もそうだが、祭り自体は地域の絆を深め、人との結びつきを強くする。やはり日本人にとってなくてはならない心のよりどころだ。実際に祭りに参加したり、楽しんでいる人と触れ合うことは、日本人が大切にしてきたものを理解することにつながる。海外の方も日本文化に触れ、理解するため、訪れてくれる。だからこそ、日本人も大いに祭りを楽しんで欲しいと思う。

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