暁の挑戦〜大学1-9〜

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2019年10月28日月曜日

暁の挑戦〜大学1-9〜

【日本文化史】設題2

書籍名「日本文化史をよむ 5つのキーワード」

著者:藤田 正勝

主題:テキストの第四章 世阿弥の「花」ー 能と禅の交わりーに興味、関心を持ち、世阿弥を中心にまとめた。


「世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18/貞治2年(1363年)嘉吉388日(144391日))は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師である。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽(申楽とも。現在の能)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。」600年余りも受け継がれているのだ。芸道の集大成ということなのか。

「幼名は鬼夜叉、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるものとされる。正しくは「世阿彌」。世阿弥が生まれたとき、父である観阿弥は31歳で、大和猿楽の有力な役者であった。観阿弥がひきいる一座は興福寺の庇護を受けていたが、京都へ進出し、醍醐寺の7日間興行などで名をとどろかせた。世阿弥は幼少のころから父の一座に出演し、大和国十市郡の補巌寺で竹窓智厳に師事し、参学した。1374年または1375年、観阿弥が今熊野で催した猿楽(申楽)能に12歳の世阿弥が出演したとき、室町将軍足利義満の目にとまった。以後、義満は観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになった。1378年の祇園会では将軍義満の桟敷に世阿弥が近侍し、公家の批判をあびている(「後愚昧記」)。1384年に観阿弥が没して世阿弥は観世太夫を継ぐ。

当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があった。世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられる。一般に猿楽者の教養は低いものだったが、世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、教養を身に付けていた。特に摂政二条良基には連歌を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしている。

義満の死後、将軍が足利義持の代になっても、世阿弥はさらに猿楽を深化させていった。『風姿花伝』(1400年ごろ成立か)『至花道』が著されたのもこのころである。義持は猿楽よりも田楽好みであったため、義満のころほどは恩恵を受けられなくなる。

義持が没し足利義教の代になると、弾圧が加えられるようになる。1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用する。一方、仙洞御所への出入り禁止(1429年)、醍醐清滝宮の楽頭職罷免(1430年)など、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていった。

1432年、長男の観世元雅は伊勢安濃津にて客死した。失意の中、世阿弥も1434年に佐渡国に流刑される。1436年(永享8年)には『金島書』を著す。後に帰洛したとも伝えられるが、幼少時に参学した補巌寺に帰依し、世阿弥夫妻は至翁禅門・寿椿禅尼と呼ばれ、田地各一段を寄進したことが能帳に残っている。大徳寺に分骨されたのではないかといわれている。「観世小次郎画像賛」によれば嘉吉3年(1443年)に没したことになっている[2]。


著書『風姿花伝』(『風姿華傳』、『花伝書』)では、観客に感動を与える力を「花」として表現している。少年は美しい声と姿をもつが、それは「時分の花」に過ぎない。能の奥義である「まことの花」は心の工夫公案から生まれると説く。「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」として『風姿花伝』の内容は長ら

く秘伝とされてきた。」心を大切にしながら、心技体を研ぎ澄まし、放つ。しかしそれは花のように立たずだけ、生き様が出るということなのか。


そこで

「風姿花伝 は、世阿弥が記した能の理論書。世阿弥の残した21種の伝書のうち最初の作品。亡父観阿弥の教えを基に、能の修行法・心得・演技論・演出論・歴史・能の美学など世阿弥自身が会得した芸道の視点からの解釈を加えた著述になっている。 成立は15世紀の初め頃。 」ウィキペディア調べ。


世阿弥が事あるごとに用いたとされる、飛花落葉と辞書でひくと「絶えず移り変わるこの世の、無常なことのたとえ。春に咲く花も風に吹かれて散り、青葉もやがて枯れ落ちる意から。」とある。茶道の精神のひとつ、侘び寂びが浮かんできた。


5つのキーワードのひとつ、「花」この言葉の中には、芸術(芸道)と人の心、人の命が投影されている。世阿弥の芸道に向かい合い守る姿勢は今も受け継がれるのが理解できる。時代は変われど、人の心、命の儚さは変わりえぬ部分のひとつだ。人の道も説きながら、身体を通して、人としての姿勢が伺えた。手前味噌になるが、なんと日本文化の美しいことであろう。世界の人々が日本文化に魅せられることも頷ける。これからの時代、変化しながらもこの日本文化を守り、伝えて行くことも日本の為にも世界の為にも必要なのかもしれない。


最後にテキストP130「人が人としてめざすべきものも見られていたのではないだろうか」に尽きる。

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