「脳活 星の勉強会 AtoZ」ch.4
23/5/6(土)
いつもの皆さま、はじめましての方々、おはようございます。暁 瑠凪(あかつき るな)です。"少しだけ"ためになる脳活配信をさせていただきます。どなたかに届きましたら、幸いです♡
*脳内の活性化をはかる為、星の勉強をちょっとづつ紐解いていきます。AtoZは暁の脳内の星の知識をすべて絞りだすという意味でつけました。
まずは占星学の歴史(論文 暁 瑠凪 書)を明示していきます。
「占星学の歴史」
2023/1/31提出論文より抜粋
第2章 占星学の歴史
2−2 占星学のルーツと普及ルート
現時点で発表されている占星学のルーツはと問われれば“天文学”と“暦”のルーツとの深い関係性があるとこたえる。
このことを鑑み“天文学”と“暦”のルーツから紐解いていく。
古代に遡るため、古代天文学、考古学、宇宙考古学、歴史学、記号学、古代文字などを参照出来る写真なども添付したいが割愛する。
ここでは天文学関連本9冊と拙文の1−2で記述した暦の解説本3冊と別暦本2冊を用い、各々、学問のルーツの記述がある文を引用、参照していく。
その後、占星学の歴史的ルーツの記述へと移り、最後に占星学のルーツの記述がある著書に多用される4書の目次を記載してこの節を閉める。(記載:発刊年順)
天文学から見たルーツ
1冊目の『日本の星―星の方言集』(1976)には「文化の低い時代には、世界どこの民族も自然暦 によって農耕漁を営み、夜は、月と目ぼしい星々が頼りだった。」 とある。
明かりのない時代は、月の光が頼りであったはずである。
また、これが自然由来の星学、天体観測につながると推察できる。
2冊目の『星の古記録』(1982)には「天文計算の検証によって、『日本書紀』に載っている星の食犯記事は、かなり正確な観測にもとづいていることがわかる。」とあり「当時の飛鳥人が首すじの痛くなるのを我慢しながら、月や星の動きを見守ってきた姿が目に浮かんでくる。」 としている。
前述の書の裏付けともなる。
3冊目の『星座で読み解く日本神話』(2000)では「星空は人間の手で破壊されることがないから、高松塚古墳 やキトラ古墳 に描かれた天文図と同じ天文の姿を現在も見ることが出来るのである。」 とある。
確かに手が届きそうで届かず、破壊は可能かもしれないが“天に唾はく”行為になり、いかような被害が地球に及ぶか予想がつくのであろう。
4冊目の『宇宙誌』(2015)の中では「古代社会において空は地図であり暦であり時計でもあり、さらにそれ以上のもの、おそらく現代人が考えうる以上のものであった」 とある。
現代でもそうであると言える。
星の地図と呼ばれ、暦は今でも作られ、形は変われども時計も存在する。
しかしながら著者がいうとおり、古代では大変重要であったことは推察できる。
5冊目の『天文学者たちの江戸時代―暦・宇宙観の大転換』(2016)には「天文学は、人類が作った学問の中でも最も古いものの一つとされる。」 とある。
天文学は自然暦から発展した。
その星の運動が我々に影響を与えているのでは?という疑問から占星学が生まれたのではと考察できる。
6冊目の『天文の世界史』(2017)には「古代メソポタミアでは、惑星の見え方、天気、物価の変動、川の水位、様々な事件を日誌のようにまとめた粘土板 が多数見つかっています。」 と天と地上の関わりを記している。
前述同様、ここでも天文と地球に住まう人間の関係を考古学視点で記されている。
7冊目の『星界の報告』(2017)の文中、第4代トスカナ大公コジモ・デ・メディチ2世殿下に宛てた「木星にふさわしき御子として、そのそばからわずかな間隔以上離れることはありません。そのように、寛大さ、心の温和さ、物腰の甘美さ、君主の血筋の輝き、振る舞いにおける威厳、他のものたちに対する権威と権勢の広範さ…」 と人と星の関わりが示されている。
ここでは、明確に占星学が描かれている。現代でも“木星”は、寛大さ、心の温和さなどの象徴とされ、よみとかれるのだ。
8冊目の『古代の星空を読み解く キトラ古墳天文図とアジアの星図』(2018) には「メソポタミアにおける古代遺跡の調査と発掘された楔形文字による粘土板文書 の解読研究から、黄道十二宮星座の起源は実はメソポタミアであることが明らかにされた」 ここでは黄道12宮の起源に触れ、明らかにされたとある。
前述同様、12星座(天文学)と黄道12宮(占星学)はメソポタミアには存在していたのだ。
9冊目の『星座の起源 古代エジプト・メソポタミアにたどる星座の歴史』(2021) のは「エジプトでは、プトレマイオス朝時代以降のギリシア・ローマ時代になでるまではほとんど見られなかった占星術も古代メソポタミアでは古い時代から行われていました。」
天文学側から見ても占星学との深い関わりが見える。
古くは境界線がなかったのであろう。
地動説、天動説が明らかになる頃まではこの状態が続いたと推察できる。
地動説は宇宙の働きとしては正しく、天文学上では周知の事実で正解である。
しかしながら、黄道12宮を採用する占星学では、いまでも天動説を採用し、解読している。
考え方というより天道説を採用することで解ること、示されるということである。
暦のルーツ
1冊目の『暦と占いの科学』(1982) には「五千年前の昔、チグリス・ユーフラテス川に住んでいたのは、農耕民族のシュメール人とアッカド人であった。」とある。
古代文明の中で暦を活用されていた事実が書かれている。さらに、惑星と数字の《七》の節に“カルデア人(遊牧民)”が登場する。
占星学を体系化した民族であるとされているのは、このカルデア人である。
そして、この時代に“60進法”(古くから残る占いの根幹にある思考のもと)のルーツがあるとして、「重さの単位の違いや月の満ち欠け、星の位置から季節の変化が読み取れることを知るようになった」、そして「周りの星の隊形とは無関係に動いていたことも理解していた」とされ、「これらが惑う星《惑星プラネット》水星、金星、火星、木星、土星である」「そこでこの惑星をもとに神々として見立てたカルデア神話が生まれたのだ。」 とある。
前述の章から「第二章 聖数《七》の神話」 へ、解説が繋がっている。
「占数術《ゲマトリア》の666とは」 が紹介されている。
数秘学のルーツでは と考えられる。
神話が星の物語を伝え、黄道12宮の物語から、占星学をわかりやすく伝承させる手法をとったのではないかと推察できる。
2冊目の『文明の誕生 メソポタミア、ローマ、そして日本へ』(2015)では「シュメルでは、一ヶ月は新月にはじまった。前もって新月の出現を定めるために、占星術師たちは長期間にわたって観測を推算暦の形で記録していた。」 この記述からも天文学と占星学の境界線はなかったことが伺える。
「シュメルの暦は太陰暦、厳密には太陰太陽暦 であった。」とある。
暦が生まれる以前は、新月から一ヶ月が開始されたということに対し、現在と当てはめると“スタート日”と紹介されているハウトゥ本がほとんどだ。
シュメルでは、理解した上で使っていたのか、検証結果として活用していたのか、興味深い。
ちなみに老舗と言われる会社の多くが、この“新月”設立日(会社四季報調べ)である。
3冊目の『世界をよみとく「暦」の不思議』(2019)には、「3万年前にはクロマニヨン人が、ワシの骨に月齢らしきものを刻んだ痕跡を残しているので太陰暦の走りと言えそう。」 とある。
天と生活が密着していたと言える一文であり、今後もこのように考古学から明らかになっていくのではないかと期待できる。
この章で記述した内容からも天文学、数学と占星学が乖離する前までは親密な関係性があったことが史実上見てとれる。
だから、どうこうではないが、史実を冷静に受け止める目も必要であると考察する。
占星学の歴史的ルーツ
『星の宗教©️』(1970)には「陰陽家者流とは もとは天文暦術の官から出たものである。」 となっている。
他書でも多く見られる説である。
『イメージの博物館 ① 占星術 −天と地のドラマ』(1977)では「先史時代の思索者にとって、天空は最高の支配者と見えたかもしれない。」、「…観察は部族の歴史の一部となって後世に伝えられた。知識の相対が増えてくると、天におけるある種の現象は地上における個々の出来事と相応じているとみなされるようになり、これらの一致は占い用の徴に転化していった」とある。
古い時代や先史となっていて明確な時代はうたっていないものの古代からという認識であることは推察できた。
『占星術の起源』(2000)では“占星術の前身は星辰信仰、または星辰崇拝があった”と見ていて、この証明には「考古学が不可欠だ」 としている。
さらに時期については、「人類発展の時期と重なる新石器時代 ではないか」 新石器以前は「夜空を仰ぐ余裕などなかった」 としている。
考古学に目を向けるとピラミッドの星の観測説や巨石文化 に見られる古代星辰崇拝の痕跡であるとされ、星辰崇拝は古代日本でも古代遺跡群 などがあることから関係性が取りあげられている。
ここまでの流れとしては、たとえ、国が違っていたとしても大元は宇宙であることを史実も事実も物語っている。
また、古代においては占星学と天文学の境界線がなかったといえる。
歴史を紐解くことで骨子は見えてくるであろう。
占星学自体は、単一のものではなく、同時多発的に各国で発生し、そして、体系化されたのちに流通されていったのではと考察する。
その理由として、新石器時代より各国各地で生まれた星辰崇拝から占星学が始まっている可能性があること(前記の占星学のルーツ内にて解説)や星による文化交流の史実的ルーツが定かではないことから占星学が文化として使われたとする以前より各地で生まれ、発展したのではないか。
その後、各国、各地でバラエティ豊かな占星学的ルーツが生まれ、真の文化交流が始まってから磨かれ、整頓されたとみている。
では世界の東西の普及ルートを見ていこう。
『古代の精密科学』(1984)には「天文学の知識が1つの民族から他の民族へ伝播する主な理由は、地上の出来事の原因について洞察を与える科学としての占星術に対する信仰が広がったことであると言うことは疑いない。」 とある。
このことは普及ルートのヒントになる。
西方のルートを『西洋占星術の歴史』(1997)の「人名年表」 から拾っていく「タレス〜ヘロドトス〜プラトン、アリストテレス…」など 現代では各学問の創始者、有名な学者の名前が連なり、活躍した出身国と年表 から流れが見えてくる。
『世界をよみとく「暦」の不思議』(2019)では暦を介してのルートが見えてくる。
「2013年に考古学者たちによって発表された論文によると、スコットランドの北東部に、1万年前の月の満ち欠けを測る装置があったことを報告している。」
いわゆる中石器時代だ。
定説としては、農耕の時期を知るために暦が生まれたとなっていたが、この定説を覆す発見であったと著者も記している。
やはり、天体を中心にみる学問の占星学は、星辰崇拝から生まれたバビロニアで起こり、ミトラ教、オルフェス教を経て、インカ・アステカとも関わり、ゾロアスター教と交わることでホロスコープ占星学が生まれた。
その後もイスラム、ユダヤに関わり、カバラへと変容し、そこから実用的に発展したヨーロッパ占星学となっていったのだ。
東方ルートを『星の宗教©️』(1970)から拾っていくと「一 オリエントの星 二 地中海世界の星 三多様な世界の星(本文説より ゾロアストラの教え ヴェーダ ブッシュマンの生活で 太平洋のなか 南十字星 新大陸の神々)四 イスラム世界の星 五 キリスト教世界の星 六 占星術と占星術師 七 古代中国の星 八 日本での展開 九 妙見信仰」 このようにルートを示唆している。
また、陰陽道の解説もある。こちらは 3−1 日本の占星学の変遷にて明記する。
『天文学者たちの江戸時代―暦・宇宙観の大転換』(2016)には「日本で最初に天文学に関する記事が登場する文献は『日本書紀』である。」 古代の天文学は百済からとされ、ベースは中国天文学だとある。
そののち、徳川吉宗の命により、西洋天文学を中国やオランダ(蘭学)から取り入れた。
ローマ帝国から東西に分裂した後、イスラーム世界がヘレニズム科学の受け皿となり、イスラーム科学は、中世ヨーロッパへと逆輸入された。
日本へは、仏教とともに中国を経てインドから伝えられた。この際、持ち込まれたホーラー(梵字読みの「ホーラー」)は東寺に残る「火羅図」 のことだ。
占星図であるホロスコープのホロが、ホーラーから来ているとも言われている。
宿曜経(個人占星学)は、中国から空海 の手で日本にもたらされた。
バビロニアで起った占星学が、ペルシャ帝国で定着し、インド・エジプト・ギリシャで発展し、変容した占星学が、中国、カルデア、ササン朝へと変遷し、日本、ポリネシア、ヘレニズムと渡っていく。
日本に渡ってきた占星学は、変容を終えたインド占星学から中国へ渡ったものが、中国の要素を加えられ、日本へ入ったという流れであった。
最後に、プトレマイオス の『アルマゲスト』、『テトラビブロス』とマニリウス の『アストロノミカ』、ヴァーラーハミフラの『占術大集成』。上記の書は、天文学、占星学の歴史の記述がある著書に、必ず名前が出てくる4書である。
…つづく
以上、順次、中身を明示して参ります。
本日はここまで。
また遊びにいらしてくださいね。
占星学研究家 暁 瑠凪
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