挑戦〆リポート〆(11)
【民俗学】設題1
書籍名:「新・民俗学を学ぶ:現代を知るために」著者: 八木透編
主題:「ユネスコ無形文化遺産の意義と課題」・「日本人の霊魂観と来世観」・「江戸時代の民間宗教者の実態」・「現代社会における〝家″の意義」・「仏教民族学の可能性」の中から、具体的な課題をひとつ取りあげ、その内容について、各自の見解も交えながら論述せよ。
課題のひとつである「日本人の霊魂観と来世観」を論述する。
テキストP104にある「伝統的社会の霊魂観と来世観」「死後に認識される霊魂」の冒頭文「『死』は肉体からの魂の離脱として捉えられていた。霊肉二元論的認識である。」について取り上げてみた。私自身も幼い頃よりこのことが、真実かのような認識の元、育ってきた。大半の日本人は疑問も持たず、この霊肉二元論的認識を通常認識として、昭和を生きてきたと思う。この認識が、ご先祖様に通じる考え方でもあると思う。そして、そこから派生して、来世観に繋がっていったのではないか。
その文のあとに「古代において、霊が意識されるのは、凶事が起きた時であり、それは死者の怨念が引き起こしたものとして理解されていた。霊を鎮めるために、平安時代には御霊会が営まれた。もともと霊肉二元論的要素があるところに、江戸時代以降、寺院を介して仏教的霊肉二元論の観念が入り込んだために、霊の観念は複雑化したものと考えられる。」とあり、時代背景が記されている。古代においての怨霊の考え方は代替案の一つに過ぎないのではないかとの疑問が生まれる。何かの所為にするという考え方だ。
霊肉二元論を調べてみた。「実体二元論(じったいにげんろん、英: Substance dualism)とは、心身問題に関する形而上学的な立場のひとつで、この世界にはモノとココロという本質的に異なる独立した二つの実体がある、とする考え方。ここで言う実体とは他の何にも依らずそれだけで独立して存在しうるものの事を言い、つまりは脳が無くとも心はある、とする考え方を表す。ただ実体二元論という一つのはっきりとした理論があるわけではなく、一般に次の二つの特徴を併せ持つような考え方が実体二元論と呼ばれる。
この世界には、肉体や物質といった物理的実体とは別に、魂や霊魂、自我や精神、また時に意識、などと呼ばれる能動性を持った心的実体がある。そして心的な機能の一部(例えば思考や判断など)は物質とは別のこの心的実体が担っている。」(実体二元論=霊肉二元論、ウキペディア調べ)検証はできないものの形而上学の分野に分類されている。魂や霊魂が心としての捉え方なのだ。また、仏教的には「心身一如」心身は一体であるとする考え方のはず、神道の二元論と重なって神仏信仰になっている日本人の生死観に対する柔軟性が現れているのではないかと思う。
テキスト内「先祖観」の中には「来世観が不明確な中での遺体のこの世からあの世への即時移行は、霊も含めて死者のこの世からの追放を意図するものと考えられる。ただし、沖縄では『ニライカナイ』と呼ばれる『あの世』が明確に想定されている。」とある。また「『あの世の存在』との意識があるだけで、『先祖』というイメージは曖昧なものとなっている。」がしかし、人の死〜葬儀〜お別れ〜先祖〜そして生まれ変わり(輪廻転生)だと理解している私としたら、その間に生きる人々の別れに対する辛い思いから解放するための優しさか、次へ進むための現実性を推進するためにあの世とやらに置き換えて、一旦別れるという考え方に行き着いたのではないかと思う。何度か死を見てきた私として、あの人は、あの世で楽しく有意義にあの世を満喫しているはずと思いたい。そして、又会う日までと思いたい。こころを軽くする術として、あの世説が、生きている者のために存在させているのではと思う。先祖のイメージについては、数代前の人には現実性が高いので先祖的意識を持とうと思えば持てる。その前となると存在は、人間が生を受けることを鑑みれば自ずと理解はできる。しかし、現実性に欠けるのと現代においての法律、教育がそうさせるのだと思われる。
いわゆるどこかの宗教に偏ってはならないということの功罪から先祖的意識、霊魂観、来世観を持つことをためらわれるようになったと推測できる。
テキスト内P106〜の「火葬の受容」には「『条例による土葬禁止』『墓地が狭くなったこと』『衛生観念の発達』『古臭いという観念』『火葬場ができた』などである。」意外と理由が明確であると感じた。「火葬受容の葛藤」の中に「政治的な禁止は別にして、この世の側の都合や感覚によって葬法が選択されているということができる。」そして「葬法の相違と死生観との連関性の低さを示しているといえる。さらにこのことは、来世観が不明瞭であることを背景とすると考えられる。」やはり、沖縄のようにあの世が明確であれば良いのか?そこもまた、疑問ではある。そこで「ニライカナイ」を調べてみた「遥か遠い東(辰巳の方角)の海の彼方、または海の底、地の底にあるとされる異界。豊穣や生命の源であり、神界でもある。年初にはニライカナイから神がやってきて豊穣をもたらし、年末にまた帰るとされる。また、生者の魂もニライカナイより来て、死者の魂はニライカナイに去ると考えられている。琉球では死後7代して死者の魂は親族の守護神になるという考えが信仰されており、後生(ぐそー:あの世)であるニライカナイは、祖霊が守護神へと生まれ変わる場所、つまり祖霊神が生まれる場所でもあった。」(ウキペディア調べ)なるほど、これだけ明瞭に語りつがれれば、祖先観や霊魂観、来世観がしっかりと持てる。現実主義者には、ハテナがいっぱいになるだろうが。しかしながら、私が存在することは事実、私を母が産み、その母も祖母から産まれ、祖母も曽祖母から産まれた。遡ることが古代までできるのだ。あるかもしれないが、今のところ突然変異で人が誕生した記録はない。ということは人から人が誕生し、現世に繋がっているという事実。その事実の上に立つと来世があるというところに行き、あの世の存在感が増す。
(結論)
平安時代には特に、霊魂に対する恐れが多く見られ、霊魂を鎮めるための祭事が沢山存在した。何かが起こると怨霊の所為にする。今の世の中にも何かの所為にして、縛りつけることもおきてはいる。成長が見られない気がして、残念だ。御霊は何もしない。神仏信仰からすれば、二元化ではあるが、心身だから元は人であるし、ブッダの教えによれば、先祖のカルマ消化もありえないのだ。ゆえに怖がることではない。恐れていては成長はない。それよりも感謝し、あなたがいたから、私が存在すると意味づけたい。そして、私の存在が次世代に繋げる。そもそも現代は自身が先祖になるという意識が薄いように感じる。次へ繋げる、次に繋がるからこそ、今世をつつがなく過ごそうとする正善的意識が働く、だからこそ生きていくためにも来世観が必要なのだ。
つまり霊魂観は人が人でなくなることではなく心(霊魂、魂)として残り、あの世(ある一定の場所)に一時的に拠る。来世観も同様、その場所からまた今世に現れ、誰かの身体と一体化する。この場は修行の場として、苦難、苦行を乗り越え、心を丸く丸く球体にする。その繰り返しを意識する事で魂に磨き(イメージの世界)この世界(地球)に戻ることなく、あの世の先(パラダイス)へ行かれるのだと思う。それが世に言う神的存在なのではと思う。人として産まれたブッダしかり、キリストしかり、サトリの領域へ至ったではないのか。
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