【日本の歴史】設題1
書籍名「概論 日本歴史」
編者:佐々木潤之介、佐藤 信、中島三千男、藤田 覚、外園豊基、渡辺隆喜
主題:鎌倉幕府と執権政治について
まずは設問1.をうけて、〈執権〉を調べてみた。「執権は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け、政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。」とある。鎌倉幕府独自の職だったのだ。
「執権職は北条氏が独占し、世襲した。当初から大きな勢力を持っていたが、三代将軍源実朝暗殺後はほとんど幕府の実権を掌握し、政務を執った。しかしながら将軍職は公家や皇族を京から迎える形で名目的存在としてあり、北条氏は形式的服従を貫いていた。」北条氏の権力はこうして、定着していったのかと過程が解った。
「北条氏の嫡流は『得宗家』と称され、得宗家の当主またはその後継者が幼少の時には北条氏の庶流から執権が任じられた。元弘の乱の最終段階(鎌倉の戦い・東勝寺合戦)において、13代基時・14代高時(得宗家)・15代貞顕・16代
守時の4名の執権(及び経験者)が鎌倉幕府とともに滅ぼされることになった。初代の『執権』は、1203年(建仁3年)に北条時政が外孫である3代将軍源実朝を擁立した際に政所別当とともに合わせて任じられたのが最初とされている(異説として、初代政所別当である大江広元を初代執権とする説もあるが少数説である。また後述のように北条泰時の時代に初めて登場した説もある)。時政の就任以来、北条氏の権力確立の足場となる。2代執権の北条義時が侍所の別当を兼ねてからは、事実上、幕府の最高の職となった。基本的に鎌倉幕府は、鎌倉殿と御家人の主従関係で成り立っており、北条氏も御家人のひとつに過ぎなかった。」御家人の立場から執権職という地位までに登っていった北条時政の人物像はいかなるものか。
時政は平家ゆかりのものであるが、頼朝の見張り役になったことで頼朝の舅となる。鉢田の戦い、富士川の戦いに挙兵した。その後は御家人としての時政がいた。亀の前事件で空白の期間
があるものの治承・寿永の乱が終結した際、政治力により、京都守護の立場得て、手腕を発揮する。七ヶ国地頭を譲り、駿河守護として活動していた。しかし、義時との対立を深め、時政と政子・義時らの政治的対立も背景にあったからと推測され、以後の時政は二度と表舞台に立つことなく政治生命を終えた。
その後「源氏将軍が3代の源実朝で途絶えてからは、摂関家、皇族から名目上の鎌倉殿を迎え、その下で執権が幕府の事実上の最高責任者となる体制となった。しかし、政敵となる有力御家人を次々と滅ぼし、また執権以外の幕府の要職の多くを北条氏が独占していくにつれて、御家人の第一人者に過ぎなかった北条氏の実質的権力は、漸次増大していった。」とある。
「摂家将軍・宮将軍の下では幕府で行われる訴訟の裁決は、将軍による下文ではなく執権によ
る下知状によって行われることになり、執権が幕府における訴訟の最高責任者となって将軍は訴訟の場から排除される事になるが、これは単なる執権の権力の拡大ではなく鎌倉幕府を維持する上で必要性があったとする見方がある。この考えによれば、御恩と奉公の論理によって支えられていた鎌倉幕府において、将軍は御恩の一環として御家人の所領を安堵して彼らを 保護する義務を負っていたが、御家人同士の所領争いの裁決を下す事で敗れた御家人に対する保護義務を反故にしたと受け取られ、将軍と訴訟に敗れた御家人との主従関係を破綻させる可能性を秘めていた。そのため、所領を安堵する将軍とは別に同じ御家人である執権が訴訟の裁許を行うことで、御家人同士の所領争いにおいて将軍と御家人における御恩と奉公の関係を壊すことなく公正な訴訟が執り行われることになり、幕府の訴訟制度の確立につながったとする。」とある。
「執権による公正な訴訟は御家人にとっても望
ましいものであった。また、合議制の訴訟制度の確立の過程で、かつ将軍の後見人(「軍営御後見」)でもあった北条泰時が、評定衆を取りまとめて将軍の代わりに裁決を行う役目として兼ねた職が執権の始まりで、時政・義時を執権としたのは過去の政所別当・軍営御後見を遡って「執権」と記した『吾妻鏡』の記述に由来とする説もある。やがて、北条氏の権力が増大するにつれて、幕府の公的地位である執権よりも、北条一門の惣領に過ぎない得宗に実際の権力が移動していく事になる。6代執権の長時の時代に、出家した執権の座を譲った得宗である時頼が依然として幕府内の権力を保持し続けた事が、得宗への権力移動の端緒となる。これ以降、得宗と執権が分離し、実際の権力は得宗が持つようになり、執権は名目上の地位となった。さらに、9代北条貞時が幼くして得宗と執権の両方を継承すると、得宗家に仕える御内人が貞時の補佐を名目として幕府の政治に関与する
ようになり、北条高時の時代になると、北条家の執事とも言うべき内管領の長崎氏が権力を握るようになった。」とある。この頃には部下までも権力を持ったのだ。
「近代になって龍粛が1922年(大正11年)に著した『尼将軍政子』の中で源実朝没後に執権が鎌倉幕府の実権を掌握してからの体制を執権政治と表現して以後、この語が広く用いられるようになった。ただし、近年では実朝の死後は北条政子が『尼将軍』として実権を掌握しており、執権政治への移行は政子の死後であるとする見方が出されている他、執権政治を2つに分けて8代北条時宗の急死後、幼少の9代北条貞時が幼くして得宗と執権をともに引き継いでからの体制を得宗専制と呼んで、それ以前の執権政治と分ける区分方法も行われている。」
〈執権職一覧〉
北条時政から始まり、北条義時、泰時、経時、時頼、長時、政村、時宗。
貞時、師時、宗宣、煕時、基時、高時、貞顕、守時。
さて、ここに得宗専制という制度が出てきた。執権とは何が違うのか?
簡単に言えば、北条一族の執権が御家人である評定衆をまとめるのが執権政治。執権は将軍を補佐する役割で幕府の役職。執権は代々北条氏が世襲。
「得宗は北条一門の嫡流(家督を継承する系統、人物)のこととなり、初代執権北条時政から5代時頼までは北条一門の得宗が執権に就任したので、得宗=執権という関係になるが、6代執権長時以降は得宗が執権にならないケースも出てきた。北条氏は他の有力御家人を次々滅ぼし5代時頼の時代に宝治合戦で三浦氏を滅亡させ、北条氏に対抗できる勢力がいなくなった。執権や連署、評定衆、引付衆、侍所、政所、問注所、六波羅探題など幕府の要職を北条一門が占めるようになると、一門をまとめる得宗の発言力が増大。評定衆による合議制は形骸化し、将
軍を補佐する執権の重要性が薄れたことで、得宗が執権に就任する必要性がなくなった。得宗に権力が集中したことで、得宗と側近が幕府の政策を決定する得宗専制政治へと移行していった。」ということは嫡流である得宗家が御内人と共に幕府を牛耳る体制が得宗専制なのだ。
現代政治の世界もともすると世襲制は非難されたりもする。そこまで悪しき制度とは思わぬが、この頃も人の欲がむき出しになっていたことが伺える。そのような行いはいかがなものだろうと疑問は出る。とにかく、将軍を祭り上げ、政治は自分達で行っていたということだ。
しかしながら現在の政治の和製的礎を築いた時代であることは間違いない。そして、鎌倉幕府が滅びるまで、北条方が幕府の実権を握っていたのだ。
〈参考文献〉
橋本義彦「執権 (一)」(『国史大辞典 6』(吉川弘文館、1985年)
上横手雅敬「執権 (二)」/「執権政治」(『国史大辞典 6』(吉川弘文館、1985年)
五味文彦「執権」/「執権政治」(『日本歴史大事典 2』(小学館、2000年)
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