「脳活 星の勉強会 AtoZ」ch.7
23/6/21(水)
いつもの皆さま、はじめましての方々、おはようございます。暁 瑠凪(あかつき るな)です。"少しだけ"ためになる脳活配信をさせていただきます。どなたかに届きましたら、幸いです♡
*脳内の活性化をはかる為、星の勉強をちょっとづつ紐解いていきます。AtoZは暁の脳内の星の知識をすべて絞りだすという意味でつけました。
まずは占星学の歴史(論文 暁 瑠凪 書)を明示していきます。
「占星学の歴史」
2023/1/31提出論文より抜粋
第3章 日本の占星学の変遷
3-2 占いのはじまり
天体利用の占いに限らず、他の占いの始まりなども記していく。
占いのはじまりは、日本においても、自然の関わりや忌ごとを避け、無事を確保するために利用・活用したことは事実のようだ。
その際、術と呼ばれることもあり、宗教として存在し、成長するような多種多様の顔を見せている。
“占”という漢字の意味は「(心の意の〈うら〉と関係がある語かといわれる)神意をうかがうこと。事物にあらわれる現象や兆候によって、疑問の点をただしたり、事の成否や吉凶を予想したり判定したりする方法。古くは、鹿の骨や亀の甲を焼いて、その時にできる裂け目や模様でうらなう方法があり、〈太占(ふとまに)〉〈亀卜(かめのうら)〉などと呼ばれた。また、〈足うら〉〈石うら〉〈道行きうら〉〈水うら〉〈矢うら〉〈夕うら〉など、いろいろな方法が行なわれた。のち、中国から筮(めどぎ)を数えて行なう卜筮(ぼくぜい)という易(えき)の方法が伝わって一般化し、神祇官、陰陽寮など官制の中でも行なわれ、路傍でする大道易者も現われた。その外にも、そろばんを使う〈うらさん〉や、あらかじめ用意されたおみくじのようなものを売り歩く(つじうら〉など各種の方法があり、これを業とする者もあった。うらない。卦(け)。」、「『万葉集』〔8C後〕一四・三三七四「武蔵野に占(うら)へ象(かた)焼きまさでにも告(の)らぬ君が名宇良(ウラ)に出にけり〈東歌・武蔵〉、『栄花物語』〔1028~92頃〕見はてぬ夢〈この度は女君と夢にも見え給ひうらにも申つれば〉、『虎寛本狂言・居杭』〔室町末~近世初〕〈うらや算、占の御用、しかも上手〉、『新撰菟玖波集』1495年 雑三〈とはばやさらば道のつよむき これぞこのうらのまさしき辻社〈専順〉〉」 とある。高校の文化祭でそろばんを使う“うらさん”を行った記憶が蘇る。“日本の占い”では「日本の古典に現れる占いには、琴占 (ことうら) 、歌占 (うたうら) 、水占 (みずうら) 、夕占 (ゆうけ) 、辻占 (つじうら) 、橋占 (はしうら) 、足占 (あうら) 、鳥占 (とりうら) 、石占 (いしうら) 、投占(なげうら) 、くじなどがある。琴占は巫女 (ふじょ) の神降ろしと同類のもので、単調な琴の調べの間に神秘的な境地に誘い込み、その言動によって判断したものであろうし、歌占も巫女の唱える歌により、のちには歌占の本や『百人一首』を利用するようになった。水占は神前で水に姿を映し、あるいはその水を飲んで占った。夕占は夕方に道行く人のことばを小耳に挟み、それで判断するもので、辻占や橋占も、それぞれ辻や橋のあたりで同様のことをするものである。足占は歩数で判断するもので、また唱え言をしながら歩き、止まったときの語のいかんによって判断する方法もあったらしい。鳥占は鳥の鳴き声や飛ぶ方角により、石占は特定の石を持ち上げ、上がるか上がらぬか、重く感じるか軽く感じるかで占い、投げ占は物を投げて占う。杖 (つえ) の倒れる方向で占う杖占 (つえうら) も同類のもので、のちには銭を投げて表裏で判断する占いも発達した。くじはいまも盛んに行われ、種々の方式や道具がある。」 とある。
『万葉集』の記述からは700〜800年代に“占”がある。朴術であると考察できる、“百人一首”の記述もある。
歌で占うなどが残っている事実から知れるのは、神下ろしのような行為である。
このことからも現在同様、さまざまな占術があったといえる。
『神道正伝 亀卜判断法』(1935)の中に「太占は神の御心を知る占法である。」、また『古事記』に記述があることで「是を太占の原始(はじめ)とする。」とあり、「鹿卜として書に見えた始めである。」と記している。
さらに『日本書紀』の一文が記されており、「太占の行事を斎行する職掌(やくめ)とせよとの詔である。」 とあった。
骨卜は、紀元前1100年以前の時代には既に大陸で運用されていた気配が残っており、遺跡から多くの亀甲が出土してそれを証明している。
亀甲に下ごしらえとして占いの文様とともに四角い“鑚(さん)”を彫り込み、その部分に“ははか木”という棒を押し当てつつ焼き、表からひび割れの様子を見て占うのだ。
大正時代に編集された『対馬亀卜談』の中にはいくつかの例が記され、ひび割れの尾が左曲りであれば病凶、右曲りで病吉、まっすぐで悪とある。
この亀卜 は『魏志倭人伝』の中で個人ではなく国を収めるために卑弥呼が使ったとしている。
亀卜が、文献に残る日本最古の文献記録でもあるとし、また、動物の骨を焼いて、その亀裂の入り方で占う方法は「太占」と呼ばれ、中国から伝わったとされる。
その後、飛鳥時代には様々な方法が中国から渡来した。
太占は「古代に行われた卜占 (ぼくせん) の一種。その方法は牡鹿 (おじか) の肩骨を波波迦 (ははか) (上溝桜 (うわみずざくら) の古名)の木皮で焼き、そこにできた割れ目の模様によって占うのである。
『魏志倭人伝』 (ぎしわじんでん) に「骨を灼 (や) きて以 (もっ) て吉凶を占う」とあるのは、太占のことを述べたものである。のち中国より亀卜(きぼく)が伝わるとしだいに太占は衰退していった。」 となっている。
古代の占いに触れると、始まりは、どの国も自然の中から朴術を生み出していたことがうかがえる。
日本もまた、同様である。また、過去の私ノートに“占”の漢字は、諸説あるが “卜”と“口”でできていて、“卜”は、亀卜、骨卜と呼ばれ、その際にできる甲羅の割れ目の象形で、結果を伝える“口”を合わせて“占”とした、と記していた。
教育や学習が難しい時代であったため、占いのはじまりとしては口伝でも行える朴術が中心であったのではないか。
また、紙文化が発展すると花札のような札(ふだ)占(現在もある)が生まれ、これは、西洋のトランプ占、タロットカードなどと同様なのであろう。
星だけに特化していくと星の観測は、どうなのか。
考古学の領域で有名な高松塚古墳・キトラ古墳の天文図がある。
『星の宗教©️』(1970)という題名からも古くから星と宗教と占いの関わりがごく当たり前にあったことがわかる。
『暦のすべて−その歴史と文化―』(1980)の中では、やはり暦の記述が中心のため、十干、十二支、五行日本暦も自然暦から始まったとの記載にとどめている。
暦と占いの関係を別の章で記したが、暦ありきの“占星学”としては外せない。
『星の古記録』(1982)中にある流星雨の記録が最古で紀元前一五年となっているが、あり得ないとして、507年の前であることは確かだとしている。
『占星術の起源』(2000)では「古代日本に一種の太陽崇拝があったことは確かであり、最近には近畿地方における一群の古代遺跡が、その並び具合から見て太陽崇拝に関係があるのではないかという説が出て話題になっている。」とあった。
暖かい地域であることから太陽崇拝があった可能性があるとみてもよいだろう。
『陰陽道・修験道を考える』(2021)では、智慧と鍛錬で自然や病に対抗する姿がうかがえた。
太古から八百万の神という神様信仰(自然神)が定着していたとみて間違いない。
民間での習わしが占いの一種となり、お祭りとして残っているのではという説が濃厚であると考察される。
太陽や月も身近な信仰の対象になっていて、日の出を喜び、新月・満月を記録した。
さらに事象・現象に興味をもったことや人心収攬のために“占い”を利用したことでも推察される。
天体は身近な存在であり、人の力だけでは自然に逆らえず、対抗策として、記録と分析でしか天とは戦えないと考えても仕方がないことだ。
このことからも古代びとが“人命をも天は支配していた”と感じ、考え、更なる分析と記録を繰り返し、作り上げたのだろうと推察できる。
それを裏付けるように“年中行事”とは の文中に「本来は〈日中行事〉と対応して上代の宮廷行事に限って用いられた語であったが、やがて武家・庶民の社会にも広まって漢語の「歳事(歳時)・月齢」と同義になり、また民間には古くからオリメ(折目)、トキオリ(時折)、セツ(節)など、こうした行事ないしはその時期をよぶ習わしがあった。節句・節供も通例、中国伝来の〈五節供〉をさすが、本来は節(季節の変わり目)ごとの行事の供物(節供)がその本義といわれている。ともかく年中行事は、暦日の推移、季節の変転に応じて、特定の行事が秩序正しく輪転して行われるので、おのずから民族生活の特質に応じた一つの〈体系〉を形づくる。」 とあり、「日本の年中行事の原拠は“延喜式 (えんぎしき)”神祇 (じんぎ) 部の宮廷祭事の記事に求められ、祈年 (としごい) 、鎮花 (はなしずめ) 、相嘗 (あいなめ) 、新嘗 (にいなめ) 等の農耕儀礼と鎮魂、大祓 (おおはらえ) 、大忌 (おおいみ) 祭等と京周辺の名神大社の奉斎が主になっていた。その後〈臨時祭〉がいくつか追加されもしたが、やがて鎌倉期には衰退し、幕府体制下には別系のものが生じて室町幕府に至って大成した。それは〈五節供〉中心の形で、中国習俗を多く受容し、また宮廷儀礼の先蹤 (せんしょう) をも加えて〈典礼化〉したものである。そしてこれをめぐっては〈故実 (こじつ) の学〉も成立し、その後の江戸幕府や諸藩の年中行事の典拠ともなった。こうした〈公〉の場の〈年中行事〉に中国の暦法・陰陽道 (おんみょうどう) の影響が強かったことはいうまでもない。」 とある。
現在では、陰陽道自体は中国からの知慧だけでなく、日本独自の陰陽道が構築され、磨かれた智慧であるといえる。
『陰陽道の本』(1999)では「古代人にとって、先の読めない自然のふるまいは常に脅威だった。いつ雨が降るのか、いつ河川が氾濫するのか、今年の夏は暑いか寒いかを、事前に知りたいという欲求は切実だった。」 とある。
やはりこれらのことにより、天に対する興味関心が高まったと見てよい。
占いのはじまりは、自然から由来したさまざまな朴術系から始まり、星への関心が出たころから観測が始まり、次世に記述として残し、文明・文化に寄与したといえる。
…つづく
以上、順次、中身を明示して参ります。
本日はここまで。
また遊びにいらしてくださいね。
占星学研究家 暁 瑠凪
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