占星学の歴史v.07「脳活 星の勉強会 AtoZ」ch.8

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2023年7月5日水曜日

占星学の歴史v.07「脳活 星の勉強会 AtoZ」ch.8



「脳活 星の勉強会 AtoZch.8  

23/7/5()

いつもの皆さま、はじめましての方々、おはようございます。暁 瑠凪(あかつき るな)です。"少しだけ"ためになる脳活配信をさせていただきます。どなたかに届きましたら、幸いです♡ 

*脳内の活性化をはかる為、星の勉強をちょっとづつ紐解いていきます。AtoZは暁の脳内の星の知識をすべて絞りだすという意味でつけました。


まずは占星学の歴史(論文  瑠凪 )を明示していきます。


「占星学の歴史」

      2023/1/31提出論文より抜粋


第3章 日本の占星学の変遷

 33 古代から中世

古代から中世にかけて、誰が、どう、占星学を浸透させたのか を8冊の書籍から見ていく。


『星の宗教©️』(1970)では、個人救済を道教 で、国家レベルの案件は儒教 原理によって指導されたとしている。


日本での展開は、道教から始まり、天文道と陰陽道 にふれ、解説を進めている。


その中には『史記天官書』 中国、『江談抄(大江匡房)』、『准南子』中国、『漢書(芸文志)』、『日本書紀』、『暦本及天文地理書』・『竝遁甲方術之書』百済、『令義解』陰陽寮、『唐六典』中国が紹介されている。

「中国の呪術的側面、占星術的側面は、天武天皇の時代、きわめて熱心に受容されたのである。」 とあり、「日本の場合はこの両者を1本化し、むしろ占卜関係の呪術的側面を重要視する傾向を示した」とある。


さらに、この頃、地方にも陰陽師を置く体制が見られる。


文脈の流れでは、日食と月食と続き、陰陽師の星祭り、泰山信仰 にふれ、解説している。その中には『扶桑略記』、『日食廃務』裡書などが紹介されている。


日食をめぐり、暦博士、仏教系宿曜道、算道などが争ったとあり、『諸道勘文』には、ハレー彗星の記録があり、陰陽師の星祭りは道教の教えをもとにしているとある。また、本命祭にもふれ、密教系の星祭りであり、太陽神の祭りだともある。泰山府君の項では「安倍晴明は、ことに泰山府君を信仰したようである。」 このことは『今昔物語』の巻十九に記述があったとし、泰山府君ゆかりの者は、他にも存在するとなっている。


例として、桜町の中納言、藤原成範などが挙げられている。泰山府君ついては『源平盛衰記』、『平家物語』、『吾妻鏡』、『看聞御記』、『康冨記』にも記されている。


次なる流れは、土御門神道、名田庄、晴明神社、七夕祭りと続く。


紹介されている文献は「『吾妻鏡』建長八年の項では、泰山府君とならんで天曹地府祭の行われたことが記されている。」、「このころから安部家は京都の唐橋に住み、その住地から土御門家を称するようになった」 


この項での参考文献は『史記天官書』、『春秋命暦』中国、『大鏡(花山院)』、『今昔物語』だとある。七夕祭りの項には、『宇津保物語』、『荊楚歳時記』に七夕祭りの記述がある。宿曜経―密教、二十八宿と十二宮、九曜と本命星、星供と星曼荼羅、須弥山宇宙、河内・観心寺と項立がある。


進むつれ、細密になっている。


本来、混沌とした世の中で活躍しやすいはずの陰陽道が、徳川家康に天下統一された時代から古例の祭祀とともに復興を果たしたことに興味を覚える。


また、名田庄は、福井県おおい町の名田庄地区として現存し、古来より陰陽道で知られる土御門(安倍)家が天体観測をしてきたことを観光資源にしているとある。(このことで次なるフィールドワーク先は福井県の若狭路が最有力候補となった)


宿曜経―密教の項では、『源氏物語』の桐壺から引用し「源氏の一生の運命を考えるとき、宿曜は重要な役割をしめていた。」 とある。


空海ほかからもたらされた宿曜経上下2巻は、上巻に天の星座十二宮、二十八宿(二十七宿)、七曜、秘密雑要品、白月黒月品、七曜暦作成法が収められ、下巻には主に吉凶法が収められている。


編集は不空が行なったとある。インド起源である宿曜経が中国で訳されたため、中国古代の天文学が反映されている。


さらに二十八宿と十二宮の解説となって、九曜と本命星へと誘う。


「九曜とは、日、月、木、火、土、金、水の七曜に羅睺、計都の二曜を加えたもの。」 と解説している。


『宿曜運命勘録』、『続古事談』などに宿曜図 の例や宿曜師の記述がある。


星供と星曼荼羅 の項 では具体的な祭方が記されている。


須弥山宇宙を守ろうとしたが、しばしば攻撃を実証者たちから受けたとある。


節分の星祭は七星如意意輪曼荼羅を地上化した金堂、七星祠と詞梨帝母天堂を配した観心寺にて行われる。


最後には、妙見信仰が記されている。妙見菩薩の威徳、北辰尊星、八代妙見宮、京都の妙見さま、墨田の妙見宮、さらに星御所、星の森と続く。あとがきにこんな記述がある。


「天体の輝きやその相対的な位置は、世界どこでも変わらない。」、「古代文明のなかでの星のとらえ方が、東西の文化ともども、かなり似通っていることは当然といえよう。占星術に関する態度の相似も同じ理由ではないか」 と締めくくっていた。


『暦のすべてその歴史と文化―』(1980)の中では、『日本書紀』顕宗天皇元年(四八五)に暦の記述があるとし、「旧暦時代、日本では常用暦として、漢字で書かれた具注歴と、平安朝時代末期頃から、具注暦を手写して仮名書きにした仮名暦、後に版にして各地で特有の暦注を施して刊行された地方暦あり、日・月・五星の天体の位置を記載した七曜暦と呼ばれた暦書もあった」 とある。


古代から中世へと日本暦の変革が窺える。


『暦と占いの科学』(1982)の四方位の項では「太陽崇拝を中心として、空間を考える際に生じた基本的な数であるといえる。」 日本で全て重用されている数とも一致する。


様々な記述からインドから中国を経て入ってきた思想からきていることがわかる。


『星の古記録』(1982)では、『日本書紀』の中にある飛鳥京の人々の観測である星の記録三例を簡明に記しているとしている。


日本最古の日食記録は「『日本書紀』巻二二に、推古天皇三十六年三月戌申(二日)(六二八年四月一〇日)、日触え尽きたり。」 であるとある。


日食と為政者の死を組み合わせている。


前述の飛鳥京の人々はプロの観測者たちだとし、このプロの観測者たちが陰陽寮の人々である。


「陰陽寮の上級官吏は天子とのあいだに密奏という直通パイプで結ばれた特殊な職階にあった。」 いわゆる占書が渡されたのだ。


「天文記録の主要目的が占いにあり、今日的な自然科学探究とは無縁であった」 としている。


 『陰陽道の本』(1999)では「医博士、易博士、暦博士は当番制により交代させよ。今、上記の人は、ちょうど交代の時期になっている。帰還する使いにつけて交代させよ。また、卜書・暦本・種々の薬物などを送るように。」 という要求を百済の援軍要請に対して、交換条件としていた。


このことから欽明天皇の時期(553)には、日本に易博士、暦博士、中国医学の博士、朝廷の陰陽道摂政がいたことがわかる。


「鎌倉歴代将軍はほとんどすべて、京都から陰陽師を呼び寄せるなどして、陰陽道の最高の祭りである天胄地府祭ほか、さまざまな祭祀や祈祷を行わせ、政権安定を図っている。」、「室町時代になると、幕府の執権の場を京都に置き、朝廷をもその支配圏内においたことから、いっそう公家の伝統と結びつき、その影響を受けることにもなった。」その後、「公的なものから私的なものへと推移、変容を遂げていく。」とある。


『星占いの文化交流史 新装版』(2004)では「平安時代の日本は国をあげて中国から科学を輸入した。」、「暦法と占いを積極的にとりいれ、陰陽寮という役所に天文博士、暦博士、漏刻博士、陰陽博士などの役人を配置した。」、「仏教の装いで新たに輸入されたのがインド系の密教占星術である。」 


当時、空海がもたらした宿曜経が浸透していく、しかしながらこの時、陰陽道はすでに政府公認であった。


宿曜の広がりは、次記にて確認できる「藤原道真の『御堂関白記』(九九八〜一〇二〇年)は当時発行されていた具注暦に書き込まれたものであるが、そこに宿曜道の流行ぶりを読みとることができる。」とはいえ、日記に宿と曜を最初に書き込んだのは、道長の曽祖父・貞信公藤原忠平の『貞信公記』であるとあった。


『陰陽師たちの日本史』(2014)では、「近年の研究によれば、『陰陽道』の用語は古代中国ではなく日本の平安時代中期、十世紀以降の文献に出てくること、つまり『陰陽道』とは、古代中国に発生した陰陽説・五行説、天文説などをベースにしつつ、密教や道教、さらに神祇信仰との交渉、習合のなかで、平安中期の日本で独自に編み出された信仰・学知・技能の体系であった。」 とある。


21世紀を迎え、新情報が民俗学、考古学などから多数出されている。


また、天武天皇、安倍晴明、阿部泰親、阿部有世、賀茂家の陰陽師、織田信長、豊臣秀吉、土御門泰福、渋川春海、本居宣長、平田篤胤といった著名人の「知られざる一面がとの関係のなかから浮かび上がってくるだろう」 とあり、前述の著名人と占星の関わりを本文中で紐解いている。


また「地上の支配者はつねに天体の運行に異常がないかをチェックしなければならない。」 と天人相関説(トップシークレット)を紹介し、解説している。


国家占星を陰陽道とし、仏教系の占星すなわち「個人占星術は、日本に伝来し、発展していった。それを宿曜道という。」 ここでもまた二つの主流が現れる。


そして、本文はイザナギ流の解剖にすすむ。最終章には「彼らはまさしく術法の者であった。」 とある。


陰陽宗家のような存在の土御門家からは、弓祈祷、死霊祭祀、病人祈祷を禁止されていた。


陰陽師を名乗るには、安倍晴明が得意とした術法の世界を捨てることが条件となっていたのだ。


一般が知る陰陽師とかけ離れる。


江戸、明治と陰陽師の解説は続く。


陰陽道は、様々な学問や宗教などを取り込んできたが、真の陰陽師(陰陽道)は、シンプルに天文を極め、暦を編み、国家占星をメインとせよということなのかもしれない。


『宇宙誌』(2015)22でも一部引用したが改めて記す


「考古天文学という学問がある。古代の遺跡や記録を天文学的な側面から科学的検証、解明しようとする学問である。一般に考古学者は天文学的知識に疎く、天文学者は考古学的考察に不慣れなことから、ともすると古代遺跡の正確な意味の反面が見落とされることになる。なぜなら古代社会において空は地図であり時計でもあり、さらにそれ以上のもの、おそらく現代人が考えうる以上のものであったからだ。」 


最後の紹介に値する一文である。

つづく

以上、順次、中身を明示して参ります。


本日はここまで。

また遊びにいらしてくださいね。


占星学研究家 暁 瑠凪


「脳活 星の勉強会 AtoZ」は月曜・水曜・土曜に更新いたします。




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