挑戦〆リポート〆(29)

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2022年12月13日火曜日

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挑戦〆リポート〆(29)


 【倫理学概論】設題1

書籍名:「倫理学概論」

著者:小笠原秀実

設題1:カントの「実践理性批判」について「定言命法」の特質をまとめ自分の意見を述べよ。


意見を述べる前に定言命法をまとめた。「定言命法とは、カント倫理学における根本的な原理であり、無条件に『~せよ』と命じる絶対的命法である。定言的命令とも言う。『人倫の形而上学の基礎づけ』において提出され、『実践理性批判』において理論的な位置づけが若干の修正がされた。」とある。(ウキペディア調べ)

また、コトバンクには「人間の意志を制約する道徳法則のうちで、人間一般に無条件に当てはまるものをいう。仮言命法が『もし幸福を望むならば、云々の行為をせよ』と条件付きであるのに対し、端的に『何々せよ』と義務を命ずる。カントによれば、道徳的命法は何かの目的のための手段であってはならないから、定言命法であるとされる。定言的命令。無上命法。」であった。自分自身で「定言命法」を解釈をすると端的に条件なしの【ねばならぬ】ということで、無条件の道徳的法則のことなのだと理解した。


テキストP247の文中に、カント道徳論の真髄が載っていた。「実践的理性の能力が全く先験的なものであって、経験的なものでないことを明らかにすることが『実践理性批判』根本である」とあり、テキストP248にある定言命令について「『しなければならぬ』の義務の自覚において行為することである。」とあり、「道徳的実践法の真髄は無条件的な、換言すれば禍福を約束しない理性の命令であり、やがてそれが義務の一般的形式である。」とある。


一体、一般的に何がそれに当たるのか?という純粋な疑問が生まれる。人としてしなければならないこと、またはしてはならないことなのか。


このことは、最後に論じるとして、カントについて調べてみる。


ウキペディアではあるが、「イマヌエル・カントは、プロイセン王国の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる『コペルニクス的転回』をもたらした。フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学の祖とされる。」とある。どこで調べてもいわゆる近代哲学の祖とされている人物だ。哲学のテキストでも同類の記述があった。ということは倫理学は、哲学と深い関係性がある学問なのだなと一旦、理解する。(この程度の見解しかない倫理学と初めて向き合った者としてご理解いただき、ご容赦願いたい。)

改めて、倫理学を調べると「倫理学あるいは道徳哲学とは、一般に行動の規範となる物事の道徳的な評価を理解しようとする哲学の研究領域の一つである。 法哲学・政治哲学も規範や価値をその研究の対象として持つが、こちらは国家的な行為についての規範を論ずることとなる。ただしこれら二つの学問分野が全く違う分野として扱われるようになったのは比較的最近である。」関係性があるないと言うより哲学の研究の領域であったと理解した。高校の授業で倫理と称される学科があり、先生の話を聞き、大好きな授業であったが、こう向き合ってみると今さらながら、根本的なところさえ、何も理解して無かったのだと振り返り、猛省した。


カント曰く、「道徳法は理性に啓示された神の意志であるといっている。神の意志との一致のみを目指して、他の一切の意志規定の動悶を他律の原理として排諒することこそが、哀の救済でなければ ならない。 それゆえカントにおいては、道徳宗教は宗教を真の救済宗教たらしめ得る唯一の契約なのである。カントは恩寵や賎罪を決して否定したのではなく、むしろそれらの契機を 内に含んでいる救済宗教を道徳宗教として純化 し、キリスト教がいかなる意味で救済宗教であるかということを道徳神学とし、独自の神学によって明らかにしたのである。」とあった。


この道徳宗教といわれる位置にあるカントのことを踏まえ、最後になってしまったが、この課題を論じておかなくてはならない。


一般的に定言命法といわれる道徳的実践、いわゆる【ねばならぬ系】は、何に当たるのか?というところ、人としてしなければならないこと、または人としてしてはならないことなのか、そして、それは何なのか。


カントが伝えたかったのは、【教え】なのではぬないかと考察し、腑に落とすことにした。特にカントの場合、神学としての神の啓示であると言う立ち位置で、神の【教え】を説いたのではないか。それを道徳宗教という観点でカントの行ったことの位置付けから見ていくとそう言えるのではないかと推察できる。また、各家庭ごとにある【教え】も道徳哲学にあたいするかもしれないが、親の都合、学校の都合、地域の都合、社会などの都合や画一化された宗教の【教え】ではないと考察する。カントの説きたかったことは、もっと高次元からくる【教え】なのではないか。人としてなのか、はたまた宇宙の一員としての地球人の【教え】のようなことに、カントはフォーカスしているのかもしれない。真の大元に宗教の【教え】があるのだとすれば、その宗教の【教え】の力を借りて、実践する方法論が定言命法にあたるのではないかと思う。また、カントほどの宗教論理感をもつこともなく、宗教論を抜きを前提とした倫理学だとしても、生きていく上で人として生きやすい実践法であって欲しいと願う。人として【ねばならぬ】ことを実践していく。定言命法を実践し、ていくには、昔も今も時代に合わせ、試行錯誤しながらだと思われる。どちらにしても世の人々が、真の【教え】といわれる【教え】に出会い、それぞれが研鑽できることを信じたい。


《参考文献》

グスティヌスの時間論 : 『告白』の統一的主 題を巡る研究 著者:山田 庄太郎 発行年 2014

学位授与大学 筑波大学 (University of Tsukuba)


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