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2022年11月5日土曜日

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【教育学入門】設題1

書籍名「教育学への誘い」

編著者:山崎高哉

主題「教育」を表す言葉(漢語・邦語・英語)の語源のうち最も興味をもったものを一つ選び、それと関連させて、あなたの教育観を述べなさい。


邦語における「をしふ」「そだつ」の語義と自らの教育観を重ねてみた。


邦語の語義である「をしふ」は「ヲシム」で愛に通じる、「そだつ」は「スダツ」=巣立つ由来の「教育」とテキストP6にあり、そう理解した。このような意味付けにすると「教育」とはあまりにも綺麗ごと過ぎではないのか?愛を掲げるのは、言うは易し、行い難しなのではないか?との疑問が出る。


それにもかかわらず、邦語の語義に興味をもったのはなぜなのだろうか?


そこで、興味をもった理由について考察し、述べていこうと思う。


手始めに漢字の教育の語義、英語の教育の語義、邦語の語義がどうなのか理解し、それぞれを比べてみた。


テキストP5にある漢字における「教育」は「生まれた子どもを育て、その子どもが学ぶべきことを教える」となっている。素晴らしいし、ごもっともであるものの邦語の語義と比較すると平凡さを感じる。興味を持つところまでいかない。

テキストP5にある漢字における「教育」は、当初「親と子の間」でというのが中心であったとされ、その後、孟子の書物により、第三者が関わり、英才教育のような表現がなされているとある。狭い空間から広い空間へ変化していったと言うことは理解出来る。漢字における「教育」とテキストP6にある邦語における「教育」を比較すると次の部分にあげる意味に興味を持ち、惹かれる。「教えることが人間の『愛惜する情』を基盤とする」という部分だ。

テキストP7にある英語における「教育」は「養い育てる過程」、「しつける過程」「組織的な教授、学校教育、訓練」「能力の開発ないし発展、性格の形成」とある。まったくもって然りである。だが、個人の尊厳、人の感情に対して、意味合いが希薄だ。英語における「教育」とテキストP6にある邦語における「教育」を比較するとやはりあの一文「教えることが人間の『愛惜する情』を基盤とする」という説明に惹かれる。

テキストP6にある邦語の「教育」の「教えることが人間の『愛惜する情』を基盤とすると同時に、親や大人が愛情をもって子どもに生命を守る手段から様々な知識・技能、人間としてふさわしい行動・態度・生き方に至りまで、しかも『要点をおさえて』教授・指導・訓戒するという意味」に共感を覚えるのだ。心にズシンとくる表現である。そこで、「愛惜の情」の意味を調べてみた。「人や物を愛しく感じ、大切にすることを意味する語。」(webio調べ)とある。その意味も踏まえて、再度熟読すると綺麗事ではない内容であると理解できた。愛ありきの内容だ。言葉だけでは到底叶わない素晴らしい内容であった。綺麗事と解釈した事を反省せざる得ない。

テキストP7にあるように教育の捉え方も「『教える』ことと『育てる』ことは不可分に結びついてる」とある。それはもともと「育てる」が両方の意味を併せ持つからだとある。育てることは教えること、このことを子育てと考えれば、納得がいく。経験値からも言える。また、興味を持った大きな理由のひとつ、テキストP7にある「育てられる者と育てる者との共同の営為であるのみならず、育ち、育てられるに値する何らかの価値・規範が目的として存在している」とあるところだ。受けとる側と授ける側との方向性が同じであれば「教育」の成果が出やすいのだろう。

教育の成果を調べてみると「思考力、判断力、表現力等に関する評価の工夫」、「関心・意欲・態度や道徳的心情・実践力等に関する評価の工夫」とあった。(文部科学省配布資料より)教育=成果ではないものの逆引き的方法で調べてみると本質が見えてくると思った。思考力、判断力、表現力等は、個人の素質にもよりバラツキはあるが、価値といわれる部分なのだ。関心・意欲・態度や道徳的心情・実践力等が、規範にあたると思われる。共同的に教育を進めることが必要なのだ。成果主義に陥ることなくだ。

そして「本来みづから成長する素質をもったものに対する助成的なはたらき」ということは生まれながらの素質、素材を生かして生きていかれるということが前提なのだと理解でき、生まれたことの意義に繋がると解釈できる。私自身が仕事をしていく上で目標とする境地と重なった。また、テキスト中、4ページと少ないページ数ではあるものの凝縮された「教育」が邦語の語義の中で生き生きと表現されている。人が生まれ、生きていく上で、真の「教育」はこうあり、こうあれなのだ。

(結論)

テキストP9にある「教育とは、意図的、計画的な『文化化』への援助」とある。また、P11には、社会化と教育の作用について「常に両方の可能性が存在しているのが現実である。」とある。文化化と社会化が、教育のキーワードなのだ。そして、P13の「人格化への方向づけの援助」も必要だ。選択の自由と批判の能力、自発性や自律性、責任を自覚することもあげられる。なによりP15の「学習が成立するように支援する『学習への援助』が『教育』」そのものなのだ。P1617に発達の概念として①成長・成熟②適応③社会化・文化化④人格化⑤自己形成・自己実現があげられている。P23に凝縮された教育とはの文章「人間らしく生き抜くために生涯にわたって努力し続けるようにさせる社会的行為である」とあった。

個性尊重、個性重視が重要であるとされる、テキストP4158にその重要性がとかれている。そもそもの個性を把握し、発達させ、許容し、尊重する。許容することが尊重になるとある。また、テキストP5977の中で「生きる力」をつけることも「教育」が目指す目標として掲げている。家庭、学校、教育関係、対人援助、情報化社会、国際化、価値観、環境、テキスト第3編にある「現代における教育学の課題」の中に綴られている。その内容が日常的教育を浮き彫りにしている。ひとつ、ひとつが「教育」における課題なのだ。教える側は教えること(課題)に愛情を持っていることが、必要だ。共同意識を持ち、課題に向かい、先人の教え・知識を活用し、感謝して臨むことが重要だ。人は皆、存在することに意味があると思わせてくれる「教育」が求められ、目指すめあてなのだと思う。


私の「教育観」をまとめてみた。社会に出ても生きて抜くスキル(人間関係の技術も含む)と社会に役に立つ人材になること、そして、人として最低限度の情動を具備させることだ。「教育」は愛惜を持った指導者と成長することを望んでいる学ぶ者との共同の営為なのである。ゆえにどちらかの独りよがりではなりたたないものであるとテキストで理解し、テキストP6にある邦語の「教育」の「教えることが人間の『愛惜する情』を基盤とすると同時に、親や大人が愛情をもって子どもに生命を守る手段から様々な知識・技能、人間としてふさわしい行動・態度・生き方に至るまで、しかも『要点をおさえて』教授・指導・訓戒するという意味」とあるところから、前述のような「教育観」が、明確となった。


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