暁の挑戦〜大学1-4〜

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2019年3月5日火曜日

暁の挑戦〜大学1-4〜

【哲学】設題2

書籍名「連続をめぐる哲学-流れ・瞬間・同一性-」

編著者:田山令史/斎藤慶典

主題:全6章のうち、一つの章を選んで、まずその内容を正確に要約せよ。その上で、自分が疑問に思うこと、批判すべきだと思う点を詳述せよ。

(要約)

第3章 瞬間と創造

ーデカルトにおける〈私〉の連続性ー

「デカルトとライプニッツの考え方の基本線を紹介して、思考の練習のための材料を提供する」ことが目的だ。

1 「私」「今ーここ」

ここでは「再帰的な自己同一性(自己性)の意味での『私』について語っている」また「『今ーここ』」というときの『今』とはどのようなものなのか」ということも紐解いていく。「デカルトの哲学が『私』(『自我』)の存在の連続性について、時間との関係から、興味深い議論を示している」とあり、ライプニッツは、「『合理主義(合理論)(rationalisme)の哲学と称される。」また、イギリスの哲学者たちの「『経験主義(経験論)(empirisme)』と対比される。」とある。

2 私は存在する,私は考える〈間〉は

こちらでは「『誇張的懐疑』『方法的懐疑』」が紹介され、その「懐疑論を避けるための『アルキメデスの一点』として、疑っているときに、疑っている私の存在が確実であることを主張する。」そして「『私はある、私は存在する』という命題に行き着く。」とある。また、時間としての規定が与えられる定義として「デカルトは『考えるもの』であるかぎりで存在するということから、物体(身体)を『私』の属性から取りのぞき、『思考』のみを『私』の属性として認める」という。そして「デカルトの考える『神』とは」「形而上学的な神であることに注意しなくてはならない。」につながる。「私が今あり、そしてかつてあったということを思い出す、ということから、私の持続が得られ、それを物体に対して私は適用するのである。考える私は何ら物体ではないが、持続の観念は私の内にある、とデカルトは考える。」とある。「デカルトは、神を『無限実体』とし、物体と精神を『有限実体』としている。」とあり、「連続を考えるためには、無限の概念に依拠しなくてはならないということに過ぎない」とある。

3 連続的な創造=保存

「無際限に分割可能な非連続的な時間点(瞬間)を想定しつつ、同時に自我や物体などの持続を認めるためには、世界そのものを保存するような働きを、有限な時間点の集合の外部としての無限の場に認めなくてはならないということである。」論述されている。

4 ライプニッツの連続律

「『個体性』と『自己性』(再帰的な反省的な自己意識の構造)」が新たな意識を呼び起こすとある。「ライプニッツは、表象の移行を連続的なものと考えており、あらゆる自然の変化は段階を追って生じるのであって、『あるものは変化し、あるものは変わらない』と述べている。」とある。また、「デカルトが自我の連続を、連続的創造=保存という無限の原因から因果的な結果と考えている」に対して、「ライブニッソは、同一の自我における無数の表象の移行する変化の連続性を、目的因の観点から考察している」とある。ライブニッソは「『予定調和』の概念に頼る」とある。

5 「なにゆえ無ではなく,むしろ何ものかがあるのか」

例えると「運動中の物体や発育中の生物は、その瞬間瞬間には偶然的で無数の可能性を持つにもかかわらず、結局はある一定の方向を描き、それ以外の現実存在でありえなかったのはなぜなのか。ライブニッソはその根拠を神に求めた。」とある。

6 「私」の人格の保存

「デカルトが運動における力の量の保存を述べた」対して「ライブニッソは力の方向の保存を述べた」とある。また、「デカルトが生物を機械とみなした」対して「ライブニッソは分割不可能な有機体とみなした。」とある。「ライブニッソが『私』の人格の保存について語っている」のが【形而上学叙説】にあるとある。「デカルトにおいて『私』の連続性が保存され」「瞬間の連続的な創造によって」とある。「ライブニッソは、『私』が道徳的に保存され、同じ人格でありつづけることを主張する。」そして、「『なぜなら知性的な魂に、罰や褒美を与えることができるのは、この私の記憶あるいは認識だからである』」とある。「『私』が経験する さまざまな出来事や行為が、時間的継起において、連続しているものとして経験されている、その多様なものの『総合』の経験するもの」とある。また「連続性を思考するのではなくて、経験する」ともある。「『私』という語は、概念的規定を逃れているように見えるが、多様な経験そのもの統一性の表示と考えることも可能である。」とある。「デカルトやライプニッツは神について形而上学的に語る」とそして、デカルトは「有限な人間には計り知れない原因として無限の神の観念があり、ライプニッツにおいては、有限な人間がその似姿であるような神の観念があった。ライプニッツは、無限の神と有限な人間にアナロジーを立てていたのである。」とある。「神に頼らないで、実体の恒存、因果性、相互作用を内的直観の形式から語ろうとしたのがカントである。」「カントの哲学は、デカルトの哲学が哲学史につけた折り目を、さらにもう一度折り返したと言える。」と結んでいる。

疑問と批判すべきだと思う点。

個人的には「神の存在」を信じている。精霊と呼ばれる存在や自然から生まれる非科学現象も。(科学は歴史が浅いのでここで記述すること自体あまり良くないのか?はわからない)そして、宇宙の中の一つの星、地球。解明できてないことが沢山ある。宇宙規模と表現されるくらい宇宙のスケールは巨大なのだ。比較すると人間の能力や存在は、小さな存在である。当然、この地球で感知出来ないことが起きてもおかしくはない。

だからこそ、「神は偉大だから」と安直に片付けられるのかもしれない。しかしながら、最終的に「神」へ落ち着けてしまうのはいかがなものだろうか?⇒ 疑問の提起

偉大な無限の存在の神。人間を創生したであろう神が、時間も管理し、宇宙に存在する。そう、落とし込む。先人の哲学者が深い考察と思考の元、論述したのだからと納めたいが、納まりの悪い感じが残る。⇒ 問いかけ

神には頼らずに有限な存在が経験を通し、連続性を語れるのか?以下は気になる部分を本文より抜粋した。

デカルトは有限な人間には計り知れない原因として無限の神の観念がある。と論じた。『考えるもの』であるかぎりで存在する。連続を考えるためには、無限の概念に依拠しなくてはならないということに過ぎない。と論じた。

ライプニッツは有限な人間がその似姿であるような神の観念があった。『私』が道徳的に保存され、同じ人格でありつづけることを主張する。連続しているものとして経験されている、その多様なものの『総合』の経験するもの。と論じた。

懐疑論からは、私はある、私は存在する。

カントは神に頼らないで、実体の恒存、因果性、相互作用を内的直観の形式から語ろうとした。

(結論)

ゆえに「カント」の論述であれば、神という存在を引き合いには出さないことで納得がいく。私自身、無限の存在は、宇宙と捉えている。宇宙からの信号を受け、有限の存在が生かされ、活動し、保存されて、存在していると。その意味では宇宙=神なのかもしれない。⇒ 本論のまとめ

哲学を学び、疑問を持つ大切さ、疑問を持つ勇気、角度を変えることで学びがあった。〈私〉という存在が瞬間瞬間保存され、実体ある存在として、この地球に存在したい。

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