暁の挑戦〜大学1-3〜

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2019年3月5日火曜日

暁の挑戦〜大学1-3〜

【哲学】設題1

書籍名「連続をめぐる哲学-流れ・瞬間・同一性-」

編著者:田山令史/斎藤慶典

主題:全6章のうち、一つの章を選んで、まずその内容を正確に要約せよ。その上で、自分が疑問に思うこと、批判すべきだと思う点を詳述せよ。

第2章 刹那滅の哲学 ー瞬間的存在と連続ー

巻頭~仏教の世界では「すべての存在は今の瞬間にしかない。それ以外は端的にまるごとないのだ」=「刹那滅」。そして「刹那滅」は「非連続である。」また、「非連続と連続の瞬間は同時であってインターヴァルはない。その同時性における転換の際が刹那滅なのである。」とある。

1 存在はひとりでに、瞬時に消滅する

⑴哲学の衝撃ー「刹那滅」、この異様な衝撃波

刹那滅とは「すべての存在は瞬間的に消滅すること」だ。そして、「どこにも知覚されない。『今』そこから到来すべき未来の時間的場所はない。」ということだ。

⑵「刹那滅」は「ものの変化」ではない

「インド仏教の『無常』は最終的に『刹那滅』へ展開するが、一般に『無常観』は、多くの場合そこに『変化』をみている」そして「『変化』は存在そのものが丸ごとなくなるのではなく、…時間的様相と考えられる」ということだ。そして「すべて『今の一瞬』しかないのだ。」そう、ものの変化ではないということなのだ。

⑶2つの否定ー相対的否定と絶対的否定

「『非存在』という知覚されない言語対象をあたかも存在するかのように虚構してしまうのである。」が「相対的否定」である。「存在それ自体が基体もろとも端的に存在しない」また「『まるごとない』という否定のしかたを『絶対的否定』と呼ぶことにしよう。」とある。

⑷相対的否定としての「いま」の排除機能

排除機能として「『今』が『未だ』と『すでに』を排除する。この『今』のもつ排除機能を相対的否定としてとらえると『未だ・未来』と『すでに・過去』は排除された」がしかし「その存在そのものは否定されていない。」という事だ。

⑸絶対的否定としての「いま」の排除機能

排除機能として「『今』は『今以外のもの』の存在をまるごと否定する。」という事だ。

「『今』に接続する私や世界の基体の存在は、相対的否定によって、2瞬間を空間の2地点のように同時に並存できると思い込んでいる概念構想(言葉の世界)の虚構なのである。」そして「『私自身がまるごといなくなる』という『死』は、死体というものにはない。」、「死体や灰は存在しているものだからだ。」という観点からみていくと「刹那滅は単なる断絶ではない。」そして「私という同一の基体まるごとの死はその最終瞬間の消滅と同時に新しい存在が創発する瞬間でもあるのだ。」ということだ。

⑹消滅・非存在から存在するー死から生きる

「すべては、今の一瞬間なのである。しかし、この『今』に私の同一性の拠点を置くことはできない。『今』という切断の瞬間、もはや『今』ではない。」と「『今』という言葉が『今』と重ならないのだ」となり、「『存在』という言葉の自己同一性が解体し、『自己差異性』として出現する」、「『存在』と『非存在』を二分する相互の排除・差異しか残されていない。」そこで「『今』には両義性がある。」と論じれる。

⑺スラッシュとしての刹那滅

「刹那滅ということが『すべての存在は瞬間的に消滅すること』であるとともに、『すべての存在は瞬間的にのみ存在すること』である」と刹那滅を論じている。そして「『存在が非存在になる』」「すべての存在するものは一瞬間も留まることなく刹那に滅する」また「『存在』と『非存在』という言葉の対象はそれぞれ自己同一性をもって固定された実在ではない[これを『空』による時間実体の解体とみることができるだろう]となる。「刹那滅は最終的には『/』というスラッシュのみで表現する以外ないように思われる。」につながる。

⑻自発的消滅ー存在はひとりでに瞬間的に消滅する

自発的消滅論とは「存在は1瞬間も自己同一性を保つことなく自発的に消滅する」ことを前提に「この自発性がインターヴァルを置かないという意味で存在は刹那滅なのである」ことになる。「生は死を本質としているという意味で死を前提している。」という観点と「死なないということは生きてないということなのである。」というそもそも論が存在する。

2 刹那滅を論証する

⑴ことばの対象ー他者の排除・差異

ここではアポーハを中心にまとめられ「相対的否定によって分けていた私たちの『言葉』」「その『存在』と『非存在』の差異線にそって」「言葉の差異線を遡行する。」と差異を語り、「二分する分節作用である否定的な差異線が」リアリティなのだ。そして「すべての世界がまるごと一瞬もとどまらず、刹那に滅する」とまとめている。

⑵「存在」の定義ー結果をもたらす原因(効果的作用能力)

「『存在』を『効果的作用をなすこと・結果を発生すること』と規定することを提案したい」は刹那滅の中での言葉「存在」とはにつながる。「『結果をもたらす原因としての能力をもつもの』が『存在』である」と「縁起」の独自解釈から来ているものだとある。

⑶「効果的作用」のモデル

モデルは2つ「第1の継続的モデルは」「種子としての最終瞬間が瞬間的に消滅すると同時に結果として発芽する。」があげられ、「第2の同時的モデルは」原因が消滅してその場所を空にすることによって結果を呼び込み、その場所に同時に結果が発生することになる」〔このモデルはダルマキールティによって与えられた〕とある。そして「第2モデルこそ基本的なもの」とあり、「原因総体の最終瞬間として、最期の生の努力の終わるところ」「縁起の構造連関としての結果が発現する。」と死と新しい結果を解説している。

⑷「効果的作用」の両義性

ここでいう両義性とは「本質的関係としての因果関係は、その結果を目的行為と読み替えることができると同時に、言葉に連動することができる。それ以外の効果的作用の排除が同一の効果作用を決定するように、それ以外の言葉の使用法の排除が同一の言葉の対象を決定するからである。」となる。「『排除作用』によっていることに注意」ともある。また、「原因は結果を目的として先取りすること」という記述にも注目したい。

⑸刹那滅論証

創造的仮説という切り口から「『およそ存在するものは、瞬間的なものである』という前提そのものの論理的必然性[インド論理学では遍充関係という]を証明しようとするのである。」と解説され、「刹那滅論証は仮説をどのようにジャスティファイ(正当化)するかが問題」とあり、「パースの『アプダクション』に非常に近い視点をもっている」と論述している。

⑹刹那滅論証A

方法論の⑸よりもより具体的に論述されている「肯定的必然性〔肯定的遍充関係〕」は「『実例』を知覚することによって確かめることはできない。」とあり、「否定的必然性〔否定的遍充関係〕」だと「『存在性』とは『効果的作用をなすこと』であるから、『非瞬間的なものは効果的作用をなすことができない』ということを証明すればよい」につながり、継続的作用と非継続的作用の両者を否定すれば、効果的作用をなすことが不可能になることが証明される。」となる。

⑺刹那滅論証B

「『およそ存在するものは、瞬間的なものである』という肯定的必然性に基づいて証明すべきであると考える。」のが、Bということだ。「刹那滅論証の『本質の差異』という結論は」「自己同一性として確定することが」「『最終瞬間の消滅が結果の発生であること』から『自己差異性・自発的消滅を本質』としているという刹那滅の両義性を表現している」となる。

⑻論証Aと論証Bの違い

論証Aは「『すべての存在は瞬間的なものである』の代わりに『非瞬間的なものは存在出来ない(- B→-A)を先に証明している。」論証Bは「『およそ存在するものは、瞬間的なものである』という肯定的必然性(A→B)に基づいて」とあり、「論証Bは肯定的関係先決型であるが、論証Aは逆に否定的関係先決型」であると、違いを示した。ここで論証A=「リアルな対象を示さない」内遍充論とし、論証Bは「リアルな存在に基づくべきだ」という外遍充論としている。

⑼刹那滅論証Bと直観主義論理

「この論証Bから論証Aへの批判は直観主義論理の視点に近い。」とある。P84の欄外用語解説「クリプキの『直観主義倫理のモデル』」で理解できる。

⑽刹那滅論証C

論証Cは「対偶をシンメトリーとみなして、論証Bと論証Aを同等とみなす。」とある。そして大変興味深い「『嘘つきのパラドックス』」が紹介されている。そして元々「哲学は『語り得ぬもの』を語らなければならない運命」と哲学の核心部とも言える論述がある。

3 刹那滅と連続

⑴知覚される瞬間的存在

「刹那滅であると判断することは、知覚判断という概念構想に基づいている」とある。また、「『一瞬間を画定する直接的把捉』として把捉しているはずである。」となる。

⑵創発する刹那滅

「日常のレヴェルの自己否定があって、初めて究極的レヴェルが創発される。」しかしながら「一般に真理は恒常不変で」「不変不動の基準でなければならないと思い込まれている」とある。

⑶刹那滅は連続するか

「連続性は刹那滅の切断を媒介にして成立する。」とある。「刹那滅の哲学は『未完の連続の哲学』だ」と結んでいる。

⑷刹那滅ー絶対者なき哲学スタイル

「唯一の絶対的真理よりも、境界線上に留まり続け、未完のままくとうすることを選ぶことこそ、哲学の最後の切札なのである。」となる。

4 インド哲学からの挑戦

疑問と批判すべきだと思う点と考察。

P60の⑴にある「この異様な衝撃波」とある。果たして、異様なのだろうか?また、P67の⑹にある「生は死によって初めて新しい生となってきらめく。生の意味は死によってはじめて与えられる」とある。誤解が生まれそうな文言であるこの部分を問いたい。

異様な衝撃波と言わしめた「刹那滅」それは一体なぜなのだろうか?

そこで、果たして異様なのだろうか?と疑問を提起したの理由について述べていくとともに誤解が生まれそうと感じた文言についても述べていく。

1.刹那滅、刹那に滅するとは、確かに強烈な印象を与えているが、だからこそ、未来に繋げたい。

2.奥深い部分に触れると哲学の醍醐味が、味わえる言葉だ。ゆえに異様ではないと思う。もっとポピュラーにしたい言葉だ。

3.ブッダの言葉「すべての形成されるものは消滅する。だからこそ心に集中し、努力せよ」なのだ。だからこそなのだ。心に沁み入る言葉だ。

4.次に誤解が生まれそうな文言について述べる。本文での刹那滅の伝え方でほかの部分において気になるところはないが「きらめく」だけが、気になる。

5.夢のある言葉が「消滅」と直結しているという受け方をしたからだということが要因なのだ。印象かもしれないが疑問を伴う。人の死に何度も向き合ってきた、祖父母の死、父母の死、ペット・生き物の死。身近な消滅を経験し、自ら消滅を選ぶ人を見てきたからこそ切ないのだ。夢がそこには1ミリもあってはならない。死はゲームのリセットとは違うのだ。8.たびごとに「また会おうね」というような思いになる。しかし、同じ存在に会うことがないのは理解している。同じ存在は消滅したのだ。

6.また、宇宙に目を向ければ、地球に存在する我々はちっぽけだ。時間軸も違う。人間の百年などは瞬きのごとくだ。

6.だからこそ、端的に刹那滅は一瞬間である以上連続としては捉えられない。といえるとしたい。ブッダの最後の言葉がちっぽけな一瞬の生ある我々の存在を生かしてくれる。

刹那滅は存在と非存在の究極の表現である。それでも存在は滅することを理解しているが、直視できない。一瞬という刹那よりも、ひとときでもこの世に連続していると思いたい。我々がそこまで、刹那滅を意識することない理由は、刹那滅が浸透していないということもあるが、逆に非連続であることを認めることで「きらめく」心を大切に瞬間を愛で、存在そのものを意識できるのではないか。

つまりP92の「ブッダ最後の『言葉』」 「すべてのサンカーラは消滅する。だからこそ心に集中せよ」すべてここにつきると言いたい。命ある限り、存在を意識していきたい。

「刹那滅」

すべての存在は、生まれた次の瞬間には消滅する。しかし一瞬前の存在を因として次の一瞬の存在を生じるのである。したがって常に連続的に存在することができ、しかも、その新しく生まれる存在は、一瞬前の存在と全く同じではない。という理論です。

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