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2022年10月25日火曜日

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【日本文化史】設題1

書籍名「日本文化史 第ニ版」

著者:家永 三郎

主題:貴族文化の【国風文化】について


遣唐使の廃止によってそれまで中国の影響を受けていた日本の文化が、日本独自のもの へと転換をしてゆく。これが【国風文化】だ。時期は平安末期、文化の国風化は都でまず起きた。平安末期には地方で武士が勃興し、彼らが都の文化を受容して地方でも【国風文化】が展開する。また【国風文化】の特徴として、密教・加持祈祷の流行があげられる。そして、神仏習合が定着していった。本地垂迹説、仏が本地、神が垂迹ということだ。

8世紀には、神は仏によって解脱に導かれるものとされた。8世紀後半になると、神は仏によって菩薩になった存在とされ、10世紀には、仏が姿を変えたものが神であると考えられるようになり、本地垂迹説が成立した。

そして、寺院守護の目的で鎮守が置かれる。興福寺=春日大社、延暦寺=日吉山王社などの関係。仏は慈悲で衆生を救い、神は神罰を下して悪者を懲らしめる。この考え方は、後に両部神道になる。真言宗で両部曼陀羅によって日本の神を説明したものがあり、曼陀羅に描かれているのは仏だから、これと神を一体化したのである。仏教の国風化ということで大切なのは浄土教の考えが成立したことである。日本では正像はそれぞれ1000年と考え、釈迦入滅を紀元前949年とした。そのため1052年に末法になるとした。なので平等院は1053 年に建てられている。また、空也は 948年に延暦寺に登り、後に京都に西光寺、六波羅蜜寺を建てる。金鼓を叩いて念仏を広めながら、民間布教 をした。その頃、慶滋保胤はもとは儒学者。出家して比叡山に入る。「日本往生極楽 記」は聖徳太子、行基など45人の往生者の伝記である。どうすれば極楽往生ができたのか、極楽でどう住んでいるのかを記しており、極楽へのあこがれを誘う本である。

また、源信は13歳で出家して比叡山に入り、44歳で「往生要集」を著す。3巻、10章。「厭離穢土」「欣求浄土」「極楽の証拠」「正修念仏」などで極楽への行き方を 記した。「往生要集」では、極楽に行くための臨終の床の場面が記される。

次に阿弥陀堂の建立があげられる。阿弥陀堂は死に場所として建てたものだ。阿弥陀堂の多くは敷地の西側に建て、東から西方極楽浄土にいる阿弥陀如来を拝む形をとっている。

また、平等院鳳凰堂は、頼通が60歳を迎えた翌年、道長にもらっ た宇治の別荘を寺として建てた。池に面して西側に建てられ、西方極楽浄土を拝む形になる。極楽に飛ぶ鳳凰をあしらう。全体の形も鳳凰の形だ。内陣内には雲中供養菩薩が飛び、音楽を奏でる。平等院鳳凰堂阿弥陀如来は2m79cmの大きなもの。唐風ではなく和様の仏像として画期的なものだ。寄木造の分業によって作られたものだという。一木で作るには材料がなくなっていたとされ、阿弥陀仏が貴族の手によってたくさん作られ、需要に応じるには分業が必要であった。寄木造は一木造りのように狂わないというメリットもある。その代わり、継ぎ目の部分が空いてくる。ここはトノコなどで埋める。(夏のSRの折に平等院へお邪魔させていただいた。それはそれは雅の世界であった。)

またその時代、御霊信仰も忘れてはならない。この世に恨みを残して死んだものは祟る。疫病をもたらす牛頭天王=祇園や落雷をもたらす天神=北野天神を祀る信仰にみえるものだ。(SR京都の歴史の中でも学んだ。)そこで、活躍するのは陰陽師、陰陽道は暦の信仰で中国から入る。暦は日読みで、日月5惑星の動きを示したものである。これらは陰陽五行と称したものだ。今の生活の中にもある七曜や六輝である。陰陽道では、陰陽2種の気によって天地間の事柄が生じ、五行の動きによって世の中の 吉凶が決まるとした。毎日位置が変わるので、毎日吉凶が変わってくる。六輝は六曜ともいい、大安、仏滅、友引、赤口、先勝、先負。時間によって吉凶が変わ るというものだ。

平安末期になると・中尊寺は奥州藤原氏がその本拠地である平泉に建てたもの。金色堂は屋根まで漆を塗って金箔を押している。清衡の建立。3代の遺体が3つの須弥檀 下に納められているので葬堂であるとされている。3つの壇ともに阿弥陀三尊を祀る。金銀螺鈿で装飾されている。清衡~秀衡までの3代の遺体がミイラ化していた。基衡のミイラは身長167㎝で、当時としては大柄で、血液型もわかる。泰衡のものと考えられる首も出たとある。

富貴寺大堂(阿弥陀堂)は大分県豊後高田市。

白水阿弥陀堂はいわき市。秀衡の妹が建てたものだ。

当時の美術関連として有名な聖衆来迎図は阿弥陀如来が25人の菩薩を連れて西方極楽浄土から迎えにくる様を描いている。死に際して掛けられたものとさわれている。山越の阿弥陀は山の向こうに阿弥陀が見えるというもの。

このあたりでは、かつてはオテント迎えの行事があり、本来は太陽にしたがって東に行き、西に行って沈む太陽を拝んだとある。

書道としては三蹟と言われる小野道風、藤原佐理、藤原行成がいた。

絵画は大和絵で絵巻物の発達し、詞書きと絵が交互に出てくる。四大絵巻が成立する。源氏物語絵巻、信貴山縁起絵巻、鳥獣戯画、伴大納言絵詞である。源氏物語絵巻はもともと何巻あったかはわからない。現在は56面が残っていて、徳川美術館と五島美術館に分蔵されている。徳川のものは巻数も多い。吹抜屋台、引目鈎鼻。わざとぼんやりした顔にすること で、見る者に感情移入をさせる。能面と同じ理屈。秋に一週間ぐらい公開される。

信貴山縁起絵巻は信貴山にいた修行僧・命蓮の物語。鉢を飛ばして托鉢をする。山崎長者はそれまでは食べ物を入れてやっていたが、面倒になって蔵の中に閉じこめた。鉢は蔵を持ち上げて飛び去ろうとする。蔵を持って 行かれた山崎長者は命蓮に泣きつく。米だけ返すことになり、一つを鉢にのせるとそれに続いて残りの米が列をなして飛んでいった。庶民の風俗が描かれていて 資料的価値が高いされている。

鳥獣戯画はサルが僧になって蛙の本尊を拝んだりしている。 詞書きがなくて絵だけのもの。

伴大納言絵詞は応天門の変を描く。異時同図法がよくわかる。

平家納経は装飾経として優秀であったとされ、本来、写経は白紙に墨書する ものだったが、これに装飾を施すようになる。33巻。平清盛が一門の繁栄を祈って厳島神社に納めたものだ。

扇面古写経は10帖。四天王寺など。浄土信仰に基づいて貴族社会で作られたもの。下絵は経文とは関係なく描かれている。庶民生活や伊勢物語などに題材をとっている。

そして、仮名文字の発達から女性の活躍も見られる。和歌は古今和歌集以後八代集、六歌仙の活躍がみられる。物語文学は源氏物語、竹取物語、伊勢物語。日記、随筆は枕草子、土佐日記、蜻蛉日記、更級日記。歴史文学は、栄花物語、大鏡。戦記物語は、将門記、陸奥話記。説話文学は、今昔物語。歌謡芸能(催馬楽、今様)梁 塵秘抄てある。特に後白河法皇は今様が好きで、その集大成をおこなっている。七五調4句の歌謡。

とみていくと文化に宗教が溶け込み、中心になり、華やかな雅の世界そのままに芸術が生きている。この頃から人は食らう、生きながらえる、戦うだけの原始的生活からはっきりと人としての情緒的部分が根付いた「文化」があった。宗教が根付いた理由は、生老病死への葛藤があったのだろうと推測できる。しかしながら庶民に余裕からの楽しむ文化が根付くのは江戸時代ではあるが


〈参考文献〉

「平安時代」を知る本〈2〉文化・芸術―国風文化の完成と仏教美術の展開 /日外アソシエーツ


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