西洋占星学 -星脳®︎-

星脳®︎の暁瑠凪は、西洋占星学研究家として人生を星よみの研究、実践、鍛錬の日々を繰り返して参りました。

Main Posts Background Image

Main Posts Background Image

2019年12月27日金曜日

暁の挑戦〜大学1-13〜

【教育学】設題1

書籍名「教育学への誘い」

編著者:山崎高哉

主題「教育」を表す言葉(漢語・邦語・英語)の語源のうち最も興味をもったものを一つ選び、それと関連させて、あなたの教育観を述べなさい。


邦語における「をしふ」「そだつ」の語義と自らの教育観を重ねてみた。


邦語の語義である「をしふ」は「ヲシム」で愛に通じる、「そだつ」は「スダツ」=巣立つ由来の「教育」とテキストP6にあり、そう理解した。このような意味付けにすると「教育」とはあまりにも綺麗ごと過ぎではないのか?愛を掲げるのは、言うは易し、行い難しなのではないか?との疑問が出る。


それにもかかわらず、邦語の語義に興味をもったのはなぜなのだろうか?


そこで、興味をもった理由について考察し、述べていこうと思う。


手始めに漢字の教育の語義、英語の教育の語義、邦語の語義がどうなのか理解し、それぞれを比べてみた。


    テキストP5にある漢字における「教育」は「生まれた子どもを育て、その子どもが学ぶべきことを教える」となっている。素晴らしいし、ごもっともであるものの邦語の語義と比較すると平凡さを感じる。興味を持つところまでいかない。

    テキストP5にある漢字における「教育」は、当初「親と子の間」でというのが中心であったとされ、その後、孟子の書物により、第三者が関わり、英才教育のような表現がなされているとある。狭い空間から広い空間へ変化していったと言うことは理解出来る。漢字における「教育」とテキストP6にある邦語における「教育」を比較すると次の部分にあげる意味に興味を持ち、惹かれる。「教えることが人間の『愛惜する情』を基盤とする」という部分だ。

テキストP7にある英語における「教育」は「養い育てる過程」、「しつける過程」「組織的な教授、学校教育、訓練」「能力の開発ないし発展、性格の形成」とある。まったくもって然りである。だが、個人の尊厳、人の感情に対して、意味合いが希薄だ。英語における「教育」とテキストP6にある邦語における「教育」を比較するとやはりあの一文「教えることが人間の『愛惜する情』を基盤とする」という説明に惹かれる。

    テキストP6にある邦語の「教育」の「教えることが人間の『愛惜する情』を基盤とすると同時に、親や大人が愛情をもって子どもに生命を守る手段から様々な知識・技能、人間としてふさわしい行動・態度・生き方に至りまで、しかも『要点をおさえて』教授・指導・訓戒するという意味」に共感を覚えるのだ。心にズシンとくる表現である。そこで、「愛惜の情」の意味を調べてみた。「人や物を愛しく感じ、大切にすることを意味する語。」(webio調べ)とある。その意味も踏まえて、再度熟読すると綺麗事ではない内容であると理解できた。愛ありきの内容だ。言葉だけでは到底叶わない素晴らしい内容であった。綺麗事と解釈した事を反省せざる得ない。

    テキストP7にあるように教育の捉え方も「『教える』ことと『育てる』ことは不可分に結びついてる」とある。それはもともと「育てる」が両方の意味を併せ持つからだとある。育てることは教えること、このことを子育てと考えれば、納得がいく。経験値からも言える。また、興味を持った大きな理由のひとつ、テキストP7にある「育てられる者と育てる者との共同の営為であるのみならず、育ち、育てられるに値する何らかの価値・規範が目的として存在している」とあるところだ。受けとる側と授ける側との方向性が同じであれば「教育」の成果が出やすいのだろう。

教育の成果を調べてみると「思考力、判断力、表現力等に関する評価の工夫」、「関心・意欲・態度や道徳的心情・実践力等に関する評価の工夫」とあった。(文部科学省配布資料より)教育=成果ではないものの逆引き的方法で調べてみると本質が見えてくると思った。思考力、判断力、表現力等は、個人の素質にもよりバラツキはあるが、価値といわれる部分なのだ。関心・意欲・態度や道徳的心情・実践力等が、規範にあたると思われる。共同的に教育を進めることが必要なのだ。成果主義に陥ることなくだ。

そして「本来みづから成長する素質をもったものに対する助成的なはたらき」ということは生まれながらの素質、素材を生かして生きていかれるということが前提なのだと理解でき、生まれたことの意義に繋がると解釈できる。私自身が仕事をしていく上で目標とする境地と重なった。また、テキスト中、4ページと少ないページ数ではあるものの凝縮された「教育」が邦語の語義の中で生き生きと表現されている。人が生まれ、生きていく上で、真の「教育」はこうあり、こうあれなのだ。

テキストP9にある「教育とは、意図的、計画的な『文化化』への援助」とある。また、P11には、社会化と教育の作用について「常に両方の可能性が存在しているのが現実である。」とある。文化化と社会化が、教育のキーワードなのだ。そして、P13の「人格化への方向づけの援助」も必要だ。選択の自由と批判の能力、自発性や自律性、責任を自覚することもあげられる。なによりP15の「学習が成立するように支援する『学習への援助』が『教育』」そのものなのだ。P1617に発達の概念として①成長・成熟②適応③社会化・文化化④人格化⑤自己形成・自己実現があげられている。P23に凝縮された教育とはの文章「人間らしく生き抜くために生涯にわたって努力し続けるようにさせる社会的行為である」とあった。

個性尊重、個性重視が重要であるとされる、テキストP4158にその重要性がとかれている。そもそもの個性を把握し、発達させ、許容し、尊重する。許容することが尊重になるとある。また、テキストP5977の中で「生きる力」をつけることも「教育」が目指す目標として掲げている。家庭、学校、教育関係、対人援助、情報化社会、国際化、価値観、環境、テキスト第3編にある「現代における教育学の課題」の中に綴られている。その内容が日常的教育を浮き彫りにしている。ひとつ、ひとつが「教育」における課題なのだ。教える側は教えること(課題)に愛情を持っていることが、必要だ。共同意識を持ち、課題に向かい、先人の教え・知識を活用し、感謝して臨むことが重要だ。人は皆、存在することに意味があると思わせてくれる「教育」が求められ、目指すめあてなのだと思う

私の「教育観」をまとめてみた。社会に出ても生きて抜くスキル(人間関係の技術も含む)と社会に役に立つ人材になること、そして、人として最低限度の情動を具備させることだ。「教育」は愛惜を持った指導者と成長することを望んでいる学ぶ者との共同の営為なのである。ゆえにどちらかの独りよがりではなりたたないものであるとテキストで理解し、テキストP6にある邦語の「教育」の「教えることが人間の『愛惜する情』を基盤とすると同時に、親や大人が愛情をもって子どもに生命を守る手段から様々な知識・技能、人間としてふさわしい行動・態度・生き方に至るまで、しかも『要点をおさえて』教授・指導・訓戒するという意味」とあるところから、前述のような「教育観」が明確となった。

2019年12月14日土曜日

【2019/12月後半スケジュール】


こんばんは、暁です。12 月後半です、良い年をお迎えください♪


2019/12月前半スケジュール】

12/16月曜 13時〜竹橋「東京毎日文化センター」タロット講座、15時〜西洋占星学講座、18:30〜本厚木

12/17火曜 1315HARA塾「環(くるり)」プロコース、1921@原宿

12/18水曜 1121 原宿占い館「塔里木タリム」出演(ヴェルニlog in)

12/19木曜 1121 原宿占い館「塔里木タリム」出演(ヴェルニlog in)

12/20金曜 1121 原宿占い館「塔里木タリム」出演(ヴェルニlog in)

12/21土曜 AM京都へ移動、21日土曜〜24火曜 冬期スクーリング

12/24火曜 AM京都〜新横浜、17時〜ミク役員会、18:30〜打合せ

12/25水曜 1121 原宿占い館「塔里木タリム」出演(ヴェルニlog in)

12/26木曜 1121 原宿占い館「塔里木タリム」出演(ヴェルニlog in)

12/27金曜 1121 原宿占い館「塔里木タリム」出演(ヴェルニlog in)

12/28土曜 1116 ミクセリア代行出演@渋谷モディ

12/29日曜〜20201/1水曜  フィールドワーク@大分県

2019年12月12日木曜日

暁の挑戦〜大学1-12〜

【日本の歴史】設題

書籍名「概論 日本歴史」

編者:佐々木潤之介、佐藤 信、中島三千男、藤田 覚、外園豊基、渡辺隆喜


主題:鎌倉幕府と執権政治について


まずは設問1.をうけて、〈執権〉を調べてみた。「執権は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け、政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。」とある。鎌倉幕府独自の職だったのだ。

「執権職は北条氏が独占し、世襲した。当初から大きな勢力を持っていたが、三代将軍源実朝暗殺後はほとんど幕府の実権を掌握し、政務を執った。しかしながら将軍職は公家や皇族を京から迎える形で名目的存在としてあり、北条氏は形式的服従を貫いていた。」北条氏の権力はこうして、定着していったのかと過程が解った。

「北条氏の嫡流は『得宗家』と称され、得宗家の当主またはその後継者が幼少の時には北条氏の庶流から執権が任じられた。元弘の乱の最終段階(鎌倉の戦い・東勝寺合戦)において、13代基時・14代高時(得宗家)・15代貞顕・16

守時の4名の執権(及び経験者)が鎌倉幕府とともに滅ぼされることになった。初代の『執権』は、1203年(建仁3年)に北条時政が外孫である3代将軍源実朝を擁立した際に政所別当とともに合わせて任じられたのが最初とされている(異説として、初代政所別当である大江広元を初代執権とする説もあるが少数説である。また後述のように北条泰時の時代に初めて登場した説もある)。時政の就任以来、北条氏の権力確立の足場となる。2代執権の北条義時が侍所の別当を兼ねてからは、事実上、幕府の最高の職となった。基本的に鎌倉幕府は、鎌倉殿と御家人の主従関係で成り立っており、北条氏も御家人のひとつに過ぎなかった。」御家人の立場から執権職という地位までに登っていった北条時政の人物像はいかなるものか。

時政は平家ゆかりのものであるが、頼朝の見張り役になったことで頼朝の舅となる。鉢田の戦い、富士川の戦いに挙兵した。その後は御家人としての時政がいた。亀の前事件で空白の期間

があるものの治承・寿永の乱が終結した際、政治力により、京都守護の立場得て、手腕を発揮する。七ヶ国地頭を譲り、駿河守護として活動していた。しかし、義時との対立を深め、時政と政子・義時らの政治的対立も背景にあったからと推測され、以後の時政は二度と表舞台に立つことなく政治生命を終えた。

その後「源氏将軍が3代の源実朝で途絶えてからは、摂関家、皇族から名目上の鎌倉殿を迎え、その下で執権が幕府の事実上の最高責任者となる体制となった。しかし、政敵となる有力御家人を次々と滅ぼし、また執権以外の幕府の要職の多くを北条氏が独占していくにつれて、御家人の第一人者に過ぎなかった北条氏の実質的権力は、漸次増大していった。」とある。

「摂家将軍・宮将軍の下では幕府で行われる訴訟の裁決は、将軍による下文ではなく執権によ

る下知状によって行われることになり、執権が幕府における訴訟の最高責任者となって将軍は訴訟の場から排除される事になるが、これは単なる執権の権力の拡大ではなく鎌倉幕府を維持する上で必要性があったとする見方がある。この考えによれば、御恩と奉公の論理によって支えられていた鎌倉幕府において、将軍は御恩の一環として御家人の所領を安堵して彼らを 保護する義務を負っていたが、御家人同士の所領争いの裁決を下す事で敗れた御家人に対する保護義務を反故にしたと受け取られ、将軍と訴訟に敗れた御家人との主従関係を破綻させる可能性を秘めていた。そのため、所領を安堵する将軍とは別に同じ御家人である執権が訴訟の裁許を行うことで、御家人同士の所領争いにおいて将軍と御家人における御恩と奉公の関係を壊すことなく公正な訴訟が執り行われることになり、幕府の訴訟制度の確立につながったとする。」とある。

「執権による公正な訴訟は御家人にとっても望

ましいものであった。また、合議制の訴訟制度の確立の過程で、かつ将軍の後見人(「軍営御後見」)でもあった北条泰時が、評定衆を取りまとめて将軍の代わりに裁決を行う役目として兼ねた職が執権の始まりで、時政・義時を執権としたのは過去の政所別当・軍営御後見を遡って「執権」と記した『吾妻鏡』の記述に由来とする説もある。やがて、北条氏の権力が増大するにつれて、幕府の公的地位である執権よりも、北条一門の惣領に過ぎない得宗に実際の権力が移動していく事になる。6代執権の長時の時代に、出家した執権の座を譲った得宗である時頼が依然として幕府内の権力を保持し続けた事が、得宗への権力移動の端緒となる。これ以降、得宗と執権が分離し、実際の権力は得宗が持つようになり、執権は名目上の地位となった。さらに、9代北条貞時が幼くして得宗と執権の両方を継承すると、得宗家に仕える御内人が貞時の補佐を名目として幕府の政治に関与する

ようになり、北条高時の時代になると、北条家の執事とも言うべき内管領の長崎氏が権力を握るようになった。」とある。この頃には部下までも権力を持ったのだ。

「近代になって龍粛が1922年(大正11年)に著した『尼将軍政子』の中で源実朝没後に執権が鎌倉幕府の実権を掌握してからの体制を執権政治と表現して以後、この語が広く用いられるようになった。ただし、近年では実朝の死後は北条政子が『尼将軍』として実権を掌握しており、執権政治への移行は政子の死後であるとする見方が出されている他、執権政治を2つに分けて8代北条時宗の急死後、幼少の9代北条貞時が幼くして得宗と執権をともに引き継いでからの体制を得宗専制と呼んで、それ以前の執権政治と分ける区分方法も行われている。」

〈執権職一覧〉

北条時政から始まり、北条義時、泰時、経時、時頼、長時、政村、時宗。

貞時、師時、宗宣、煕時、基時、高時、貞顕、守時。

さて、ここに得宗専制という制度が出てきた。執権とは何が違うのか?

簡単に言えば、北条一族の執権が御家人である評定衆をまとめるのが執権政治。執権は将軍を補佐する役割で幕府の役職。執権は代々北条氏が世襲。

「得宗は北条一門の嫡流(家督を継承する系統、人物)のこととなり、初代執権北条時政から5代時頼までは北条一門の得宗が執権に就任したので、得宗=執権という関係になるが、6代執権長時以降は得宗が執権にならないケースも出てきた。北条氏は他の有力御家人を次々滅ぼし5代時頼の時代に宝治合戦で三浦氏を滅亡させ、北条氏に対抗できる勢力がいなくなった。執権や連署、評定衆、引付衆、侍所、政所、問注所、六波羅探題など幕府の要職を北条一門が占めるようになると、一門をまとめる得宗の発言力が増大。評定衆による合議制は形骸化し、将

軍を補佐する執権の重要性が薄れたことで、得宗が執権に就任する必要性がなくなった。得宗に権力が集中したことで、得宗と側近が幕府の政策を決定する得宗専制政治へと移行していった。」ということは嫡流である得宗家が御内人と共に幕府を牛耳る体制が得宗専制なのだ。

現代政治の世界もともすると世襲制は非難されたりもする。そこまで悪しき制度とは思わぬが、この頃も人の欲がむき出しになっていたことが伺える。そのような行いはいかがなものだろうと疑問は出る。とにかく、将軍を祭り上げ、政治は自分達で行っていたということだ。

しかしながら現在の政治の和製的礎を築いた時代であることは間違いない。そして、鎌倉幕府が滅びるまで、北条方が幕府の実権を握っていたのだ。


〈参考文献〉

橋本義彦「執権 ()」(『国史大辞典 6』(吉川弘文館、1985年) 

上横手雅敬「執権 ()/「執権政治」(『国史大辞典 6』(吉川弘文館、1985年)

五味文彦「執権」/「執権政治」(『日本歴史大事典 2』(小学館、2000年) 

2019年11月30日土曜日

【2019/12月前半スケジュール】




こんばんは、暁です。12月になります。あと今年も1カ月、悔い無く過ごしましょう♪


2019/12月前半スケジュール】

12/2月曜 10時〜武蔵小杉、13時〜竹橋「東京毎日文化センター」タロット講座、15時〜西洋占星学講座、17:30〜蓮沼

12/3火曜 10:30〜馬車道、16時〜個人レッスン

12/4水曜 1121 原宿占い館「塔里木タリム」出演(ヴェルニlog in)

12/5木曜 1121 原宿占い館「塔里木タリム」出演(ヴェルニlog in)

12/6金曜 1121 原宿占い館「塔里木タリム」出演(ヴェルニlog in)

12/7土曜 1316 HARA塾「環(くるり)@原宿

12/8日曜 1116 横浜「ミクセリア学院」無料説明会

12/9月曜 1420時横浜「ミクセリア学院」、20時〜「部活」忘年会@横浜そごう

12/11水曜 1121 原宿占い館「塔里木タリム」出演(ヴェルニlog in)

12/12木曜 1121 原宿占い館「塔里木タリム」出演(ヴェルニlog in)

12/13金曜 1121 原宿占い館「塔里木タリム」出演(ヴェルニlog in)

12/14土曜 1113 個人レッスン@横浜

12/15日曜 1315HARA塾「環(くるり)@原宿


2019年11月27日水曜日

暁の挑戦〜大学1-11〜

【日本の歴史】設題


書籍名「概論 日本歴史」

編者:佐々木潤之介、佐藤 信、中島三千男、藤田 覚、外園豊基、渡辺隆喜

主題:初期議会から日清戦後にかけての政党について


1870年代からスタートした自由民権運動。

1890年の第一議会から日清戦争直前の第六議会までを初期議会呼ぶ。

初期議会と呼ばれる第一議会時の内閣総理大臣は山縣有朋である。最初の内閣総理大臣は、伊藤博文。憲法発布時の内閣総理大臣は、黒田清隆。そして、第一議会の内閣総理大臣は山縣有朋である。

初期議会の特徴として、超然主義の富国強兵を推進する藩閥政府と議席で過半数を占める民党との戦いがあった。藩閥政府政党の動向には左右されないと超然主義を取り、かつ朝鮮の利権に興味があり、膨大な軍事費を使いたいとの思いが見える。

それに対して、民党の立憲民進党や立憲改進党は議会の過半数を占めて、この時期に戦争を起こすのには反対、経費削減が中心スタンスだった。それにより対立構図が出来上がっていった。

衆議院の構成は、300議席中、立憲自由党が第一党130議席、立憲改進党も40議席で、民党が過半数を占めていた。

松方正義を首相とする第二議会も、予算案を巡って対立。海軍大臣樺山資紀の蛮勇演説で紛糾し、議会は解散、第二回総選挙となった。この時、内務大臣品川弥二郎による流血の大選挙干渉があった。しかし、結果は民党が過半数を占め、選挙干渉の責任問題で、議会運営の見通しの立たない松方内閣は第三議会終了後、総辞職

した。松方辞職の後、伊藤博文は山県有朋に、総理を打診したが、山県は拒否。そこで伊藤は自らが内閣を組織、第2次伊藤内閣となる。

第2次伊藤内閣のもと、第四議会では、自由党が内閣に接近して、与党化した。また、予算案で紛糾する議会に対して、和衷協同の詔=天皇の建艦詔勅が出され、予算案は通過した。これ以後、民党は政府との対決の手段を、予算審議から条約改正問題へ移すこととなる。

第五議会では、与党化した自由党に対して、民党である立憲改進党に、品川弥二郎の率いる国民協会が接近した。品川は先の選挙干渉の責任をとる形で、政府を出されていた。品川にしてみれば、噴飯やるかたない思いであったろう。自分の選挙干渉のおかげで当選した議員たちに、立憲改進党とともに、政府攻撃をさせた。これを対外硬派連合という。この攻撃に対し、政府は議会を解散。第六議会は、開始とともに内閣弾劾上奏案可決、内閣は議会を解散、泥沼化かと思われた。ところが、この年、日清戦争が始まる。大本営のおかれた広島で、開かれた第七議会は、満場一致で戦費予算を承認。ここに内閣と議会の全面対決は終了した。

日清戦争に目を向けると日清戦争は、政府と政党との関係に大きな変化をもたらした戦争であった。戦争中、政府と政党は政争を一時中止して挙国一致で戦争遂行にあたったが、

戦後になると、政府と衆議院の第一党である自由党は戦後経営をめぐって共同歩調をとり、1895(明治28)年11月、両者は公然と提携を宣言し、軍備拡張などを盛り込んだ予算案を認めた。そして、翌年4月には板垣退助が内務大臣として第2次伊藤内閣に入閣した。これより、同内閣は事実上、自由党との連立内閣となった。また、この年に伊藤内閣のあとを受けて成立した第2次松方内閣は、進歩党と提携して、大隈重信が外相となった。こうした藩閥と政党との連立内閣の出現を通じて、政党はしだいに勢力を伸長していった。1898(明治31)年には、第3次伊藤内閣は、戦後経営のための恒常的な財源を確保するため、地租増徴案を議会に提出したが、自由党と進歩党はともにこれに反対し、同案は否決された。衆議院は解散されたが、同年6月、自由党と進歩党は合同して憲政党を結成し、来るべき総選挙で衆議院の絶対多数を制する形勢となった。その結果、伊藤内閣は退陣し、伊藤はじめ元老たちの推薦を受けた大隈重信と板垣退助が組閣を命ぜられ、大隈を首相とし憲政党を与党とする日本で最初の政党内閣を組織するにいたった。このいわゆる隈板内閣は、首相大隈·内相板垣以下、陸相・海相以外はすべて憲政党員からなっていた。しかし、憲政党は同年8月の総選挙で衆議院の絶対多数を占めたにもかかわらず、自由党系と進歩党系の対立が激しく、文相尾崎行雄が共和演説 を非難されて辞職に追い込まれた。結局、旧自由党系の星亨が暗躍して憲政党を解党させたために同内閣はわずか4カ月余りの短命に終わった。尾崎が帝国教育会で道議高揚を説く演説をしたとき、「もし日本が共和制となれば三井・三菱らは大統領になるだろう」と日本の拝金主義を戒めたのが逆用され、旧自由党系や天皇側近の間から天皇に対する不敬の言動として攻撃され、辞職に追い込まれた。このとき、旧自由党系は新しく憲政党を結成し、旧進歩党系は憲政本党をつくった。あとを継いだ第2次山県内閣は、いったん憲政党と手を結んで、1898(明治31)年、地租増徴案を成立させ、地租率を地価の3.3%に引き上げた。山県内閣は、その後、政党の力をおさえるため、1899(明冶32)年には文官任用令を改正して政党員が官吏になる道を制限し、翌1900年には軍部大臣は現役の大将・中将に限る軍部大臣現役武官制を確立し、また治安警察法をつくつて社会、労働運動を規制するなどの政策をとった。

しかし、超然主義がもはや不可能であることは明らかであった。懸案となっていた衆議院議員選挙法の改正が山県内閣のもとで1900(明治33)年に行われ、選挙権については直接国税の制限額は10円以上に引き下げられて有権者は倍増し、被選挙権における納税額による制限は撤廃されるなど、国民の参政権が拡大されたのである。投票方法も無記名秘密投票制が採用された。このような情勢のなかで、憲政党は文官任用令改正問題で対立を深めていた山県内閣との提携をやめ、伊藤博文に接近し、伊藤も自ら積極的に政党結成に乗り出した。こうして星亨らの指導により憲政党は解党し、伊藤を総裁に擁立して、1900(明治33)年9月立憲政友会が結成された。立憲政友会、初代総裁は伊藤博文、幹部は西園寺公望(18491940)·星亨・松田正久(18451914)・片岡健吉・尾崎行雄·原敬(18561921)・大岡育造(18561928)らであった。かつて自由民権派として活躍した旧自由党系政治家や伊藤系の官僚が中心メンバーとなったが、伊藤は結党にあたって広く実業家・地方議員などにも入党を呼びかけ、また地主層などに多くの支持者を得た。1902(明治35)年の総選挙では190名の代議士を衆議院に送り込んで、過半数を制した(衆議院の定数は376名)。しかし、山県有朋は伊藤の立憲政友

会結成に批判的立場をとり、山県系の官僚やその影響下にあった貴族院議員などは立憲政友会に参加せず、貴族院は立憲政友会と伊藤内閣の反対勢力の拠点となった。

立憲政友会を基礎として190010月に成立した第4次伊藤内閣は半年余りで終わったが、これを機に伊藤・山県らは第一線を退き、元老として内閣の背後から政治を動かすようになった。そして、1901(明治34)年の第1次桂内閣成立以後、山県を後ろ盾に藩閥·官僚勢力に基礎をおく桂太郎(18471913)と、伊藤のあとを継いだ立憲政友会総裁西園寺公望が、交代して内閣を組織する、いわゆる桂園時代が始まった。

このように、帝国議会開設以来10年ほどで立憲政治は定着し、明治憲法体制下に大きな地位と勢力を占め、日本における政党政治発展の基礎が築かれることになった。憲法制定に際して日本が多くを学んだドイツでは、議会の多数党が政権をとることはなかった。

日本の場合、憲法の運用がドイツとはかなり違っていたことがわかる。


〈参考文献〉

詳説日本史研究/山川出版社

Error 404

申し訳ございません。お探しのページが見つかりませんでした。
トップページへ戻り、検索などでお試しください。

トップページへ移動する