西洋占星学 -星脳®︎-

星脳®︎の暁瑠凪は、西洋占星学研究家として人生を星よみの研究、実践、鍛錬の日々を繰り返して参りました。

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2022年11月1日火曜日

挑戦〆リポート〆⑻



挑戦〆リポート〆⑻


【日本文化史】設題

書籍名「日本文化史をよむ 5つのキーワード」著者:藤田 正勝

主題:テキストの第四章 世阿弥の「花」ー 能と禅の交わりーに興味、関心を持ち、世阿弥を中心にまとめた。


「世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18/貞治2年(1363年)嘉吉388日(144391日))は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師である。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽(申楽とも。現在の能)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。」600年余りも受け継がれているのだ。芸道の集大成ということなのか。

「幼名は鬼夜叉、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるものとされる。正しくは「世阿彌」。世阿弥が生まれたとき、父である観阿弥は31歳で、大和猿楽の有力な役者であった。観阿弥がひきいる一座は興福寺の庇護を受けていたが、京都へ進出し、醍醐寺の7日間興行などで名をとどろかせた。世阿弥は幼少のころから父の一座に出演し、大和国十市郡の補巌寺で竹窓智厳に師事し、参学した。1374年または1375年、観阿弥が今熊野で催した猿楽(申楽)能に12歳の世阿弥が出演したとき、室町将軍足利義満の目にとまった。以後、義満は観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになった。1378年の祇園会では将軍義満の桟敷に世阿弥が近侍し、公家の批判をあびている(「後愚昧記」)。1384年に観阿弥が没して世阿弥は観世太夫を継ぐ。

当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があった。世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられる。一般に猿楽者の教養は低いものだったが、世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、教養を身に付けていた。特に摂政二条良基には連歌を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしている。

義満の死後、将軍が足利義持の代になっても、世阿弥はさらに猿楽を深化させていった。『風姿花伝』(1400年ごろ成立か)『至花道』が著されたのもこのころである。義持は猿楽よりも田楽好みであったため、義満のころほどは恩恵を受けられなくなる。

義持が没し足利義教の代になると、弾圧が加えられるようになる。1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用する。一方、仙洞御所への出入り禁止(1429年)、醍醐清滝宮の楽頭職罷免(1430年)など、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていった。

1432年、長男の観世元雅は伊勢安濃津にて客死した。失意の中、世阿弥も1434年に佐渡国に流刑される。1436年(永享8年)には『金島書』を著す。後に帰洛したとも伝えられるが、幼少時に参学した補巌寺に帰依し、世阿弥夫妻は至翁禅門・寿椿禅尼と呼ばれ、田地各一段を寄進したことが能帳に残っている。大徳寺に分骨されたのではないかといわれている。「観世小次郎画像賛」によれば嘉吉3年(1443年)に没したことになっている[2]。


著書『風姿花伝』(『風姿華傳』、『花伝書』)では、観客に感動を与える力を「花」として表現している。少年は美しい声と姿をもつが、それは「時分の花」に過ぎない。能の奥義である「まことの花」は心の工夫公案から生まれると説く。「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」として『風姿花伝』の内容は長ら

く秘伝とされてきた。」心を大切にしながら、心技体を研ぎ澄まし、放つ。しかしそれは花のように立たずだけ、生き様が出るということなのか。


そこで

「風姿花伝 は、世阿弥が記した能の理論書。世阿弥の残した21種の伝書のうち最初の作品。亡父観阿弥の教えを基に、能の修行法・心得・演技論・演出論・歴史・能の美学など世阿弥自身が会得した芸道の視点からの解釈を加えた著述になっている。 成立は15世紀の初め頃。 


世阿弥が事あるごとに用いたとされる、飛花落葉と辞書でひくと「絶えず移り変わるこの世の、無常なことのたとえ。春に咲く花も風に吹かれて散り、青葉もやがて枯れ落ちる意から。」とある。茶道の精神のひとつ、侘び寂びが浮かんできた。


5つのキーワードのひとつ、「花」この言葉の中には、芸術(芸道)と人の心、人の命が投影されている。世阿弥の芸道に向かい合い守る姿勢は今も受け継がれるのが理解できる。時代は変われど、人の心、命の儚さは変わりえぬ部分のひとつだ。人の道も説きながら、身体を通して、人としての姿勢が伺えた。手前味噌になるが、なんと日本文化の美しいことであろう。世界の人々が日本文化に魅せられることも頷ける。これからの時代、変化しながらもこの日本文化を守り、伝えて行くことも日本の為にも世界の為にも必要なのかもしれない。


最後にテキストP130「人が人としてめざすべきものも見られていたのではないだろうか」に尽きる。


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート

2022年10月25日火曜日

挑戦〆リポート〆⑺



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【日本文化史】設題1

書籍名「日本文化史 第ニ版」

著者:家永 三郎

主題:貴族文化の【国風文化】について


遣唐使の廃止によってそれまで中国の影響を受けていた日本の文化が、日本独自のもの へと転換をしてゆく。これが【国風文化】だ。時期は平安末期、文化の国風化は都でまず起きた。平安末期には地方で武士が勃興し、彼らが都の文化を受容して地方でも【国風文化】が展開する。また【国風文化】の特徴として、密教・加持祈祷の流行があげられる。そして、神仏習合が定着していった。本地垂迹説、仏が本地、神が垂迹ということだ。

8世紀には、神は仏によって解脱に導かれるものとされた。8世紀後半になると、神は仏によって菩薩になった存在とされ、10世紀には、仏が姿を変えたものが神であると考えられるようになり、本地垂迹説が成立した。

そして、寺院守護の目的で鎮守が置かれる。興福寺=春日大社、延暦寺=日吉山王社などの関係。仏は慈悲で衆生を救い、神は神罰を下して悪者を懲らしめる。この考え方は、後に両部神道になる。真言宗で両部曼陀羅によって日本の神を説明したものがあり、曼陀羅に描かれているのは仏だから、これと神を一体化したのである。仏教の国風化ということで大切なのは浄土教の考えが成立したことである。日本では正像はそれぞれ1000年と考え、釈迦入滅を紀元前949年とした。そのため1052年に末法になるとした。なので平等院は1053 年に建てられている。また、空也は 948年に延暦寺に登り、後に京都に西光寺、六波羅蜜寺を建てる。金鼓を叩いて念仏を広めながら、民間布教 をした。その頃、慶滋保胤はもとは儒学者。出家して比叡山に入る。「日本往生極楽 記」は聖徳太子、行基など45人の往生者の伝記である。どうすれば極楽往生ができたのか、極楽でどう住んでいるのかを記しており、極楽へのあこがれを誘う本である。

また、源信は13歳で出家して比叡山に入り、44歳で「往生要集」を著す。3巻、10章。「厭離穢土」「欣求浄土」「極楽の証拠」「正修念仏」などで極楽への行き方を 記した。「往生要集」では、極楽に行くための臨終の床の場面が記される。

次に阿弥陀堂の建立があげられる。阿弥陀堂は死に場所として建てたものだ。阿弥陀堂の多くは敷地の西側に建て、東から西方極楽浄土にいる阿弥陀如来を拝む形をとっている。

また、平等院鳳凰堂は、頼通が60歳を迎えた翌年、道長にもらっ た宇治の別荘を寺として建てた。池に面して西側に建てられ、西方極楽浄土を拝む形になる。極楽に飛ぶ鳳凰をあしらう。全体の形も鳳凰の形だ。内陣内には雲中供養菩薩が飛び、音楽を奏でる。平等院鳳凰堂阿弥陀如来は2m79cmの大きなもの。唐風ではなく和様の仏像として画期的なものだ。寄木造の分業によって作られたものだという。一木で作るには材料がなくなっていたとされ、阿弥陀仏が貴族の手によってたくさん作られ、需要に応じるには分業が必要であった。寄木造は一木造りのように狂わないというメリットもある。その代わり、継ぎ目の部分が空いてくる。ここはトノコなどで埋める。(夏のSRの折に平等院へお邪魔させていただいた。それはそれは雅の世界であった。)

またその時代、御霊信仰も忘れてはならない。この世に恨みを残して死んだものは祟る。疫病をもたらす牛頭天王=祇園や落雷をもたらす天神=北野天神を祀る信仰にみえるものだ。(SR京都の歴史の中でも学んだ。)そこで、活躍するのは陰陽師、陰陽道は暦の信仰で中国から入る。暦は日読みで、日月5惑星の動きを示したものである。これらは陰陽五行と称したものだ。今の生活の中にもある七曜や六輝である。陰陽道では、陰陽2種の気によって天地間の事柄が生じ、五行の動きによって世の中の 吉凶が決まるとした。毎日位置が変わるので、毎日吉凶が変わってくる。六輝は六曜ともいい、大安、仏滅、友引、赤口、先勝、先負。時間によって吉凶が変わ るというものだ。

平安末期になると・中尊寺は奥州藤原氏がその本拠地である平泉に建てたもの。金色堂は屋根まで漆を塗って金箔を押している。清衡の建立。3代の遺体が3つの須弥檀 下に納められているので葬堂であるとされている。3つの壇ともに阿弥陀三尊を祀る。金銀螺鈿で装飾されている。清衡~秀衡までの3代の遺体がミイラ化していた。基衡のミイラは身長167㎝で、当時としては大柄で、血液型もわかる。泰衡のものと考えられる首も出たとある。

富貴寺大堂(阿弥陀堂)は大分県豊後高田市。

白水阿弥陀堂はいわき市。秀衡の妹が建てたものだ。

当時の美術関連として有名な聖衆来迎図は阿弥陀如来が25人の菩薩を連れて西方極楽浄土から迎えにくる様を描いている。死に際して掛けられたものとさわれている。山越の阿弥陀は山の向こうに阿弥陀が見えるというもの。

このあたりでは、かつてはオテント迎えの行事があり、本来は太陽にしたがって東に行き、西に行って沈む太陽を拝んだとある。

書道としては三蹟と言われる小野道風、藤原佐理、藤原行成がいた。

絵画は大和絵で絵巻物の発達し、詞書きと絵が交互に出てくる。四大絵巻が成立する。源氏物語絵巻、信貴山縁起絵巻、鳥獣戯画、伴大納言絵詞である。源氏物語絵巻はもともと何巻あったかはわからない。現在は56面が残っていて、徳川美術館と五島美術館に分蔵されている。徳川のものは巻数も多い。吹抜屋台、引目鈎鼻。わざとぼんやりした顔にすること で、見る者に感情移入をさせる。能面と同じ理屈。秋に一週間ぐらい公開される。

信貴山縁起絵巻は信貴山にいた修行僧・命蓮の物語。鉢を飛ばして托鉢をする。山崎長者はそれまでは食べ物を入れてやっていたが、面倒になって蔵の中に閉じこめた。鉢は蔵を持ち上げて飛び去ろうとする。蔵を持って 行かれた山崎長者は命蓮に泣きつく。米だけ返すことになり、一つを鉢にのせるとそれに続いて残りの米が列をなして飛んでいった。庶民の風俗が描かれていて 資料的価値が高いされている。

鳥獣戯画はサルが僧になって蛙の本尊を拝んだりしている。 詞書きがなくて絵だけのもの。

伴大納言絵詞は応天門の変を描く。異時同図法がよくわかる。

平家納経は装飾経として優秀であったとされ、本来、写経は白紙に墨書する ものだったが、これに装飾を施すようになる。33巻。平清盛が一門の繁栄を祈って厳島神社に納めたものだ。

扇面古写経は10帖。四天王寺など。浄土信仰に基づいて貴族社会で作られたもの。下絵は経文とは関係なく描かれている。庶民生活や伊勢物語などに題材をとっている。

そして、仮名文字の発達から女性の活躍も見られる。和歌は古今和歌集以後八代集、六歌仙の活躍がみられる。物語文学は源氏物語、竹取物語、伊勢物語。日記、随筆は枕草子、土佐日記、蜻蛉日記、更級日記。歴史文学は、栄花物語、大鏡。戦記物語は、将門記、陸奥話記。説話文学は、今昔物語。歌謡芸能(催馬楽、今様)梁 塵秘抄てある。特に後白河法皇は今様が好きで、その集大成をおこなっている。七五調4句の歌謡。

とみていくと文化に宗教が溶け込み、中心になり、華やかな雅の世界そのままに芸術が生きている。この頃から人は食らう、生きながらえる、戦うだけの原始的生活からはっきりと人としての情緒的部分が根付いた「文化」があった。宗教が根付いた理由は、生老病死への葛藤があったのだろうと推測できる。しかしながら庶民に余裕からの楽しむ文化が根付くのは江戸時代ではあるが


〈参考文献〉

「平安時代」を知る本〈2〉文化・芸術―国風文化の完成と仏教美術の展開 /日外アソシエーツ


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【心理学】設題

書籍:「心の理解を求めて」

著者:橋本 憲尚

主題:多数者への同調や権威者への服従はどのようになされるか解説しなさい。


多数者への同調はどのようになされるかについて述べていく。



テキストP171「多数者の同調」のところに「それぞれの集団には特有のルールや行動様式、価値観がある。」「なかには規範を受け入れないメンバーもいる。そうした逸脱者に対して、一致への圧力や集団からの排斥という形で、多数者の力が行使される。」とある。たしかに、多かれ少なかれ、集団の中にこのような現実や空気感があることは否めない。良くも悪くもこの価値観を共有して、溶け込めた、または溶け込めると思えるところがある。そのリーダーのメンバー への対応とリーダーとの相性もあるだろう。

「アッシュ(1951)は、多数者の意見が個人の判断を歪曲する。」実験を踏まえると「他のみんなが一致している中で自分だけ異なった意見を主張し続けることはかなり困難であろう。」とある。実験も物語るように、自分が間違っていると思う。よほど確信があることであれば、貫くことが出来ても、目で見ても、知らないことであれば、自分を疑ってしまう。その対応は難しい。

「多数者への同調の背後にある心理は一様ではない。」「自分に確信がもてないときに、他者を参考にして自分の意見や行動を変容することがある。」「判断が困難であり、確信がもちにくいときほど同調が起きやすい。」「人はまた力を感じるためにその人たちを模倣する結果として同調する場合もある。」「異質な者として孤立してしまう恐怖から多数者へ同調したり、嘲笑や避難を恐れて追従する場合もある。」「集団に所属することが自分にとって重要である(得をする、魅力がある、他に行き場がないなど)ほど同調は起きやすい。」とある。確かに得だと思えることがあれば、そうなる。孤独感が人を不安にさせる。あの人のそば、もしくは傘の下に入れば、安心、安全だと思える。難しすぎて自己判断は不可能だと思い、責任転嫁したい。など理由は多種多様だ。

集団でいじめをするような攻撃行動は、所属する集団の規範に同調する行動」とある。決まりを守れないものは悪だ、という意外と真面目さがそうさせることがある。グループ、集団の規律を守る為に動いて、成功をおさめているとしたら、なおさらだろう。人は時として、変化、変容を受け入れ、または嫌うところもある。変えてしまいそうな異分子のエネルギーを拒否したいという願望から行われることもある。しかしながらどちらにしても、人が人を傷つける行為はおきてはならないことだ。


次に権威者への服従はどのようになされるかについて述べていく。


テキストP174〜「権威者への服従」のところに「代理状態とは、人が自分自身を『他人の要望を遂行する代理人』とみなす状態である。」「代理状態になると、自分の行為に対する責任を感じなくなる。また、権威者による行為の意味づけを受け入れる。」「『権威者に従うこと』が守るべきモラルとなった」守るべきモラルを遂行するという旗印、しかも無責任になれる感覚。これにより、服従が始まる。また、威を借る狐的心情もあると思う。

ミルグラム実験は「一般の人たちにみられるという『悪の平凡さ』を示すものとして衝撃を与えた。」とある。また「仲間がいれば服従は劇的に減少した。」服従に対し、逆らう行為は、仲間がいれば出来るということだ。古くは、百姓一揆のようなことなのだろう。

3.「竹村・高木(1988)は、中学生を対象にした調査から、いじめを見て見ぬふりをしている傍観者が加害者や周りで面白がっている観衆にどう反応するかで、いじめが助長されるか抑止されるかが左右される可能性を指摘している。多数者に対しても権威者に対してもたとえ少数であっても仲間とともに抵抗すれば影響力を発揮できるという知見を生かすことはできないものだろうか。」とある。ここにいじめを防ぐ手立てが詰まっている。こういった心理の流れをレクチャーするべきだ。


この課題を通してみつけた危惧

1.価値観共有を得られるものと得られないものとの差がある弊害。

価値観は千差万別。共感性の低い者は、中々共有できにくい。学校であれ、仕事であれ、知らん顔をするわけには行かず、団体行動を強いられる。団体行動が苦手な者もおり、そこに軋轢が生まれる。自分の行動に自信が持てる間は、上手くかいくぐれる。しかし、幼稚園〜高校生までの長きに渡り、置かれる立場、状況を考えるとそうもいかない。そこで、多数決に屈することを覚えねばならないのだ。個性という名の厄介な宝物だ。個性を重んじる学社も増えてきているようなので今後に期待する。

2.自己評価の低さからくる自信が持てないという弊害。

文字通り自分への信頼度が低い者がいる。残念なことだが、現実だ。多くは環境によるものが多く感じる。選択の余地のない環境をどう生き、自分の立ち位置を確立して行くかが、大切だ。

3.欲をかくときに生まれる弊害。

人の欲とは、際限がない。一つ得られるとまた一つと動いてしまう。貪欲さを持つことから多く見られる、やる気だけではない得をしたい、得になるならという思い。この根底には、自信の欠如から来る不安解消の可能性がある。欲は多少あった方が良いが、足るを知ることも大切だ。

4.責任逃れからくる責任転嫁の弊害。

みんなで渡れば怖くない。に表される集団心理。言い出しっぺにならないよう空気を読む。自信のなさからくるのだろう。自信が持てる何かを持つことですべてのスキルが上がる。

5.変容からくる恐怖心の弊害。

いままでうまく流れていたのを変えられてしまう恐怖。もっと効率的にもっと合理的になるだろうことはわかっていても失敗の恐れから変えられない。想像力の欠如も考えられる。良いイメージをつくり、恐怖心を取り除き、挑戦する勇気を持つ。

6.皆がやるから安心という集団心理から来る無責任感の弊害。

知らないふりをする、みんなが右に流れたから自分の意思とは別に右に流れる。自分発信ではないから何か起きても自分は責任を取らなくてすむ。そんな考えの中、次におきるのは罪の意識か、後悔か。自分の意見が言えるようになれば、人としての対応力が上がると思う。

7.真面目さ、規律正しさから来る善悪の判断基準のブレの弊害。

真面目さ、正しさばかりに目をやり、本来のあるべき姿を忘れてしまう規律はいかがなものか。頭を硬くせず、柔軟対応に変えることが重要。


心理学は学問であるが、教育学などと合体して、一般常識としてもっとひろまることが望ましい。心理構造がわかれば、集団心理の解明や心の有り様に役立つ。とはいえ、心理学を知らないとした人が少なくなり、教育者も学んでいながら、それでもいじめ、服従などは消滅することはなく、今日もどこかには存在している。いじめ、服従がそこまで、みなを無感覚にしている理由は、保身が正義の条件を無視しているからなのではないか。保身が悪いことではないが、無感覚になるほど、追い込んでいることが、逆に苦しみを生むように思える。


つまり同調、服従は、集団心理が他者への無感覚を生み、悪を享受することになり、過剰な保身が、人の弱さを最大にした心理状態なのである。ここを打破するには、一人一人が、学びの意識を持ち、必要とあらば心理学の学びを取り入れたい。その環境をつくるには、心理学の社会的認知と正しい評価が必須なのかもしれない。


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2022年10月23日日曜日

挑戦〆リポート〆⑸



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【心理学】設題1

書籍:「心の理解を求めて」

著者:橋本 憲尚

主題:アタッチメント理論について解説しなさい。


アタッチメント理論について述べていく。


「アタッチメント」とは愛着と呼ばれる母子間の永続的な情緒的結びつきの「絆」を表している。

その「アタッチメント」をフロイト、ハーロウ、ボウルビィが語っている。

フロイトは最初に母子関係を重要視したと前置きがあり「乳児は口唇を通じて母乳を吸うことに快感をおぼえ、その快感を与えてくれる母親に愛情を感じるようになる」とある。口唇からくる肌感覚の情報をアタッチメントとしたのだ。もちろん命を育む行為でもある。

ハーロウはフロイトの論述に対して異論を述べている。子猿の実験を通し「授乳そのものによって愛情が育まれるのではなく、授乳の際のスキンシップにともなう快感が重要であるという結論(接触満足節)を導き出した。」とある。やはり、ハーロウもフロイトと同じく、肌感覚からの安心感、五感を中心にアタッチメントとしたのだ。

ボウルビィはここでの課題、アタッチメントそのものを論述している。ボウルビィいわく「母子間の絆は両者の間でアタッチメント(愛着)と呼ばれる永続的結びつきが形成されることによって築かれると考えた。」とある。両者、絆、愛着、永続的結びつき、築かれるの文言で表しており、心を重視した論述になっている。「生みの親より育ての親」が思い出される。

そしてまた、ボウルビィはこうも語っている「養育者を安全基地として周囲の世界を探索しようとする乳児の主体的な活動によると考えた」とある。タイミングよく声かけして、希望、願望を叶えてくれる母親は、乳児からすると最高の存在なのだと思える。

テキストP243にある「エリクソンの発達段階」には乳児期の好ましい結果の項に「環境および将来の出来事に対する信頼」とある。

関連している文章としてP247にある「養育者を安全地帯として周囲の世界を探索しようとする乳幼児の主体的活動による」とある。母親も含め、乳児の環境が大切なのである。

また、各論述から「アタッチメント理論」となるとアタッチメントの形成から見ていく必要があるのではないか。形成の時期はいつからなのかなどわかっていることで検証を進めたい。そんな中、

記述の中に「アタッチメントの形成は胎児期から始まっている。」(中原1983)とある。やはり早い時期からアタッチメントは形成されているのだ。ということは発達の過程を通して、アタッチメント理論を論述する必要がある。この論述でいくと胎教はやはり子育てにとって有効な手段なのかもしれない。30数年以前にはそのことが理解されていたのだ。かく言う自分も30数年前に妊娠、出産、子育てをしている。思い返せば、胎教胎教と胎教ブームだったのが蘇る。お腹に声をかけたり、音楽を流しながら、妊婦生活をしていた。現実に体験することができた女性は、皆、実感しているはず。

テキストP244にある「ピアジェの発達段階」02歳をみると「環境とのかかわりの中でシュマを獲得していく。」とある。シュマとは「ものごとの単純化されたイメージ」とのこと。母子ともに環境が重要なのだ。

関連している文章として「新生児には、環境に働きかけるための反射機能として吸啜反射が備わっている。」とある。環境に対応するために、反射機能(意識することなくても出来る)が、生命維持への安全機能として備わっているのだ。

テキストp250にある「健全なアタッチメントの形成には、特に母親が①子どもの活動に対して敏感に反応すること、②一定量以上の相互作用があること、③子どもとの相互作用を喜びをもって行うことが重要であると述べている」とある(繁多1987)こういったことを意識的に母親ができれば一番いいのだろう。環境が整えば、可能なのかもしれないか、このモチベーションを母親に要求するのは、難しく感じる。

また、テキストP247の「乳児の個性」には扱いやすい子と扱いにくい子のアタッチメントの質の違いの理由が述べられている。あくまでも親から見てだろうが「扱いやすい子どもは、母親の働きかけに敏感に反応し母親に養育する喜びを与えるため、質のよいアタッチメントが形成されやすい。しかし、扱いにくい子どもは、母親に育児に対する否定的イメージや育児不安を感じさせやすく、アタッチメントの形成を阻害することが多い。」とある。 母子の相性が大切だということなのかもしれない。母親としての愛情はあるものの合わない母子もいるのが現実だ。乳児とはいえ生まれたからには、もう一個人としての個性があって当たり前だ。教育学でも学んだ、家庭教育の重要性と重なる。

テキストP248にある「心の絆を育むー乳児期の母子相互作用」ここにアタッチメントの大元が詰まっている。ポイントとして「相互作用がスムーズに展開していくためには、母親の応答性、乳児の内的状態や信号を敏感にとらえ、タイミングよく適切に対応することが鍵となる。」とある。理想論かもしれないが、健全な社会を築くためにもこのように心がけ、守って育てていくのが、大人たちのするべきことのひとつなのだ。


アタッチメント理論は母子相互作用から生まれる一体感であり、愛着心が心の絆を育むのだと理解した。子どもの健全な育成において、重要かつ必要不可欠なのだ。そして、乳児期においても胎児のときからも、大切な相互作用なのだ。その相互作用は、かなり長い間、成長に影響を与え、その子どもに良きも悪しきも作用することがわかっている。

経験上、たしかに悩み相談の一つに親子関係の問題が多く見られる。色々な悩み、迷い、問題もルーツをたどると親子関係から来ている事例が多くある。

アタッチメント論を学ぶことは、知ることは子を持つ側の親の知識として重要な位置を占める。となると、どの時点で知ること、学ぶことがよいのだろうか。やはり、学ぶのであれば、高校生の時期が良いのかもしれない。悩み、迷いが生まれる時期でもあり、そんな時期に親になる教えを受け、親の存在を再認識し、自身も備える。中には苦労人の高校生もいるが、普通の高校生は、高校生として、社会参加を意識するためにも必要だ。子どもたちの未来のために。

しかしながら、学んだ、知った、母子だからといっても、必ずしも、スムーズにアタッチメントが、得られるわけではない。前述のように、子の個性と母親の人格特性の適合が問題だ。もちろん、良いほど、スムーズであるといえる。また、2人を取り巻く環境や周囲との関係により、左右される。そして、母親の育児期時点のメンタルも関係してくる。子ども自身の良いところを伸ばすためにも、母親が落ち着いた環境で子育てが出来るよう、社会が周囲がサポート出来れば素晴らしい。


つまり、アタッチメント理論は母子が本来の意味の親子になるための重要な絆の一つだといえる。その道は色々と整備しなければならない難しい事情もあるが、子どもたちのためにも遂行したいものだ。

子の成長、母親の人間性の成長に多大なる影響を及ぼすのが、このアタッチメントなのである。ということは個性や人格特性を理解し、育児にあたることができればどうなのだろう。どの母親も無力感を抱くことなく、子もスムーズな成長を得られるのではないか。理解するためのツールは、ちまたに溢れている。大人は、子の為に良きツールを学んでもらいたい。


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2022年10月22日土曜日

挑戦〆リポート〆⑷



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【日本の歴史】設題


書籍名「概論 日本歴史」

編者:佐々木潤之介、佐藤 信、中島三千男、藤田 覚、外園豊基、渡辺隆喜

主題:初期議会から日清戦後にかけての政党について


1870年代からスタートした自由民権運動。

1890年の第一議会から日清戦争直前の第六議会までを初期議会と呼ぶ。

初期議会と呼ばれる第一議会時の内閣総理大臣は山縣有朋である。最初の内閣総理大臣は、伊藤博文。憲法発布時の内閣総理大臣は、黒田清隆。そして、第一議会の内閣総理大臣は山縣有朋である。

初期議会の特徴として、超然主義の富国強兵を推進する藩閥政府と議席で過半数を占める民党との戦いがあった。藩閥政府政党の動向には左右されないと超然主義を取り、かつ朝鮮の利権に興味があり、膨大な軍事費を使いたいとの思いが見える。

それに対して、民党の立憲民進党や立憲改進党は議会の過半数を占めて、この時期に戦争を起こすのには反対、経費削減が中心スタンスだった。それにより対立構図が出来上がっていった。

衆議院の構成は、300議席中、立憲自由党が第一党130議席、立憲改進党も40議席で、民党が過半数を占めていた。

松方正義を首相とする第二議会も、予算案を巡って対立。海軍大臣樺山資紀の蛮勇演説で紛糾し、議会は解散、第二回総選挙となった。この時、内務大臣品川弥二郎による流血の大選挙干渉があった。しかし、結果は民党が過半数を占め、選挙干渉の責任問題で、議会運営の見通しの立たない松方内閣は第三議会終了後、総辞職

した。松方辞職の後、伊藤博文は山県有朋に、総理を打診したが、山県は拒否。そこで伊藤は自らが内閣を組織、第2次伊藤内閣となる。

第2次伊藤内閣のもと、第四議会では、自由党が内閣に接近して、与党化した。また、予算案で紛糾する議会に対して、和衷協同の詔=天皇の建艦詔勅が出され、予算案は通過した。これ以後、民党は政府との対決の手段を、予算審議から条約改正問題へ移すこととなる。

第五議会では、与党化した自由党に対して、民党である立憲改進党に、品川弥二郎の率いる国民協会が接近した。品川は先の選挙干渉の責任をとる形で、政府を出されていた。品川にしてみれば、噴飯やるかたない思いであったろう。自分の選挙干渉のおかげで当選した議員たちに、立憲改進党とともに、政府攻撃をさせた。これを対外硬派連合という。この攻撃に対し、政府は議会を解散。第六議会は、開始とともに内閣弾劾上奏案可決、内閣は議会を解散、泥沼化かと思われた。ところが、この年、日清戦争が始まる。大本営のおかれた広島で、開かれた第七議会は、満場一致で戦費予算を承認。ここに内閣と議会の全面対決は終了した。

日清戦争に目を向けると日清戦争は、政府と政党との関係に大きな変化をもたらした戦争であった。戦争中、政府と政党は政争を一時中止して挙国一致で戦争遂行にあたったが、

戦後になると、政府と衆議院の第一党である自由党は戦後経営をめぐって共同歩調をとり、1895(明治28)年11月、両者は公然と提携を宣言し、軍備拡張などを盛り込んだ予算案を認めた。そして、翌年4月には板垣退助が内務大臣として第2次伊藤内閣に入閣した。これより、同内閣は事実上、自由党との連立内閣となった。また、この年に伊藤内閣のあとを受けて成立した第2次松方内閣は、進歩党と提携して、大隈重信が外相となった。こうした藩閥と政党との連立内閣の出現を通じて、政党はしだいに勢力を伸長していった。1898(明治31)年には、第3次伊藤内閣は、戦後経営のための恒常的な財源を確保するため、地租増徴案を議会に提出したが、自由党と進歩党はともにこれに反対し、同案は否決された。衆議院は解散されたが、同年6月、自由党と進歩党は合同して憲政党を結成し、来るべき総選挙で衆議院の絶対多数を制する形勢となった。その結果、伊藤内閣は退陣し、伊藤はじめ元老たちの推薦を受けた大隈重信と板垣退助が組閣を命ぜられ、大隈を首相とし憲政党を与党とする日本で最初の政党内閣を組織するにいたった。このいわゆる隈板内閣は、首相大隈·内相板垣以下、陸相・海相以外はすべて憲政党員からなっていた。しかし、憲政党は同年8月の総選挙で衆議院の絶対多数を占めたにもかかわらず、自由党系と進歩党系の対立が激しく、文相尾崎行雄が共和演説 を非難されて辞職に追い込まれた。結局、旧自由党系の星亨が暗躍して憲政党を解党させたために同内閣はわずか4カ月余りの短命に終わった。尾崎が帝国教育会で道議高揚を説く演説をしたとき、「もし日本が共和制となれば三井・三菱らは大統領になるだろう」と日本の拝金主義を戒めたのが逆用され、旧自由党系や天皇側近の間から天皇に対する不敬の言動として攻撃され、辞職に追い込まれた。このとき、旧自由党系は新しく憲政党を結成し、旧進歩党系は憲政本党をつくった。あとを継いだ第2次山県内閣は、いったん憲政党と手を結んで、1898(明治31)年、地租増徴案を成立させ、地租率を地価の3.3%に引き上げた。山県内閣は、その後、政党の力をおさえるため、1899(明冶32)年には文官任用令を改正して政党員が官吏になる道を制限し、翌1900年には軍部大臣は現役の大将・中将に限る軍部大臣現役武官制を確立し、また治安警察法をつくつて社会、労働運動を規制するなどの政策をとった。

しかし、超然主義がもはや不可能であることは明らかであった。懸案となっていた衆議院議員選挙法の改正が山県内閣のもとで1900(明治33)年に行われ、選挙権については直接国税の制限額は10円以上に引き下げられて有権者は倍増し、被選挙権における納税額による制限は撤廃されるなど、国民の参政権が拡大されたのである。投票方法も無記名秘密投票制が採用された。このような情勢のなかで、憲政党は文官任用令改正問題で対立を深めていた山県内閣との提携をやめ、伊藤博文に接近し、伊藤も自ら積極的に政党結成に乗り出した。こうして星亨らの指導により憲政党は解党し、伊藤を総裁に擁立して、1900(明治33)年9月立憲政友会が結成された。立憲政友会、初代総裁は伊藤博文、幹部は西園寺公望(18491940)·星亨・松田正久(18451914)・片岡健吉・尾崎行雄·原敬(18561921)・大岡育造(18561928)らであった。かつて自由民権派として活躍した旧自由党系政治家や伊藤系の官僚が中心メンバーとなったが、伊藤は結党にあたって広く実業家・地方議員などにも入党を呼びかけ、また地主層などに多くの支持者を得た。1902(明治35)年の総選挙では190名の代議士を衆議院に送り込んで、過半数を制した(衆議院の定数は376名)。しかし、山県有朋は伊藤の立憲政友

会結成に批判的立場をとり、山県系の官僚やその影響下にあった貴族院議員などは立憲政友会に参加せず、貴族院は立憲政友会と伊藤内閣の反対勢力の拠点となった。

立憲政友会を基礎として190010月に成立した第4次伊藤内閣は半年余りで終わったが、これを機に伊藤・山県らは第一線を退き、元老として内閣の背後から政治を動かすようになった。そして、1901(明治34)年の第1次桂内閣成立以後、山県を後ろ盾に藩閥·官僚勢力に基礎をおく桂太郎(18471913)と、伊藤のあとを継いだ立憲政友会総裁西園寺公望が、交代して内閣を組織する、いわゆる桂園時代が始まった。

このように、帝国議会開設以来10年ほどで立憲政治は定着し、明治憲法体制下に大きな地位と勢力を占め、日本における政党政治発展の基礎が築かれることになった。憲法制定に際して日本が多くを学んだドイツでは、議会の多数党が政権をとることはなかった。

日本の場合、憲法の運用がドイツとはかなり違っていたことがわかる。


〈参考文献〉

詳説日本史研究/山川出版社


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート

2022年10月18日火曜日

挑戦〆リポート〆⑶



挑戦〆リポート〆⑶


【日本の歴史】設題

書籍名「概論 日本歴史」

編者:佐々木潤之介、佐藤 信、中島三千男、藤田 覚、外園豊基、渡辺隆喜


主題:鎌倉幕府と執権政治について


まずは設問1.をうけて、〈執権〉を調べてみた。「執権は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け、政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。」とある。鎌倉幕府独自の職だったのだ。

「執権職は北条氏が独占し、世襲した。当初から大きな勢力を持っていたが、三代将軍源実朝暗殺後はほとんど幕府の実権を掌握し、政務を執った。しかしながら将軍職は公家や皇族を京から迎える形で名目的存在としてあり、北条氏は形式的服従を貫いていた。」北条氏の権力はこうして、定着していったのかと過程が解った。

「北条氏の嫡流は『得宗家』と称され、得宗家の当主またはその後継者が幼少の時には北条氏の庶流から執権が任じられた。元弘の乱の最終段階(鎌倉の戦い・東勝寺合戦)において、13代基時・14代高時(得宗家)・15代貞顕・16守時の4名の執権(及び経験者)が鎌倉幕府とともに滅ぼされることになった。初代の『執権』は、1203年(建仁3年)に北条時政が外孫である3代将軍源実朝を擁立した際に政所別当とともに合わせて任じられたのが最初とされている(異説として、初代政所別当である大江広元を初代執権とする説もあるが少数説である。また後述のように北条泰時の時代に初めて登場した説もある)。時政の就任以来、北条氏の権力確立の足場となる。2代執権の北条義時が侍所の別当を兼ねてからは、事実上、幕府の最高の職となった。基本的に鎌倉幕府は、鎌倉殿と御家人の主従関係で成り立っており、北条氏も御家人のひとつに過ぎなかった。」御家人の立場から執権職という地位までに登っていった北条時政の人物像はいかなるものか。

時政は平家ゆかりのものであるが、頼朝の見張り役になったことで頼朝の舅となる。鉢田の戦い、富士川の戦いに挙兵した。その後は御家人としての時政がいた。亀の前事件で空白の期間があるものの治承・寿永の乱が終結した際、政治力により、京都守護の立場得て、手腕を発揮する。七ヶ国地頭を譲り、駿河守護として活動していた。しかし、義時との対立を深め、時政と政子・義時らの政治的対立も背景にあったからと推測され、以後の時政は二度と表舞台に立つことなく政治生命を終えた。

その後「源氏将軍が3代の源実朝で途絶えてからは、摂関家、皇族から名目上の鎌倉殿を迎え、その下で執権が幕府の事実上の最高責任者となる体制となった。しかし、政敵となる有力御家人を次々と滅ぼし、また執権以外の幕府の要職の多くを北条氏が独占していくにつれて、御家人の第一人者に過ぎなかった北条氏の実質的権力は、漸次増大していった。」とある。

「摂家将軍・宮将軍の下では幕府で行われる訴訟の裁決は、将軍による下文ではなく執権による下知状によって行われることになり、執権が幕府における訴訟の最高責任者となって将軍は訴訟の場から排除される事になるが、これは単なる執権の権力の拡大ではなく鎌倉幕府を維持する上で必要性があったとする見方がある。この考えによれば、御恩と奉公の論理によって支えられていた鎌倉幕府において、将軍は御恩の一環として御家人の所領を安堵して彼らを 保護する義務を負っていたが、御家人同士の所領争いの裁決を下す事で敗れた御家人に対する保護義務を反故にしたと受け取られ、将軍と訴訟に敗れた御家人との主従関係を破綻させる可能性を秘めていた。そのため、所領を安堵する将軍とは別に同じ御家人である執権が訴訟の裁許を行うことで、御家人同士の所領争いにおいて将軍と御家人における御恩と奉公の関係を壊すことなく公正な訴訟が執り行われることになり、幕府の訴訟制度の確立につながったとする。」とある。

「執権による公正な訴訟は御家人にとっても望ましいものであった。また、合議制の訴訟制度の確立の過程で、かつ将軍の後見人(「軍営御後見」)でもあった北条泰時が、評定衆を取りまとめて将軍の代わりに裁決を行う役目として兼ねた職が執権の始まりで、時政・義時を執権としたのは過去の政所別当・軍営御後見を遡って「執権」と記した『吾妻鏡』の記述に由来とする説もある。やがて、北条氏の権力が増大するにつれて、幕府の公的地位である執権よりも、北条一門の惣領に過ぎない得宗に実際の権力が移動していく事になる。6代執権の長時の時代に、出家した執権の座を譲った得宗である時頼が依然として幕府内の権力を保持し続けた事が、得宗への権力移動の端緒となる。これ以降、得宗と執権が分離し、実際の権力は得宗が持つようになり、執権は名目上の地位となった。さらに、9代北条貞時が幼くして得宗と執権の両方を継承すると、得宗家に仕える御内人が貞時の補佐を名目として幕府の政治に関与するようになり、北条高時の時代になると、北条家の執事とも言うべき内管領の長崎氏が権力を握るようになった。」とある。この頃には部下までも権力を持ったのだ。

「近代になって龍粛が1922年(大正11年)に著した『尼将軍政子』の中で源実朝没後に執権が鎌倉幕府の実権を掌握してからの体制を執権政治と表現して以後、この語が広く用いられるようになった。ただし、近年では実朝の死後は北条政子が『尼将軍』として実権を掌握しており、執権政治への移行は政子の死後であるとする見方が出されている他、執権政治を2つに分けて8代北条時宗の急死後、幼少の9代北条貞時が幼くして得宗と執権をともに引き継いでからの体制を得宗専制と呼んで、それ以前の執権政治と分ける区分方法も行われている。」

〈執権職一覧〉

北条時政から始まり、北条義時、泰時、経時、時頼、長時、政村、時宗。

貞時、師時、宗宣、煕時、基時、高時、貞顕、守時。

さて、ここに得宗専制という制度が出てきた。執権とは何が違うのか?

簡単に言えば、北条一族の執権が御家人である評定衆をまとめるのが執権政治。執権は将軍を補佐する役割で幕府の役職。執権は代々北条氏が世襲。

「得宗は北条一門の嫡流(家督を継承する系統、人物)のこととなり、初代執権北条時政から5代時頼までは北条一門の得宗が執権に就任したので、得宗=執権という関係になるが、6代執権長時以降は得宗が執権にならないケースも出てきた。北条氏は他の有力御家人を次々滅ぼし5代時頼の時代に宝治合戦で三浦氏を滅亡させ、北条氏に対抗できる勢力がいなくなった。執権や連署、評定衆、引付衆、侍所、政所、問注所、六波羅探題など幕府の要職を北条一門が占めるようになると、一門をまとめる得宗の発言力が増大。評定衆による合議制は形骸化し、将軍を補佐する執権の重要性が薄れたことで、得宗が執権に就任する必要性がなくなった。得宗に権力が集中したことで、得宗と側近が幕府の政策を決定する得宗専制政治へと移行していった。」ということは嫡流である得宗家が御内人と共に幕府を牛耳る体制が得宗専制なのだ。

現代政治の世界もともすると世襲制は非難されたりもする。そこまで悪しき制度とは思わぬが、この頃も人の欲がむき出しになっていたことが伺える。そのような行いはいかがなものだろうと疑問は出る。とにかく、将軍を祭り上げ、政治は自分達で行っていたということだ。

しかしながら現在の政治の和製的礎を築いた時代であることは間違いない。そして、鎌倉幕府が滅びるまで、北条方が幕府の実権を握っていたのだ。


〈参考文献〉

橋本義彦「執権 ()」(『国史大辞典 6』(吉川弘文館、1985年) 

上横手雅敬「執権 ()/「執権政治」(『国史大辞典 6』(吉川弘文館、1985年)

五味文彦「執権」/「執権政治」(『日本歴史大事典 2』(小学館、2000年) 


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2022年10月17日月曜日

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【考古学】設題2

書籍名:「旅する考古学」

著者:門田 誠一

主題:考古学資料からみた精神生活(信仰、儀礼、祭祀、習俗など)について具体的に論述せよ。


設題2にフォーカスして、資料であるテキストを通読すると小牧野遺跡、伊勢堂岱遺跡、相島積石塚群、落川遺跡などなど、初めて目にする名前ばかりであったが、その中でもテキストP109に小牧野遺跡の記述に目が止まり調べてみた。「小牧野遺跡(こまきのいせき)は、青森県青森市にある縄文時代後期前半の遺跡。所在地は青森市野沢字小牧野。三内丸山遺跡の南に位置する。1995年(平成7年)317日に国の史跡に指定された。」(ウキペディア調べ)とあった。その中に記載ある環状列石を調べてみると「環状石籬ともいう。巨石記念物の一つで,自然石を環状に並べたもの。ヨーロッパでは新石器時代から鉄器時代にかけてのものが多くみられ,著名なものとしてイギリスのストーンヘンジがある。太陽崇拝に関係ある祭祀遺跡ともいわれ,また墳墓に関係するものもあるといわれる。日本では直径1030mの円形に立石を並べてあるものから,直径12mの小さいものまでを含めている。北海道の忍路環状石籬,秋田の大湯環状列石は有名。年代は明らかではないが,発見される遺物から判断すると,縄文時代後期あるいはその流れをくむ文化の所産であろうと思われる。」(ブリタニカ百科事典調べ)いわゆるストーンサークルなのだ。テキストp110111にあるように、縄文時代の祭祀の場として存在し、精神生活に関わっていたことがわかる。

また、p114から始まるクマへの信仰の章を読み、浮かんだのがコミックやアニメになっている「ゴールデンカムイ」だ。カムイはアイヌ語で神格を有する高位の霊的存在のこと。『ゴールデンカムイ』は、野田サトル氏による日本の漫画。明治時代末期の北海道・樺太を舞台にした作品。このストーリーの中でアイヌ(民族)が描かれている。アイヌの人々がクマを特別扱いする場面が見られる。そこでカムイ()を調べるとクマへの信仰の記述があった「ヒグマがアイヌの狩りにより捕らえられたとき、それをアイヌは『キムン・カムイが毛皮と肉を持って自分たちのもとにやってきてくれた』と解釈する。アイヌは、キムン・カムイから毛皮や肉など、利用できるものを利用させてもらい、またカムイに感謝してカムイノミ(カムイ送りの儀式)を行って還ってもらう。」(ウキペディア調べ)とあった。やはり、精神生活に関わっていることが垣間見れる。元々原住民であるアイヌの生活の中のカムイは他の多くの宗教の「神」とは違い、人間と対等に並び立つ存在とされていて、アイヌの世界は人間とカムイがお互いを支えあうことで成り立っていると考え、カムイをカムイ・モシリへ返還したり、カムイを新しく作るのは、人間が主導権を握っていると考えるのだ。独特の考えに見えるが、アイヌ民族の伝統的信仰は日本神道に近いとする説もあり、その場合多神教に分類される。日本語の「カミ」と同様、「霊」や「自然」と表現してもおかしくない(キリスト教の神のような唯一絶対の存在ではない)。日本神道の「八百万の神」も、アイヌの信仰文化と同様の「アニミズム」の特徴

があるという説もある。

そして次の章の離島の積石塚も興味深い。積石塚を調べてみた。「積石塚とは、土の代りに石を積んで墳丘を造った墳墓をいう。石を用いるのは,礫石が入手しやすく,凍結期にもつくりやすいなどの理由によるものと思われる。世界各地に分布するが,特に北ヨーロッパのバルト海周辺からロシア,シベリア,モンゴルに多い。また中国,朝鮮の石器時代から金属器時代初期の墳墓にもみられ,日本では,香川県石清尾山,長崎県対馬,長野県須坂市大室の古墳群などの積石塚がよく知られている。」(ブリタニカ百科事典調べ)とある。積石塚自体、アジア、ヨーロッパともに寒い地域が多く見られるのに対し、日本では温暖地に見られるにはなぜなのか?と疑問を持った。ジーコンボ古墳にあるような交易民説、西日本の島々にある風葬説などがあるようだ。風葬にフォーカスして調べてみると日本だけではなく、温暖地に多く見られるようだ。「風葬とは、故人のご遺体を自然の中に安置し、そこで風など自然の営みに任せる形で風化させるという供養方法です。俗な言い方をすれば、吹きさらしのところで自然任せにご遺体を葬るということになります。風葬が行われる主な場所として樹木の上や崖、洞窟の中などが選ばれ、世界各地で行われています。」と葬儀社の中の終活ネットに記述があった。沖縄の風葬が、詳しく取り上げられており「洗骨という風葬の一過程について見ていきましょう。

洗骨とは沖縄の風葬独特の風習であるとともに、風葬の中でも重要なプロセスとされています。沖縄では、風葬で骨だけになった故人のご遺体はそのままの状態では穢れているため、神仏の前に出られない存在と考えられていました。そこで、洗骨という段階が必要となります。この洗骨という行程では、ご遺体を一度棺に納めて風化するのを待ちます。そして、風化した頃合いに取り出して、親族の女性の手によって海水などでご遺骨を洗い、あらためて骨壷(厨子甕)に入れて弔います。洗骨は戦前まで存在していましたが、戦後になって女性解放運動や保健所の指導によって消滅し、現在ではあまり見られなくなりました。」と締めくくられている。沖縄文化は独特だとしても、暑い地域の土葬はどこも衛生上よろしくない。そこで風にさらされることで、湿気や匂いが抑えられ、骨化することを早め、地域を守ったのではと考えられる。そこにはもちろん精神生活が当たり前のようにあったのだ。

信仰という言葉がしっくりときたのは、テキストp136から始まる章であった。そこは私が住む地域でもあり、当初、想像がつきにくいからこそ、逆に精神生活と古代の息吹を感じられる遺跡に驚きがあり、興味をもったのかもしれない。関東の古代文字文化の存在をしり、年号がわかり、墨書土器なるものの存在を知り得た。しかも千葉の公津原遺跡群(成田市)の中の加良部遺跡から出土したものには、忍保寺、新寺、大寺など寺院名と見られる墨書や仏に供えた器であることが 示されていて、仏堂(堀立柱建築)の存在が遺跡にあったのだ。また、現在のルーツのような仏教施設もあったことが記述されている。三宝に繋がる様々な文献資料や遺跡からの出土物が物語っている。まさにここに民衆信仰があったことを我々に伝えてくれているのだ。

三宝とは「仏教の用語。サンスクリット語のトリーニ・ラトナーニ、トリ・ラトナtri-ratnaまたはラトナ・トラヤratna-trayaの訳であり、「三種の宝」の意。仏(ブッダBuddha)と法(ダルマDharma)と僧(サンガSamgha)の三つをいう。この三つは仏教徒が尊崇すべき基本であるので、世の宝に譬(たと)えて三宝と称する。仏宝とは悟りを開いた人で仏教の教主を、法宝とはその仏の教えで真実の理法を、僧宝とは仏の教えのもとで修行する出家者の和合の教団をさす。古く原始仏教において、仏教を構成する根本的要素と考えられ、後代には三宝の見方について種々な解釈が行われた。三宝はそれぞれ別異なものであるとみなす説(別相(べっそう)三宝)、本質的に同一であるとみなす説(一体三宝)、あるいは仏像と経巻と出家者は仏教を維持し伝えていく意味での三宝であるとみなす説(住持(じゅうじ)三宝)などがある。三宝は仏教のあるところかならず存在し、三宝に帰依(きえ)すること(三帰依または三帰という)は仏教への入信の最初の要件とされる。[藤田宏達]」日本大百科全書より。ここに原始仏教の姿がとらえられる。

その原始仏教(根本仏教)・・・紀元前4世紀(または5世紀)⇒ スリランカに原始仏教伝来・・・紀元前3世紀

部派仏教(アビダルマ)・・・紀元前3世紀頃(仏滅後100年後)

初期大乗仏教(中観)・・・紀元前1世紀(仏滅後約300年後)

 中国に仏教伝来が始まる・・・1世紀

中期大乗仏教(如来蔵・唯識)・・・3世紀(仏滅後約700年後)

 中国を経由して日本に仏教伝来・・・6世紀

後期大乗仏教(密教)・・・7世紀(仏滅後約1100年後)

その後、仏教消滅・・・5世紀からのインドでの仏教弾圧、13世紀のイスラム侵攻により滅亡(仏滅後約1700年後)したとある。(仏教の教え〜原始仏教の世界より)

精神生活の切り口からでも、考古学は国や地域を越えた広がりをもつ、研究分野であることが理解できた。

 

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2022年10月16日日曜日

挑戦〆リポート〆⑴

【暁の挑戦】2018


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【考古学】設題

書籍名:「旅する考古学」

著者:門田 誠一

主題考古学資料からみた「もの」(物質やその背景となる文化なども含む)や技術の移動と広がりについて具体例をあげて述べよ。


考古学は人間が地中に残した資料であり、痕跡だとこの学習を通じて知った。

歴史に関わっている奥深い学問だとっていたが、あまりにも不理解な部分が多かったのだと知ることになった。そこで、設題1を主題に、ものや技術の流通観点から考古学をみていくと古代の人々の鼓動や生き様、生活が映像化されて入ってくる。文中から臨場感が伝わり、思いをはせることが出来る。そこで現実に立ち返り、テキストの中にあった具体例をあげて書き進めていく。

ものといえば印象的であったのが、礼文島の船泊遺跡から平貝やイモ貝で作られた装飾品が出土したことである。礼文島は日本列島最北の島である。南の暖かい海に生息している貝が運ばれて来たということだ。南の島の貝がである。献上品なのか、交易品として、遠く離れた北の地にひとの手から手へと運ばれたのだ。

また、ヒスイ製の装飾品も出土したとある。1700キロ離れた糸魚川周辺から利尻島に運ばれたのだ。そのような距離をものともせず交流が行われたということだ。また、初めて目にする「天然アスファルト」というものも出土している。勉強不足であったが、黒曜石製のアスファルトを生活の中で活用していたことも知った。秋田県や新潟県産のものもあるのに、近いという理由で国内ではなくサハリン産のものが使われていたことが判明している。ユーラシア北方地域との交流を示しているのだ。飛行機もなく、鉄道整備もない縄文時代に盛んに交易していたのだ。便利な現代から見ても遠い距離である。そんな現実を目の当たりにすると我々としても驚きを隠せない。そして、他にも交易品としてあらゆる地域のものが集まって来ていたのだ。

技術の移動と広がりの具体例として、遊牧民の造った白い城壁をまず、取り上げたい。テキストp176に記述してある。約1500年前に遊牧民の系統の支配者によって造られた城の跡とのことだ。そこでひとつ疑問が出る遊牧民が城を造る時代、文化があったのかと驚きがあった。遊牧民と言えば、居を構えないことが遊牧民のはずである。結びのページにその疑問を解決に導く内容が解説されていた。「現地に足を運ぶのが、最も大切なことだ。」と机上の考えより、しっかりとこの目で見ることが重要なのだと。文献よりも直接、自分自身で現地に足を運ぶことこそ、考古学の真髄であり、あるべき姿なのだ。そして、白い壁の技術が1500年前には現実にあり、日本家屋に見られる三和土のルーツであったことを知る。幼い頃に見た三和土や壁に使用されていたのだ。そもそも三和土とは「『敲き土(たたきつち)』の略で、赤土・砂利などに消石灰とにがりを混ぜて練り、塗って敲き固めた素材。3種類の材料を混ぜ合わせることから「三和土」と書く。土間の床に使われる。」(ウキペディア調べ)三和土自体、いまではコンクリートに変わっているが、今でもある倉の白い壁にこの技術が生かされているということなのだ。しごく頑丈なものだから、現在も残っていて歴史を感じることが出来るのだ。

そして、原の辻遺跡の車馬具の部品だ。p187にもあるように「その当時の外来文物が、日本列島に入ってくるあり様を考える材料として、重要であることがわかる。」とある。「小さな金属製品にも、さまざまな地域の営みが凝縮されているのである。」と結ばれている。本来、当時あるわけのないものが、交易、交流を通じて海を越え、もたらされたのだ。ひとつひとつのもの、こと、跡などがヒントのように、我々に語りかけるのだ。そこでその部品の出どころと思われる百済を歴史から紐解いてみた。「百済(くだら[1]、旧字体:百濟、4世紀前半 - 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。」とある。また「百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城時代(475年まで)、熊津時代(475-538年)、泗沘時代(538から)に分類される。漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。538年には新たな首都として泗沘を建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。」そして「中国の南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。」とあった。「中国で南北朝時代が終焉を迎え、隋が成立すると隋の高句麗遠征に加わるも逆に高句麗から侵攻されることになり、ついで唐がその支配を握ると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、聖王死後の百済と対立していた新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。」(ウキペディア調べ)やはり日本と百済はしっかりとした交流の歴史があったからこそ、660年代に支援したのだと想像できる。

古代の営みを論理的に想像し、考え、状況から意味を汲み取ることを繰り返す地道な努力で、古代の技術の広がり、交流の有無などが解り、考古学の視点から歴史を私たちも垣間見られることが出来るのだ。

そのことを踏まえ、再読して行くと何故、どのように、どんな意味があるのか?などなど、交易、交流そのものから目が離せなくなる。

一人一人の人、国、地域が交流を持つことを強く望まなければ、かなわない距離と時間と危険性だ。当初の目的は別であったかもしれないが、人の想像をはるかに超えている行為だ。論点はかなりズレてしまうかもしれないが、先人が歩み、進めたこの勇気ある行動、行為を現代人も知って、国際交流、または国際貢献に生かすべきだ。この勇気や好奇心の火を絶やすことなく、歴史を支える考古学を元にアプローチして行くことが肝心なのだ。


#佛教 #論文 #民俗学 #佛教大学 #教授面談 #リポート #志望動機

2022年10月15日土曜日

挑戦〆決心と経緯〆⑵



【暁の挑戦】2018


挑戦〆決心と経緯〆⑵


【志望動機】

なぜその学校を志望したのか?

志望のきっかけ

きっかけを深く説明

入ってからの目標


還暦を機に何かやり残した事はないかと回想いたしました。「そうだ、大学生にならなかったな私」今は亡き、父母の勧めであった大学進学。唯一、父母に逆らい受験もしませんでした。

30代、40代の頃ほど正直、年齢的にもそこまで本気で大学生になると決心していた訳ではないのですが、ネットで仏教大学様にたどり着いた時、通信教育に長く携わっている事、私と同じような年齢の方が沢山いる事、学習内容が魅力的な事、大学院もある事、そしてサポート体制が充実している事から仏教大学様なら私でも卒業までモチベーションを維持し、たどり着けるかもしれないと本気モードにシフトチェンジ出来ました。このことが志望動機としては大きいです。

また、卒業までしっかり取り組んで4年、大学院を進学すると3年、合計7年。途中上手くいかなくなったとしても10年。10年計画とすれば、年齢的にも体力的にも今年が最後のチャンスかもしれないという思いも湧いて来ました。

今更ですが、父母の恩に報いるためにも、リベンジの意味も込めて挑みたいです。現在活動中であるお志事(西洋占星学研究家)に活かせる歴史文化部民俗学/文化人類学をしっかりと学びたいと存じます。


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