西洋占星学 -星脳®︎-

星脳®︎の暁瑠凪は、西洋占星学研究家として人生を星よみの研究、実践、鍛錬の日々を繰り返して参りました。

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2019年9月29日日曜日

暁の挑戦〜大学1-7〜

【京都の歴史と文化】SR
書籍名「京のまつりと祈り〜みやこの四季をめぐる民俗」
著者:八木
主題:日本一の都市祭礼である祇園祭の意義と祭りの楽しみ方

祇園祭は都市祭礼である。日本一の都市祭礼であることは間違いない。

そこで改めて、祭を調べてみると
「祭(まつり)とは、感謝や祈り、慰霊のために神仏および祖先をまつる行為(儀式)である。供物そのほかが捧げられる。祭祀(さいし)、祭礼(さいれい)、祭儀(さいぎ)。また、まつりの漢字の表記(祀り・祭り・奉り・政りなど)によって、用途や意味合いが少し異なってくる。」(ウキペディア調べ)とある。

そもそも、日本人にとって祭りとは何か。上記の記述もそうだが、四季を感じる心と周囲との絆を深め、団結力を養う行事なのではないか。先人の行いを素直に受け継ぐだけではない。自然の脅威から身を守るための神事だけでもない。たしかに疫病などの被害にあわないことを願い、先人を見習い、祈りや慰霊を行う。夏に疫病が流行することを踏まえ、日本の夏祭りに疫病退散を目的としたものが多い。疫病退散が中心ではあるが、虫送り、台風除けなども見られる。しかしながら、町衆にとって特別なリクレーション、楽しみであったのではないか。でなければ、何千年も何百年も町衆のモチベーションが持つとは思えない。
その祭礼の中でも、今回学んだ、都市祭礼が「祇園祭」だ。その歴史はレジェンド級に長く、脈々と町に受け継がれている。その歴史の長さは、地元のプライドをかけた熱い思いと努力の賜物だと知った。関わる衆方の情熱が、祭りを唯一無二の祭りへと昇華させたのだ。だからこそ、この「祇園祭」は、日本三大祭りの筆頭なのだ。あとは、東京の「神田祭り」、大阪の「天神祭」だ。また、実際に京都と交易が深かった都市は、同じように疫病に苦しめられたことから、「祇園祭」をまねて、独自の祭りを作り上げたとある。
日本には四季があり、人々の暮らしと共に自然がある。昔の祭りの役目は、地域が平和で健康に過ごせるためが強かった。しかしながら、世の中が成熟するにつれ、楽しむという娯楽感が出て来たのではないか。もう一歩進むと「祇園祭」のような都市祭礼では、観光資源としての役割が大きくなる。祭を継承するという強い思いの地域住民と県や市の公共的思惑が「祇園祭」を挟んで一致し、細かい思いの違いはあるものの、京都独特のグレーゾーン的折り合いをつけて、成長している祭の成功例といえる。数字を見ても日本一に相応しい、都市祭礼なのだ。どの角度から分析しても、規模、歴史ともに素晴らしい世界に誇れる祭礼、風流なのだと思う。

先祖より受け継がれる神事と観光資源的要素、守るところは守られ、合理的に変容すべきところは変容し、今後、町衆、学生だけでなく、京都にご縁が出来た者も取り込み、男女差も乗り越えて、発展していくことは間違いないだろう。

先生も再三おっしゃったように、祭りを楽しみたかったら、祭りの意味、由来を知り、現場に行き、参加する。何のための祭りなのか、何を祈願するものなのか、といった祭りを知ることで、より深く理解でき、実際に目にした時の感動はひとしおだろう。
恒例行事とし、ポイントを決めて参加したいものだ。違いを見つけるのも悪くない。違いがない祭りの凄さもある。テーマを決め、参加し、装束、かけ声やお囃子の風流を楽しむのだ。
事前準備を怠らなければ、楽しめるはずだ。

「祇園祭」もそうだが、祭り自体は地域の絆を深め、人との結びつきを強くする。やはり日本人にとってなくてはならない心のよりどころだ。実際に祭りに参加したり、楽しんでいる人と触れ合うことは、日本人が大切にしてきたものを理解することにつながる。海外の方も日本文化に触れ、理解するため、訪れてくれる。だからこそ、日本人も大いに祭りを楽しんで欲しいと思う。

2019年9月13日金曜日

暁の挑戦〜大学1-6〜

【ブッダの教え】SR

スクーリング後提出

〈講義と資料が主体、テキストは後日読〉

主題:自分がブッダと会うならば何を話したいと考えるか、自由に述べよ。


今回の課題は自由度が高い。しかし、 ブッタと会って会話することは、現実なわけではなく、会話出来るというわけではない。⇒ 疑問の提起


それにもかかわらず、問いかけをする。もちろん、課題だからというのもある。講義から得た人と柄から、想像を働かせるという難問だ。しかしながら、講義の中で教えを教授され、道徳性や倫理観に感銘を受けた。本気で問うて見よう。工藤先生よりご紹介いただいた風でチャレンジしてみたい。⇒ 問いかけ


(本論)

はじめまして、工藤 順之先生よりご紹介頂きました。冨田 加寿美と申します。漢字を用いておりますが、2018年現代に存在する日本人です。そして、あなたが残された教え「仏教」の名が入っている「佛教大学」に通う者です。先般、工藤先生の授業の課題として、あなたに自由に何を問いても良いと伺いましたので、いくつかの質問をさせていただきます。


1.現代人が、今もなお、あなたを崇め奉ることに対して、どう感じていますか?特に神格化されることに対して、どのようなお気持ちなのでしょうか?

2.あなたの教え自体ついて、私は道徳的倫理観として受けとりましたが、間違いでしょうか?また、あなたの教えを自ら後世に残したいと思ったのでしょうか?そもそも教えと捉えていたのかも含めお答えください。

3.あなたは、哲学者として貫き生きたと私は感じたのですが、いかがでしょうか?後世の者が宗教と位置づけなければ、きっとそうであったように思います。

4.あなたの教えは現代に通用する自己啓発が詰まっていると思います。そして、人々の悩み、迷いの解決に役立ち、生きる力を与える教えと理解しましたが、どうでしょうか?

5.あなたの教えのスタートは、人のためでもあるが、あなた自身のためでもあると理解しましたが、良いのでしようか?

6.既存の宗教に疑問を持ち、自分に向き合い、戒律を破ったりしても真実を追求する原動力は?また、人生をかけ、苦行も乗り越え、悟りを開いて、あなたは幸せになったのでしょうか?


あの時代、正しいと思われる学びがあったわけではないのに、自らの努力で沢山の方を教えという形で救いました。あなたの思う形ではないかもしれませんが、現在も救い続けています。今回の講義で、普段使っている言葉(輪廻、業など)の本当の意味を知りました。あなたが、影響を与えた人々も私と同じように、目から鱗だったと思います。現世利益より魂磨き。そんなあなただからこそ、後世まで語り継がれることになったのだと。ひとつ、あなたに謝らなければなりません。あなたの事を誤解していたことです。妻、子供、国を捨て、出家なんて。それで人に法を説けるのかと。その誤解を解いてくれたのは工藤先生でした。四住期を知り、時代背景とお国柄を考えれば、納得です。

最後に、私の話です。誰でもが自分の意見を主張出来る魔法のような辻説法ツール(SNS)物なのですが、ここに参加し、発信しています。「しあわせは自分自身でつかむ」「昨日の自分より今日の自分」「素直が一番」などと題して、それなりの反応をいただいています。これからも誰かの一助となると信じて、配信を続けて行きます。

(結論)

ブッタは人格者であり、満たされた哲学者ではあるが、それでも奢ることはなく、精進した。教えをこう人々に対しても平等に接していた。人柄、努力、聡明さを感じるブッタの教えは、今日も色褪せることはない。

そして、大衆がそこまで、ブッタを崇める理由は、ブッタの教え、そのものが人々を平穏、平和、平等に導く条件を満たしているからなのだろう⇒ 本論のまとめ

つまりブッタが、望んだことは、皆が幸福になるということ。また、それがブッタ本人の幸福に繋がっているのだ。⇒ 言いたい事

2019年6月16日日曜日

暁の挑戦〜大学1-5〜

【心理学】設題1

書籍名「心の理解を求めて」
編著者:橋本 憲尚
主題:アタッチメント理論について解説しなさい。

・アタッチメント理論について述べていく。

「アタッチメント」とは愛着と呼ばれる母子間の永続的な情緒的結びつきの「絆」を表している。その「アタッチメント」をフロイト、ハーロウ、ボウルビィが本文中、語っている。

フロイトは最初に母子関係を重要視したと前置きがあり「乳児は口唇を通じて母乳を吸うことに快感をおぼえ、その快感を与えてくれる母親に愛情を感じるようになる」とある。口唇からくる肌感覚の情報をアタッチメントとしたのだ。もちろん命を育む行為でもある。

ハーロウはフロイトの論述に対して異論を述べている。子猿の実験を通し「授乳そのものによって愛情が育まれるのではなく、授乳の際のスキンシップにともなう快感が重要であるという結論(接触満足節)を導き出した。」とある。やはり、ハーロウもフロイトと同じく、肌感覚からの安心感、五感を中心にアタッチメントとしたのだ。

ボウルビィはここでの課題、アタッチメントそのものを論述している。ボウルビィいわく「母子間の絆は両者の間でアタッチメント(愛着)と呼ばれる永続的結びつきが形成されることによって築かれると考えた。」とある。両者、絆、愛着、永続的結びつき、築かれるの文言で表しており、心を重視した論述になっている。「生みの親より育ての親」が思い出される。そしてまた、ボウルビィはこうも語っている「養育者を安全基地として周囲の世界を探索しようとする乳児の主体的な活動によると考えた」とある。タイミングよく声かけして、希望、願望を叶えてくれる母親は、乳児からすると最高の存在なのだと思える。

テキストP243にある「エリクソンの発達段階」には乳児期の好ましい結果の項に「環境および将来の出来事に対する信頼」とある。関連している文章としてP247にある「養育者を安全地帯として周囲の世界を探索しようとする乳幼児の主体的活動による」とある。母親も含め、乳児の環境が大切なのである。

各論述からみて「アタッチメント理論」となるとアタッチメントの形成から見ていく必要があるのではないか。また、形成の時期はいつからなのかなどわかっていることで検証を進めたい。そんな中、記述の中に「アタッチメントの形成は胎児期から始まっている。」(中原1983)とある。やはり早い時期からアタッチメントは形成されているのだ。ということは発達の過程を通して、アタッチメント理論を論述する必要がある。この論述でいくと胎教はやはり子育てにとって有効な手段なのかもしれない。30数年以前にはそのことが理解されていたのだ。かく言う自分も30数年前に妊娠、出産、子育てをしている。思い返せば、胎教胎教と胎教ブームだったのが蘇る。お腹に声をかけたり、音楽を流しながら、妊婦生活をしていた。現実に体験することができた女性は、皆、実感しているはずだ。

テキストP244にある「ピアジェの発達段階」0~2歳をみると「環境とのかかわりの中でシュマを獲得していく。」とある。シュマとは「ものごとの単純化されたイメージ」とのこと。母子ともに環境が重要なのだ。

「ピアジェの発達段階」に関連している文章として「新生児には、環境に働きかけるための反射機能として吸啜反射が備わっている。」とある。環境に対応するために、反射機能(意識することなくても出来る)が、生命維持への安全機能として備わっているのだ。

テキストp250にある「健全なアタッチメントの形成には、特に母親が①子どもの活動に対して敏感に反応すること、②一定量以上の相互作用があること、③子どもとの相互作用を喜びをもって行うことが重要であると述べている」とある(繁多1987)こういったことを意識的に母親ができれば一番いいのだろう。環境が整えば、可能なのかもしれないか、このモチベーションを母親に要求するのは、難しく感じる。

また、

テキストP247の「乳児の個性」には扱いやすい子と扱いにくい子のアタッチメントの質の違いの理由が述べられている。あくまでも親から見てだろうが「扱いやすい子どもは、母親の働きかけに敏感に反応し母親に養育する喜びを与えるため、質のよいアタッチメントが形成されやすい。しかし、扱いにくい子どもは、母親に育児に対する否定的イメージや育児不安を感じさせやすく、アタッチメントの形成を阻害することが多い。」とある。 母子の相性が大切だということなのかもしれない。母親としての愛情はあるものの合わない母子もいるのが現実だ。乳児とはいえ生まれたからには、もう一個人としての個性があって当たり前だ。教育学でも学んだ、家庭教育の重要性と重なる。

テキストP248にある「心の絆を育むー乳児期の母子相互作用」ここにアタッチメントの大元が詰まっている。ポイントとして「相互作用がスムーズに展開していくためには、母親の応答性、乳児の内的状態や信号を敏感にとらえ、タイミングよく適切に対応することが鍵となる。」とある。理想論かもしれないが、健全な社会を築くためにもこのように心がけ、守って育てていくのが、大人たちのするべきことのひとつなのだ。

アタッチメント理論は母子相互作用から生まれる一体感であり、愛着心が心の絆を育むのだと理解した。子どもの健全な育成において、重要かつ必要不可欠なのだ。そして、乳児期においても胎児のときからも、大切な相互作用なのだ。その相互作用は、かなり長い間、成長に影響を与え、その子どもに良きも悪しきも作用することがわかっている。

経験上、たしかに悩み相談の一つに親子関係の問題が多く見られる。色々な悩み、迷い、問題もルーツをたどると親子関係から来ている事例が多くある。

アタッチメント論を学ぶことと知ることは、子を持つ側の親の知識として重要な位置を占める。

となると、どの時点で知ること、学ぶことがよいのだろうか。やはり、学ぶのであれば、高校生の時期が良いのかもしれない。悩み、迷いが生まれる時期でもあり、そんな時期に親になる教えを受け、親の存在を再認識し、自身も備える。中には苦労人の高校生もいるが、しかし、多くの高校生は、高校生としての社会参加を意識するためにも必要だ。子どもたちの未来のために。

とはいえ、学んだ、知ったでは、母子だからといっても、必ずしも、スムーズにアタッチメントが、得られるわけではない。前述のように、子の個性と母親の人格特性の適合が問題だ。もちろん、良いほど、スムーズであるといえる。また、2人を取り巻く環境や周囲との関係により、左右される。そして、母親の育児期時点のメンタルも関係してくる。子ども自身の良いところを伸ばすためにも、母親が落ち着いた環境で子育てが出来るよう、社会が周囲がサポート出来れば、素晴らしい。

つまり、アタッチメント理論は母子が本来の意味の親子になるための重要な絆の一つだといえる。その道は色々と整備しなければならない難しい事情もあるが、子どもたちのためにも遂行したいものだ。

子の成長、母親の人間性の成長に多大なる影響を及ぼすのが、このアタッチメントなのである。ということは個性や人格特性を理解し、育児にあたることができればどうなのだろう。どの母親も無力感を抱くことなく、子もスムーズな成長を得られるのではないか。理解するためのツールは、ちまたに溢れている。大人は、子供達の為に良きツールを学んでもらいたい。

2019年3月5日火曜日

暁の挑戦〜大学1-4〜

【哲学】設題2

書籍名「連続をめぐる哲学-流れ・瞬間・同一性-」
編著者:田山令史/斎藤慶典
主題:全6章のうち、一つの章を選んで、まずその内容を正確に要約せよ。その上で、自分が疑問に思うこと、批判すべきだと思う点を詳述せよ。

(要約)

第3章 瞬間と創造

ーデカルトにおける〈私〉の連続性ー

「デカルトとライプニッツの考え方の基本線を紹介して、思考の練習のための材料を提供する」ことが目的だ。

1 「私」「今ーここ」

ここでは「再帰的な自己同一性(自己性)の意味での『私』について語っている」また「『今ーここ』」というときの『今』とはどのようなものなのか」ということも紐解いていく。「デカルトの哲学が『私』(『自我』)の存在の連続性について、時間との関係から、興味深い議論を示している」とあり、ライプニッツは、「『合理主義(合理論)(rationalisme)の哲学と称される。」また、イギリスの哲学者たちの「『経験主義(経験論)(empirisme)』と対比される。」とある。

2 私は存在する,私は考える〈間〉は

こちらでは「『誇張的懐疑』『方法的懐疑』」が紹介され、その「懐疑論を避けるための『アルキメデスの一点』として、疑っているときに、疑っている私の存在が確実であることを主張する。」そして「『私はある、私は存在する』という命題に行き着く。」とある。また、時間としての規定が与えられる定義として「デカルトは『考えるもの』であるかぎりで存在するということから、物体(身体)を『私』の属性から取りのぞき、『思考』のみを『私』の属性として認める」という。そして「デカルトの考える『神』とは」「形而上学的な神であることに注意しなくてはならない。」につながる。「私が今あり、そしてかつてあったということを思い出す、ということから、私の持続が得られ、それを物体に対して私は適用するのである。考える私は何ら物体ではないが、持続の観念は私の内にある、とデカルトは考える。」とある。「デカルトは、神を『無限実体』とし、物体と精神を『有限実体』としている。」とあり、「連続を考えるためには、無限の概念に依拠しなくてはならないということに過ぎない」とある。

3 連続的な創造=保存

「無際限に分割可能な非連続的な時間点(瞬間)を想定しつつ、同時に自我や物体などの持続を認めるためには、世界そのものを保存するような働きを、有限な時間点の集合の外部としての無限の場に認めなくてはならないということである。」論述されている。

4 ライプニッツの連続律

「『個体性』と『自己性』(再帰的な反省的な自己意識の構造)」が新たな意識を呼び起こすとある。「ライプニッツは、表象の移行を連続的なものと考えており、あらゆる自然の変化は段階を追って生じるのであって、『あるものは変化し、あるものは変わらない』と述べている。」とある。また、「デカルトが自我の連続を、連続的創造=保存という無限の原因から因果的な結果と考えている」に対して、「ライブニッソは、同一の自我における無数の表象の移行する変化の連続性を、目的因の観点から考察している」とある。ライブニッソは「『予定調和』の概念に頼る」とある。

5 「なにゆえ無ではなく,むしろ何ものかがあるのか」

例えると「運動中の物体や発育中の生物は、その瞬間瞬間には偶然的で無数の可能性を持つにもかかわらず、結局はある一定の方向を描き、それ以外の現実存在でありえなかったのはなぜなのか。ライブニッソはその根拠を神に求めた。」とある。

6 「私」の人格の保存

「デカルトが運動における力の量の保存を述べた」対して「ライブニッソは力の方向の保存を述べた」とある。また、「デカルトが生物を機械とみなした」対して「ライブニッソは分割不可能な有機体とみなした。」とある。「ライブニッソが『私』の人格の保存について語っている」のが【形而上学叙説】にあるとある。「デカルトにおいて『私』の連続性が保存され」「瞬間の連続的な創造によって」とある。「ライブニッソは、『私』が道徳的に保存され、同じ人格でありつづけることを主張する。」そして、「『なぜなら知性的な魂に、罰や褒美を与えることができるのは、この私の記憶あるいは認識だからである』」とある。「『私』が経験する さまざまな出来事や行為が、時間的継起において、連続しているものとして経験されている、その多様なものの『総合』の経験するもの」とある。また「連続性を思考するのではなくて、経験する」ともある。「『私』という語は、概念的規定を逃れているように見えるが、多様な経験そのもの統一性の表示と考えることも可能である。」とある。「デカルトやライプニッツは神について形而上学的に語る」とそして、デカルトは「有限な人間には計り知れない原因として無限の神の観念があり、ライプニッツにおいては、有限な人間がその似姿であるような神の観念があった。ライプニッツは、無限の神と有限な人間にアナロジーを立てていたのである。」とある。「神に頼らないで、実体の恒存、因果性、相互作用を内的直観の形式から語ろうとしたのがカントである。」「カントの哲学は、デカルトの哲学が哲学史につけた折り目を、さらにもう一度折り返したと言える。」と結んでいる。

疑問と批判すべきだと思う点。

個人的には「神の存在」を信じている。精霊と呼ばれる存在や自然から生まれる非科学現象も。(科学は歴史が浅いのでここで記述すること自体あまり良くないのか?はわからない)そして、宇宙の中の一つの星、地球。解明できてないことが沢山ある。宇宙規模と表現されるくらい宇宙のスケールは巨大なのだ。比較すると人間の能力や存在は、小さな存在である。当然、この地球で感知出来ないことが起きてもおかしくはない。

だからこそ、「神は偉大だから」と安直に片付けられるのかもしれない。しかしながら、最終的に「神」へ落ち着けてしまうのはいかがなものだろうか?⇒ 疑問の提起

偉大な無限の存在の神。人間を創生したであろう神が、時間も管理し、宇宙に存在する。そう、落とし込む。先人の哲学者が深い考察と思考の元、論述したのだからと納めたいが、納まりの悪い感じが残る。⇒ 問いかけ

神には頼らずに有限な存在が経験を通し、連続性を語れるのか?以下は気になる部分を本文より抜粋した。

デカルトは有限な人間には計り知れない原因として無限の神の観念がある。と論じた。『考えるもの』であるかぎりで存在する。連続を考えるためには、無限の概念に依拠しなくてはならないということに過ぎない。と論じた。

ライプニッツは有限な人間がその似姿であるような神の観念があった。『私』が道徳的に保存され、同じ人格でありつづけることを主張する。連続しているものとして経験されている、その多様なものの『総合』の経験するもの。と論じた。

懐疑論からは、私はある、私は存在する。

カントは神に頼らないで、実体の恒存、因果性、相互作用を内的直観の形式から語ろうとした。

(結論)

ゆえに「カント」の論述であれば、神という存在を引き合いには出さないことで納得がいく。私自身、無限の存在は、宇宙と捉えている。宇宙からの信号を受け、有限の存在が生かされ、活動し、保存されて、存在していると。その意味では宇宙=神なのかもしれない。⇒ 本論のまとめ

哲学を学び、疑問を持つ大切さ、疑問を持つ勇気、角度を変えることで学びがあった。〈私〉という存在が瞬間瞬間保存され、実体ある存在として、この地球に存在したい。

暁の挑戦〜大学1-3〜

【哲学】設題1

書籍名「連続をめぐる哲学-流れ・瞬間・同一性-」
編著者:田山令史/斎藤慶典
主題:全6章のうち、一つの章を選んで、まずその内容を正確に要約せよ。その上で、自分が疑問に思うこと、批判すべきだと思う点を詳述せよ。

第2章 刹那滅の哲学 ー瞬間的存在と連続ー

巻頭~仏教の世界では「すべての存在は今の瞬間にしかない。それ以外は端的にまるごとないのだ」=「刹那滅」。そして「刹那滅」は「非連続である。」また、「非連続と連続の瞬間は同時であってインターヴァルはない。その同時性における転換の際が刹那滅なのである。」とある。

1 存在はひとりでに、瞬時に消滅する

⑴哲学の衝撃ー「刹那滅」、この異様な衝撃波

刹那滅とは「すべての存在は瞬間的に消滅すること」だ。そして、「どこにも知覚されない。『今』そこから到来すべき未来の時間的場所はない。」ということだ。

⑵「刹那滅」は「ものの変化」ではない

「インド仏教の『無常』は最終的に『刹那滅』へ展開するが、一般に『無常観』は、多くの場合そこに『変化』をみている」そして「『変化』は存在そのものが丸ごとなくなるのではなく、…時間的様相と考えられる」ということだ。そして「すべて『今の一瞬』しかないのだ。」そう、ものの変化ではないということなのだ。

⑶2つの否定ー相対的否定と絶対的否定

「『非存在』という知覚されない言語対象をあたかも存在するかのように虚構してしまうのである。」が「相対的否定」である。「存在それ自体が基体もろとも端的に存在しない」また「『まるごとない』という否定のしかたを『絶対的否定』と呼ぶことにしよう。」とある。

⑷相対的否定としての「いま」の排除機能

排除機能として「『今』が『未だ』と『すでに』を排除する。この『今』のもつ排除機能を相対的否定としてとらえると『未だ・未来』と『すでに・過去』は排除された」がしかし「その存在そのものは否定されていない。」という事だ。

⑸絶対的否定としての「いま」の排除機能

排除機能として「『今』は『今以外のもの』の存在をまるごと否定する。」という事だ。

「『今』に接続する私や世界の基体の存在は、相対的否定によって、2瞬間を空間の2地点のように同時に並存できると思い込んでいる概念構想(言葉の世界)の虚構なのである。」そして「『私自身がまるごといなくなる』という『死』は、死体というものにはない。」、「死体や灰は存在しているものだからだ。」という観点からみていくと「刹那滅は単なる断絶ではない。」そして「私という同一の基体まるごとの死はその最終瞬間の消滅と同時に新しい存在が創発する瞬間でもあるのだ。」ということだ。

⑹消滅・非存在から存在するー死から生きる

「すべては、今の一瞬間なのである。しかし、この『今』に私の同一性の拠点を置くことはできない。『今』という切断の瞬間、もはや『今』ではない。」と「『今』という言葉が『今』と重ならないのだ」となり、「『存在』という言葉の自己同一性が解体し、『自己差異性』として出現する」、「『存在』と『非存在』を二分する相互の排除・差異しか残されていない。」そこで「『今』には両義性がある。」と論じれる。

⑺スラッシュとしての刹那滅

「刹那滅ということが『すべての存在は瞬間的に消滅すること』であるとともに、『すべての存在は瞬間的にのみ存在すること』である」と刹那滅を論じている。そして「『存在が非存在になる』」「すべての存在するものは一瞬間も留まることなく刹那に滅する」また「『存在』と『非存在』という言葉の対象はそれぞれ自己同一性をもって固定された実在ではない[これを『空』による時間実体の解体とみることができるだろう]となる。「刹那滅は最終的には『/』というスラッシュのみで表現する以外ないように思われる。」につながる。

⑻自発的消滅ー存在はひとりでに瞬間的に消滅する

自発的消滅論とは「存在は1瞬間も自己同一性を保つことなく自発的に消滅する」ことを前提に「この自発性がインターヴァルを置かないという意味で存在は刹那滅なのである」ことになる。「生は死を本質としているという意味で死を前提している。」という観点と「死なないということは生きてないということなのである。」というそもそも論が存在する。

2 刹那滅を論証する

⑴ことばの対象ー他者の排除・差異

ここではアポーハを中心にまとめられ「相対的否定によって分けていた私たちの『言葉』」「その『存在』と『非存在』の差異線にそって」「言葉の差異線を遡行する。」と差異を語り、「二分する分節作用である否定的な差異線が」リアリティなのだ。そして「すべての世界がまるごと一瞬もとどまらず、刹那に滅する」とまとめている。

⑵「存在」の定義ー結果をもたらす原因(効果的作用能力)

「『存在』を『効果的作用をなすこと・結果を発生すること』と規定することを提案したい」は刹那滅の中での言葉「存在」とはにつながる。「『結果をもたらす原因としての能力をもつもの』が『存在』である」と「縁起」の独自解釈から来ているものだとある。

⑶「効果的作用」のモデル

モデルは2つ「第1の継続的モデルは」「種子としての最終瞬間が瞬間的に消滅すると同時に結果として発芽する。」があげられ、「第2の同時的モデルは」原因が消滅してその場所を空にすることによって結果を呼び込み、その場所に同時に結果が発生することになる」〔このモデルはダルマキールティによって与えられた〕とある。そして「第2モデルこそ基本的なもの」とあり、「原因総体の最終瞬間として、最期の生の努力の終わるところ」「縁起の構造連関としての結果が発現する。」と死と新しい結果を解説している。

⑷「効果的作用」の両義性

ここでいう両義性とは「本質的関係としての因果関係は、その結果を目的行為と読み替えることができると同時に、言葉に連動することができる。それ以外の効果的作用の排除が同一の効果作用を決定するように、それ以外の言葉の使用法の排除が同一の言葉の対象を決定するからである。」となる。「『排除作用』によっていることに注意」ともある。また、「原因は結果を目的として先取りすること」という記述にも注目したい。

⑸刹那滅論証

創造的仮説という切り口から「『およそ存在するものは、瞬間的なものである』という前提そのものの論理的必然性[インド論理学では遍充関係という]を証明しようとするのである。」と解説され、「刹那滅論証は仮説をどのようにジャスティファイ(正当化)するかが問題」とあり、「パースの『アプダクション』に非常に近い視点をもっている」と論述している。

⑹刹那滅論証A

方法論の⑸よりもより具体的に論述されている「肯定的必然性〔肯定的遍充関係〕」は「『実例』を知覚することによって確かめることはできない。」とあり、「否定的必然性〔否定的遍充関係〕」だと「『存在性』とは『効果的作用をなすこと』であるから、『非瞬間的なものは効果的作用をなすことができない』ということを証明すればよい」につながり、継続的作用と非継続的作用の両者を否定すれば、効果的作用をなすことが不可能になることが証明される。」となる。

⑺刹那滅論証B

「『およそ存在するものは、瞬間的なものである』という肯定的必然性に基づいて証明すべきであると考える。」のが、Bということだ。「刹那滅論証の『本質の差異』という結論は」「自己同一性として確定することが」「『最終瞬間の消滅が結果の発生であること』から『自己差異性・自発的消滅を本質』としているという刹那滅の両義性を表現している」となる。

⑻論証Aと論証Bの違い

論証Aは「『すべての存在は瞬間的なものである』の代わりに『非瞬間的なものは存在出来ない(- B→-A)を先に証明している。」論証Bは「『およそ存在するものは、瞬間的なものである』という肯定的必然性(A→B)に基づいて」とあり、「論証Bは肯定的関係先決型であるが、論証Aは逆に否定的関係先決型」であると、違いを示した。ここで論証A=「リアルな対象を示さない」内遍充論とし、論証Bは「リアルな存在に基づくべきだ」という外遍充論としている。

⑼刹那滅論証Bと直観主義論理

「この論証Bから論証Aへの批判は直観主義論理の視点に近い。」とある。P84の欄外用語解説「クリプキの『直観主義倫理のモデル』」で理解できる。

⑽刹那滅論証C

論証Cは「対偶をシンメトリーとみなして、論証Bと論証Aを同等とみなす。」とある。そして大変興味深い「『嘘つきのパラドックス』」が紹介されている。そして元々「哲学は『語り得ぬもの』を語らなければならない運命」と哲学の核心部とも言える論述がある。

3 刹那滅と連続

⑴知覚される瞬間的存在

「刹那滅であると判断することは、知覚判断という概念構想に基づいている」とある。また、「『一瞬間を画定する直接的把捉』として把捉しているはずである。」となる。

⑵創発する刹那滅

「日常のレヴェルの自己否定があって、初めて究極的レヴェルが創発される。」しかしながら「一般に真理は恒常不変で」「不変不動の基準でなければならないと思い込まれている」とある。

⑶刹那滅は連続するか

「連続性は刹那滅の切断を媒介にして成立する。」とある。「刹那滅の哲学は『未完の連続の哲学』だ」と結んでいる。

⑷刹那滅ー絶対者なき哲学スタイル

「唯一の絶対的真理よりも、境界線上に留まり続け、未完のままくとうすることを選ぶことこそ、哲学の最後の切札なのである。」となる。

4 インド哲学からの挑戦

疑問と批判すべきだと思う点と考察。

P60の⑴にある「この異様な衝撃波」とある。果たして、異様なのだろうか?また、P67の⑹にある「生は死によって初めて新しい生となってきらめく。生の意味は死によってはじめて与えられる」とある。誤解が生まれそうな文言であるこの部分を問いたい。

異様な衝撃波と言わしめた「刹那滅」それは一体なぜなのだろうか?

そこで、果たして異様なのだろうか?と疑問を提起したの理由について述べていくとともに誤解が生まれそうと感じた文言についても述べていく。

1.刹那滅、刹那に滅するとは、確かに強烈な印象を与えているが、だからこそ、未来に繋げたい。

2.奥深い部分に触れると哲学の醍醐味が、味わえる言葉だ。ゆえに異様ではないと思う。もっとポピュラーにしたい言葉だ。

3.ブッダの言葉「すべての形成されるものは消滅する。だからこそ心に集中し、努力せよ」なのだ。だからこそなのだ。心に沁み入る言葉だ。

4.次に誤解が生まれそうな文言について述べる。本文での刹那滅の伝え方でほかの部分において気になるところはないが「きらめく」だけが、気になる。

5.夢のある言葉が「消滅」と直結しているという受け方をしたからだということが要因なのだ。印象かもしれないが疑問を伴う。人の死に何度も向き合ってきた、祖父母の死、父母の死、ペット・生き物の死。身近な消滅を経験し、自ら消滅を選ぶ人を見てきたからこそ切ないのだ。夢がそこには1ミリもあってはならない。死はゲームのリセットとは違うのだ。8.たびごとに「また会おうね」というような思いになる。しかし、同じ存在に会うことがないのは理解している。同じ存在は消滅したのだ。

6.また、宇宙に目を向ければ、地球に存在する我々はちっぽけだ。時間軸も違う。人間の百年などは瞬きのごとくだ。

6.だからこそ、端的に刹那滅は一瞬間である以上連続としては捉えられない。といえるとしたい。ブッダの最後の言葉がちっぽけな一瞬の生ある我々の存在を生かしてくれる。

刹那滅は存在と非存在の究極の表現である。それでも存在は滅することを理解しているが、直視できない。一瞬という刹那よりも、ひとときでもこの世に連続していると思いたい。我々がそこまで、刹那滅を意識することない理由は、刹那滅が浸透していないということもあるが、逆に非連続であることを認めることで「きらめく」心を大切に瞬間を愛で、存在そのものを意識できるのではないか。

つまりP92の「ブッダ最後の『言葉』」 「すべてのサンカーラは消滅する。だからこそ心に集中せよ」すべてここにつきると言いたい。命ある限り、存在を意識していきたい。

「刹那滅」

すべての存在は、生まれた次の瞬間には消滅する。しかし一瞬前の存在を因として次の一瞬の存在を生じるのである。したがって常に連続的に存在することができ、しかも、その新しく生まれる存在は、一瞬前の存在と全く同じではない。という理論です。

暁の挑戦〜大学1-2〜

【教育学入門】設題2

書籍名「教育学への誘い」
編著者:山崎高哉
主題:あなたが今日の教育が直面している最も大きな課題と思うものを一つ挙げ、それと教育との関連について述べなさい。

日本の教育が直面している課題八章を読み、第1章の家庭と教育が根幹であると思った。しかし、家庭と教育を一括りに表現するのは、現時点においては隔たりを感じている。簡単には成立しない課題ではないのか?直接的な打開策というより家族、家庭に対する意識改革が必要な課題であると感じる。また社会の一員としての意識も重要なのではないか?それらを含め考察していきたい。

そもそも、家族の定義、現在の家庭の有り様に違和感や疑問を持っている。仕事柄、親子、夫婦、家族全体の悩みを聞くことが多い。また、未婚の方の結婚感も垣間見る。一緒に暮らす家族があり、子がいて成り立つ家庭。かつては当たり前のようにテキスト中にある「暮らし」があった。しかしながら、現社会は「暮らし」のその背景に八章すべての課題が絡み合って、複雑化しているのが現実だ。

そこで、問題、課題を明確にするため、第1章の「家庭と教育」についてまとめていく。

1.家庭という〈問題〉

⑴家庭と教育をめぐる諸問題テキストP146~

「実態として、家庭・家族の崩壊や解体、病理や逆機能を示すかのような現象が噴出している。」(DINKs、ホテル家族、個族、解離性性同一性障害、アダルトチルドレン、共依存、孤食など)は、第7章の「価値の多元化と教育」に関連する問題とリンクしている。「家庭の教育力の低下が指摘されるかたわら、すさまじい勢いで早期教育が家庭に侵入してきつつある。」は、教育格差を生んでいる根底に家庭の経済力も関わっているのではないか。「高齢化社会の急激な到来か〈介護〉という課題」は、第8章の「環境問題と教育」に関連する問題とリンクしている。また、養育と介護は「人間に対するケアとして、本質的に共通するものがある。」とある。ここは養育と介護を経験した者として実感がある。

⑵〈問題〉としての家庭テキストP148~

「家庭は根本的に問題を抱えている」、「家庭・家族そのものが原理的に問題なのだ という認識」、「『魂の殺人』さえ犯しかねないもの」、「『愛の巣』それ自体が『病巣』であるかもしれない」とある。

確かに、親子の問題で多く聞かれる、過干渉と否定愛。玩具的扱いと認めて貰えない存在。どちらも悲しい事実だ。このことで年齢的には大人になった者もかなり長い間苦しんでいるという現実がある。この現実がある以上、「魂の殺人」「病巣」と呼ばれでも仕方ないことだ。現状では、持たなければならない認識であると言える。家庭の定義としては正解というのがない中、多様な形があって然るべしだ。しかし、バックボーンにあるべきものは共通しているはずと考えられる。

2.原初の家族の姿-ヒト・家族・ケア- テキストP149~

「家族の成立は人類の発祥と同時だったと見ることができる」(動物の種社会を構成する社会的単位をオイキアという)、「①オイキアを…②雄・雌間に…③インセント・タブーが…④オイキア間に…⑤複数の…形成されること。」、「家族が成立するためには〈協同〉〈分配〉〈交換〉などの社会的行動が発達してなければならない」、「他の家族メンバーに対する顕慮・配慮(ケア)がなければならない」とある。至極当たり前で当然だと思うが、現在では難しく、過去の出来事なのか?核家族化が進む中では難しいのか?

3.家族の機能と性別役割分業・ジェンダー

⑴家族の機能と役割 テキストP150~

「社会システムは適応、目標達成、統合、潜在的なパターン維持と緊張処理である」、「性別役割分業それ自体は否定すべきでもないと考える。吟味・検討すべきは、その今日的な在り方なのである。」とある。このシステムバランスが家族という集合体のキモであると考える。今後の課題であることは間違いない。

⑵養育と父親 P151~

役割については「みんながひとしくメンバーであるということを象徴的に表現する」、家事については「貨幣価値には還元できない独自の価値としてきちんと評価する」とある。家事労働の評価が見過ごされていた過去がある故に、価値としてみたことは、通過点としては評価したい。とは言え、それだけではなく、根本を見たほうが良いのだという意図は家事を担う者として有難い。

⑶ジェンダーと拒食症 テキストP153~

「自己のアイデンティティを獲得することへの無意識の抵抗・拒否が、拒食症の陰に隠されているように思われる。」、「家族とは、人間の〈共同〉的存在の根本様態、根本形式なのである。」 とある。拒食症を抱えた方も私の元に来ることがある。自己否定の果て、行為に及ぶと感じている。

4.生活の変化と家庭の空洞化

⑴裸の家族 テキストP154~

過去は「生活全体に具体性があった。」、現在は「豊かで便利でラクな消費生活に変わった。」とある。また、最後にあった「生活における目的と課題の欠落を埋めることはできず。」に繋がる。便利が不備を生んでいるとということなのか?人の努力、工夫が根本的な事を忘れさせ、便利とラクに流れ過ぎたということなのか?貪欲さが裏目に出たということか。

⑵外注化と個人化 テキストP157~

「家庭で行なうことと言えば、いまや、食事・睡眠・排泄・入浴・セックスと、休息・寛ぎ・

憩い・娯楽が中心である」、「家庭の機能の外部化・外注化が、とどまるところを知らず進行していく。」いわゆる「便利〈施設〉となる。」、「いうなれば家屋あって家庭なし」とある。「家族は結びつく必然性を失って『ホテル家族』化し、」ともある。

確かに耳が痛い部分もある。幸福論は各々であるにしろ。陳腐な言い方かもしれないが、愛情があれば、絆が生まれる。病の共有もしかり、負の要素ではあるが、ピンチな時こそ、家族の想いが、そして、心の中の確かなものが見えてくる。向き合うことの大切さが見える。

5.家庭教育の原理的基底としての〈ケア〉

⑴〈ケア〉の場としての家庭 テキストP158~

「ケアとは何か。ー気遣う、心配する、気に懸ける、関心をもつ、気をつける、気を配る、配慮する、注意する、大切にする、思い遣る、労る、そして、世話する、保護する、面倒を見る、等々。」(〇〇にこころを寄せる)とある。そうありたい。ここを教育の根幹にすべきと声を上げていくべきだ。ふたたび「現代の『ホテル家族』は〈ケア〉という原理を欠いている」とある。そこが課題であり、一番の問題なのか。

⑵親に求められるもの テキストP160~

「無条件に子どもの『存在』を肯定し受容して真率な関心を寄せること、家庭を子どもと自分との〈存在の場〉〈居場所〉とすること」、現在「子どもというものが授かるものからつくるものになって」、「こどもはみずから望んでこの世に生まれてくるのっはないし、親を選んで生まれてくるわけでもない。にもかかわらず、その親に全面的に頼る他、生きていくことができない。それゆえに、親には、この事実に見合うだけの深い認識と覚悟が求められる。それがなければ、家庭も子育ても、一切が親〈個人〉の恣意によることとなり果てるのである。」、そして「家庭とは…人間が〈共に在ること〉、〈共同存在〉の原基であり、〈存在に対する真率な関心・配慮〉すなわち〈ケア〉の原体験の場である。」また、家庭とは「人間の〈生〉と〈存在〉の根源に位置するもの」とある。このことが家族、家庭の根幹であると考える。

家庭は小さな社会である。家族はその社会(規律の中)に参加し、向き合い、認め合い、愛をバックボーンに持ち、一から作り上げて行くものだ。どんなに便利になってもケア力は忘れては、成り立たないと知るべきだ。そして、テキストP150~の章にもあるように、人は1人では暮らしていけない、誰かの行いに助けられ、暮らしているのだ。

つまり、教育は暮らしの中で作られる愛(ケア)あるコミニティーと外社会とのリレーションにより成り立つのである。社会全体が人を育て、導く「教育」を各々が意識するべきだ。特に教育者(親も含む)は、その真の「教育」が定着するよう一体となって「教育」すべきなのだと思う。

暁の挑戦〜大学1-1〜

現在、私は大学の通信教育コース1回生です。テキスト学習、スクーリングのあと、リポートを提出しております。(スクーリング後のリポートは合否のみで現物は返って来ません)そこで現物があり、合格を頂きましたリポートを備忘録として、拙き文章ですが、こちらで公開していこうと思います。

  • 書籍名「自立学習の手引き 読む・書く・問う」
  • 編著者:公益財団法人 私立大学通信教育協会
  • 主 題:三つの能力の関係を問う
  • 副 題:今後の学習計画と課題

(序論)


三つの能力関係を踏まえ、今後の学習計画と課題を問う

しかし、その前に学習経験、または方法はどうであったのか?読む(読んで理解)書く(アウトプット)問う(考えるの出発点)を念頭に置くと確かに読む、書くは出来ていた。明確な問うを可視化して来なかったのではないか?

それにもかかわらず、次々と新しい話題、課題に翻弄され、新しいことに触れる喜びだけで満足し、明確な問うを意識出来ていない気がする。それは一体なぜなのだろうか?また、今後自立学習の計画を立てて行くにはどうすれば良いか?

そこで三つの能力の関係を踏まえ、今後の学習計画と課題を問うてみよう。

(本論)

問うを実践する(課題)

  1. 本書により三つの能力を知ることができた。読む、書く、問うという能力だ。
  2. 読み、理解する。理解した事を書く事でアウトプットする。問う能力は二つの能力へ関わってくる。
  3. 読みながら、問う。書きながら問う。こうする事で考え、解決していく。
  4. 過去の学習経験でわかったことは読む、書くは出来ていた。しかし、要約文でしかない状態であった。
  5. 過去の学習経験でわかったことは読む、書くだけで学習を終わらせていた。結果、疑問を持たなかった。問う力(能力)が足りない。
  6. 過去の学習経験では明確な問うの意識がなかった。感想はあるものの疑問ではなかった。
  7. 今後は問う(考えるの出発点)への意識をすることが課題である。疑問を持つことだ。
  8. 知らなかったことを知れた喜びはある。問うは喜びだけでは終わらせない力があると理解し、そこから一歩踏み込む問うの意識を持つ。
  9. 問うことで一つ一つの話題、課題が深まると確信できる。疑問を持ち、解決する力だ。
  10. 問うは私自身にとって必要不可欠な能力になると手引き書を読み、理解した。


今後の学習計画を立てる


  1. 計画するにあたり、自身の立場、立ち位置はどうなのか?と問う。社会人であり、妻、母、嫁、祖母という役割がある。
  2. 1を見てしまうと言い訳のような時間のなさが浮き彫りにされて行く。しかし、乗り越えるにはテキスト映像の中であった、自分を励ますとある。そう励ませば良いのだ。
  3. 2をうけて、どう励ますのかを問うてみる。以下4~6のように自問自答してみた。
  4. まだ、1つ目の課題でありながら、歓喜している自分がいる。こんなに学習意欲があったのかと驚きを隠せない。
  5. 4年間に渡る学習の継続を鑑みるとスタートだから4のような現象が起きているのかもしれないと疑う。
  6. 学習の動機が待ちに待ったタイミングゆえに4のような意欲だとしたら、本気度がものを言うのか?この答えは4年後に出るはずだ。
  7. どう励ますか?やっと来たタイミングなのだということ。長い間の思い。「楽しむべきだ」と励まそう。20代、30代、40代、50代、そして60歳になった今だからこそのタイミング。
  8. どう励ますか?自立学習とはいえ、孤独ではない。「1人ではない」と励まそう。そのために歴史ある実績ある本学を選んだ。仏教という壮大な教えに裏付けされた導き。
  9. 学習計画を立てるにあたり、テキスト映像教材内の「必要なのは隙間時間を上手く利用する事である」や「5分の積み重ね勉強法」は強い味方だ。
  10. 計画に関しては無理なく余裕ある配分が望ましい。卒業まで、大量に書くリポートに押しつぶされないようにする為なのだ。


(結論)

テキストP135(以下からT.P135と記す)に「読・書・問の能力がきわめて基礎的な学力だということ」のとおり、自立学習の三つの能力はこの学習の中心であると理解した。また、T.P133にあるように三つの能力が「連関しあっていわば螺旋的に向上していくこと」とある。この事は揺るぎない事である。
T.P9にあるように「自己流に読むではなく、書かれている…内容を正しく理解すること」なのだ。「読むことを意識的に学ぶ必要がある」とも説いてる。また、読んで理解する事は、文章だけではない経験することだとT.P27にある「生活や社会を観察することは、学問を『虚学』にせずに真の『実学』に結びつけることができる」と教えてくれた。映像教材にも「ある程度リアルな経験をする」や「教科書=講義」だと教えられた。
T.P33の三つのステップも映像教材と合わせてみると理解しやすい。注意点としては「『残像』が消えないうちに」や「課題意識を忘れない」、「難所は後回しにせよ、ただし印しを残せ」だ。技術としての読むはT.P10にある「本人の価値観とも離れ、また著者の意図からもいったん離れて、文章に表現されていることがらを正確に読解する必要がある」と解説されていた。書くに関連して映像教材内の読むの章にあった「読まなければかけない」や「Why、What、How」など知識を取り入れ整理する為であるということ。
T.P12の「『行間を読む』より『行間に書く』こと。第1章第1節⑵の見出しである「読むから書けるレポート」、「沈黙のテキスト」、「読むから読める」というセンテンスはわかりやすいかった。特にT.P14の「テキストに『語らせる』必要がある。」は一番心に響いた。書く章ではT.P59の「放電」は納得である。なぜの節に三つの効用があることも知り、レポートの性格は「出された課題に対する報告」と理解した。どのようにの節では、「その論拠を事実をあげて論ずる必要がある。」「私的体験は一般的な証拠にはならない。」で具体的にみれた。T.P73のレポートの4つのステップを踏まえて書く。そして、T.P134に本文中で「限定してきた対象よりも拡張することができる」ということ。技術等を初めて知ることが出来、それを軸に学習を進めていく。映像教材にもあった「高める為にメディアを利用する」ことも活用する。問うという事へ踏み込んで行く。そして、私自身も改めて自立学習をするんだと決心した。
しかしながらそれでも、リポートを書くという行為は学ぶ者として皆、不安が伴う。
皆がと思えたのは映像教材の中やT.P64で紹介された「学習の不安」第1位で約70パーセントの方が持つレポートへの不安である。克服する方法として「レポートを書いてみて」とあった。また映像教材内の「レポートの悩み」を視聴することで書くことへの不安は少し払拭された。タイトル決めもT.P81の「視点が明確になり内容も精選できる」を活用した。
T.P107ここで改めて「『考える』ためには『読む』、『書く』だけではなく、『問う』能力が必要なのである。」や問題を自覚し、発見し、解決を意識的に求めることとある。こういった学ぶことの真髄に触れて、試行錯誤しながら前進するイメージだ。自分のものにしていけば、T.P3にある「三つの能力を自由自在に働かせることができる」とリンクする。当初、自立学習は孤独と思えた。
T.P4の「考えるという営みは…孤独な試行錯誤である」とある。とはいえ映像やテキストという指導者がいる。立場は違えど、それぞれの思いで集う仲間がいる。脱落しないように支えてくれるシステムがある。T.P7の最後に「自分にふさわしい方法を選択し、工夫し、確立していってほしい。」とある。そうだ、先人の方々が乗り越えて来たように、私自身を鼓舞しながら進めて行こう。

私は社会人であり、妻、母、嫁、祖母という役割の中で貴重で限られた時間でも可能な学習計画を立て、欠落していた問う力をつけることが、この学習の課題なのである。無理のない学習計画と問うという課題。このことを旨にしっかりと自立学習をしていくと決意した。

別エピソードとして、私の名刺にはよむ、書く、教えると記載がある。これは私の仕事内容を端的に表した記載である。このことがあった為、手引き書にあった三つの能力読む、書く、問うが、すんなりと入ってきた。そして、嬉しさでほくそ笑んだ。私のよむは鑑定、書くは原稿書き、教えるとは文字通り講座やスクール活動に従事していることである。この事にも通信教育に何かしらの縁を感じたのである。

暁の挑戦〜大学 0 〜

【志望動機】

なぜその学校を志望したのか?

志望のきっかけ、入ってからの目標

還暦を機に何かやり残した事はないかと回想いたしました。

「そうだ、大学生にならなかったな私」今は亡き、父母の勧めであった大学進学。

唯一、父母に逆らい受験もしませんでした。

30代、40代の頃ほど正直、年齢的にもそこまで本気で大学生になると決心していた訳ではないのですが、ネットで佛教大学様にたどり着いた時、通信教育に長く携わっている事、私と同じような年齢の方が沢山いる事、学習内容が魅力的な事、大学院もある事、そしてサポート体制が充実している事から佛教大学様なら私でも卒業までモチベーションを維持し、たどり着けるかもしれないと本気モードにシフトチェンジ出来ました。このことが志望動機としては大きいです。

また、卒業までしっかり取り組んで4年、大学院を進学すると3年、合計7年。途中上手くいかなくなったとしても10年。10年計画とすれば、年齢的にも体力的にも今年が最後のチャンスかもしれないという思いも湧いて来ました。

今更ですが、父母の恩に報いるためにも、リベンジの意味も込めて挑みたいです。現在活動中であるお志事(西洋占星学研究家)に活かせる歴史文化部・民俗学/文化人類学をしっかりと学びたいと存じます。

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